たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

船と港の浅深 <石村智著『よみがえる古代の港 古地形を復元する』>を少し読んで

2018-08-04 | 古代を考える

180804 船と港の浅深 <石村智著『よみがえる古代の港 古地形を復元する』>を少し読んで

 

古墳、とくに世界的規模の巨大前方後円墳については、被葬者の比定はもとより、誰がどのような理由でその地につくったかは、古代ファンにとっては尽きない謎のように思うのです。

 

たとえば堺市に並ぶ大山古墳(仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)は、大きさでは第1と第3番目で、ほぼ一列のように並んでいますね。この位置にあることについては、古墳築造時、海岸線がもっと後退していて古墳に近い位置にあったので、海上からよく見えるところに作り、国内はもとより海外からの使者に対して大和王権の威力を示す意味があったと言った解説を聞くことがあります。

 

たしかに縄文海進の後長く海岸線が陸側に浸食していたでしょうから、古墳時代では大山古墳の周濠部まで海辺から数100mとか近接していたかもしれません。現在でも埋め立てたとは言え、近い海岸線だと数kmでしょうか。

 

戦後の埋立、護岸工事で日本の海岸線の中で自然海浜はほとんど失われてしまったのではないかと思います。遠浅だったところも、埋立で陸地化する一方、浚渫して喫水の深い大型タンカーなどの着岸が可能なように港湾開発が進みましたね。多くの人にとって、古代における海上交通の様子をイメージすることは容易でないと思います。

 

ところで、石村智氏は特異なアプローチで古代の船と古代景観を復元する作業を試みています。石村氏は、東京文化財研究所 無形文化遺産部 音声映像記録研究室 室長(わかりやすく勝手にスペースをいれました)という、寿限無ほどではないですが、とても一度では覚え切れそうにない長い名前のついた役職にあります。

 

その石村氏は、わが国の船は縄文時代以来古代さらには中世くらいまで、喫水の浅い船を使ってきたことを踏まえて、船が停泊する港、津ですね、これも深さが浅いところで、とりわけラグーン(潟湖)のような地形が利用されていたというのです。

 

石村氏は、著作『よみがえる古代の港 古地形を復元する』の中で、その実像を船の構造、そして地名として使われてきた「津」「浦」の位置などをGISを駆使しして、全国の中で、陸化する以前の古代景観を復元する作業をしています。

 

石村氏は、わが国では、船の形態として、喫水の浅い、平底が使われてきたとして、近世になって喫水の深い構造船が使われるようになっても、平行して喫水の浅い平底の船が使われてきたというのです。

 

そうなんですね。先日、奈良の民族博物館で、戦前の農業道具や林業道具を見てきましたが、ちゃんと平底の船が展示されていました。それは洪水に遭った場合に備えて軒に備えておいたものだということで、このような事情は戦後もある時期までは続いていたと思います。

 

さて古墳時代についても、石村氏はアプローチしていますが、対象はもっぱら神功皇后伝説の残る、兵庫県たつの市を流れる揖保川河口域にある、権現山51号糞や輿塚古墳で、当時の海上交通との関係性に少し言及しています。

 

他方で、河内湖(ラグーン)や吉備の穴海(ラグーン)も取り上げていますが、前者は古市古墳群には触れず、後者は造山古墳(日本第4の大きさ)や作山古墳(第9)がラグーンのすぐそばに描かれているものの、海上交通との関係性までは触れていません。

 

で、石村氏の着眼点の特徴は、喫水の浅い船であることから、船上にある人間の視界範囲を極めて限定的に捉えています。それはカヌーとか、シーカヤックで海上から陸を見るとすぐ実感します。喫水の少し深いヨットでもそうですが、ちょっと沖に出ると海しか見えません。地球の丸さを感じるのはもちろんのこと、極めて狭い視野しかえられないことを感じます。

 

それを石村氏はさらにより数値的に明らかにしています。石村氏はシーカヤックでは水平線までの距離が、3~4kmほどしかないというのです。その計算式を紹介しています。

 

「水平線までの距離=L海里、

水平線上の目標物(島・山・灯台など)の高さ=Hメートル、

海面から目の高さ(眼高)=h メートルとすると、

計算式は、

(H+h) × 2.083L 」というのです。

 

石村氏は、眼高を1mとして水平距離を求め、2.083海里、3.858kmしかないというのです。1mの眼高はシーカヤックでは得られません。古代の平底船も立つことやよほど波静かでなければ海上で立ち上がるのは容易でないでしょうから、ちょっと無理かと思います。ま、大目に見てといった数値かと思います。

 

では最初に話題にした大山古墳や上石津ミサンザイ古墳が海上から見て偉容さを誇るためであったという議論が合理的かと言いますと、私は疑問に思うのです。

 

最大規模の大山古墳ですら、墳丘長は525mあり、結構な大きさですが、高さは最大で39.3mです。小山にも満たないのですね。いくら横に長くても(といってもせいぜい500m強)、高さが40m未満では、先ほどの

海上からの水平距離の観点からはよほど近づかないと見えないのですね。

 

瀬戸内海を通り抜け、難波の海にやってきても、生駒山系や金剛山系は見えるかもしれませんが、よほど近づかない限り、この大きさでは気がつきませんね。

 

では大山古墳近くに国内各地や海外から船がやってきていたのでしょうか。陸上交通はどうでしたか。古墳時代に竹内街道など堺付近からヤマトに通じる道があったかどうか、私は知りませんが、疑問に感じています。わざわざ大山古墳や上石津ミサンザイ古墳を見るために船を浜辺に乗り付けて、上がるというのはあまり考えにくいのです。

 

なお、シーカヤックで海上を漕いでいると、古代の浜辺はとても着岸が楽です。それは平底船も同じです。遠浅ですから、すっと岸につければいいのですね。現在は、漁村でも港湾でも、喫水の浅い船にとっては着岸して陸に上がるのが大変です。漁村ではそのためにわざわざスロープを作っています。護岸がすべて喫水の深い船用に作っていますので(むろんそれぞれの喫水に応じて深さも違いますが)、原始的な船は苦労します。

 

といろいろご託を並べましたが、私には大山古墳や上石津ミサンザイ古墳が海から見た偉容さを誇るためであったという意図については疑問です。だいたい中百舌鳥古墳群でも陪冢以外の多くの前方後円墳の方向など、とてもその説とは相容れないように思うのです。

 

というわけで中途半端な著作の紹介になりましたが、関心を抱いた方は是非、通読をおすすめします。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。