180823 許可制のあり方 <京都土砂崩れ ・・>や<耕作放棄地や所有者不明農地の存在>を少し考えてみる
今朝の毎日記事<京都土砂崩れ昨年トラック2500台以上搬入 対応後手>(これはウェブ記事の表現で、紙面記事は少し異なり、「京都残土投棄 規制外地」といった見出し)は、以前もこのブログで取り上げた京都市伏見区の大岩山の惨状について、法的問題に言及し、また写真で拡大表示されています。さらに<空撮・西日本豪雨:不法投棄土砂 住宅目前に>では、動画で周辺の山容が映っていて、この景観破壊や山地の安全性が問題となっています。
毎日記事(飼手勇介記者)では、当該山林では大量の建設残土が持ち込まれたこと、京都府は土砂条例が制定されているものの、京都市内は規制対象外となっているということで、適用されない問題が指摘されています。
でこの懸絶残土の量はというと、<毎日新聞が入手した記録によると、昨年6~11月に1日最大89台のトラックが出入りし、少なくとも9500立方メートルの土砂を土地所有者に無断で搬入していた。>
この問題に対し京都市は、<宅地造成等規制法に基づき、土砂の傾斜を30度以下にして崩落を防ぐよう土地の管理会社に指導。>したということです。
これに対し、<請負業者によると、整形目的の「是正工事」として大型トラック約3000台、計約1万6500立方メートルの土砂を8月中旬までに運び込んだ。>というのですから、驚きです。京都市が関与したら、1.5倍以上に持ち込み残土がふくれあがったのですね。どのような目的と基準で、是正を指導したのでしょう?この京都市の行政対応は適切と言えるのでしょうか。
とはいえ、私も過去に許可行政を取り扱うわが国の地方自治体の権限行使の実情を経験したことが何度もありますが、京都市が特に異例とまでいえないように思います。
わが国の土地利用規制の法制では、許可権と監督権が行政の権限として、各法律によって多少のちがいはあるものの、認められていて、適正な土地利用を図ろうとしているともいえます。しかし、実際には許可権限自体、一定の基準に適合すれば許可する義務があり、他方で、無許可という違法な行為があっても、監督権の行使については抽象的な定めしかないこともあって、違法行為を元に戻すといった原状復旧を求めるような権限行使はまずないようにおもえます。
そのため違法業者はやり得的な意識も根付いて、敢行するケースが少なくないように思えるのです。
それと本件では宅地造成等規制法に基づくとありますが、同法の規制対象は「宅地造成」で、2条の定義では「宅地以外の土地を宅地にするため又は宅地において行う土地の形質の変更で政令で定めるもの(宅地を宅地以外の土地にするために行うものを除く。)をいう。」となっています。ま、規制区域内であることは問題になっていないのでしょう。他方で、この定義にあるとおり、非宅地を宅地にするため、あるいは、宅地内で、土地の形質の変更を行うことが対象行為となるわけですが、はたしてこの宅地造成に該当するのか気になります。
本来なら、同法の許可基準に適合する、安全性を確保する工事計画を提出させ、技術的な安全性を審査した上で、是正工事をさせるべきであるのに、業者任せになっています。これは本来の監督行為とは言えず、是正指導ともいえないでしょう。京都市自体が同法の適用に自信がなかったのでしょうかね。
私は以前、何年間か、こういった監督権行使を行政の責任者と繰り返し協議したことがあり、行政の苦労も多少は知っておりますが、今回そのような汗をかいたのか疑問が残ります。
で、ここまでは前置きでして、今日の本題は、農地の許可制を考えたいと思っています。時折、楜澤能生著『農地を守るとはどういうことか』を拝読しているのですが、楜澤氏は許可制の意義を強調して墨守するかのような姿勢を示されています。私はその機能を一定評価しつつ、少なくとも現行許可制は換骨奪胎する必要があると考えています。
今回も詳しく同書を引用して議論することはしませんで、農地法の耕作者主義と許可制の問題点の一部を取り上げようかと思っています。
私は農地改革がうたった耕作者主義が当時としては望ましいと思いますし、いまでも可能であればそういう方向に進めればと思うのですが、現実はその理想と隔離するばかりではないかと思うのです。
それは農地法を含め農地利用法制すべてが、手続における民主性や公開性、判断における自主的な裁量性を欠いている点に重要な問題の一つがあると思っています。加えて、他の都市計画法などの土地利用規制との調整が適切になされてきたことがなく、端的に言えば、耕作者主義とか食糧自給とかの目的に資するような制度的な担保がない中では、形骸化の道を辿るのもやむを得ないと思うのです。
耕作放棄地一つとってみても、ようやく指導や勧告などを制度化し、農業委員会の権限強化というか明確化を図ったかもしれませんが、後の祭りのごとく感じます。委員自体も農家も、そういう意識を醸成する環境を失っていませんか。
耕作者主義をうたいながら、耕作しない農地を放っておいた付けは、現在、農地の10分の1に達するといわれる40万haの耕作放棄地(この数字はずっと以前から変わらないように思いますし、全体を把握できているか疑問です)ではないかと思うのです。
他方で、農地転用や農地の権利移転を許可制にして、農業委員会や都道府県知事などの権限にしてコントロールする制度設計は、週末ファーマーがすでに200万人を超え、他方で兼業農家がほとんどという状態の中で、適切な運営を行えているとは思えません。
兼業農家がムラの共同体の構成員であっても、ムラの共同水利や共同作業、祭りの担い手として、これらを適切に維持してきたかというと、それも疑問符を投げざるを得ないのです。むろん私が体験したのはわずかなもので、ムラ社会もいろいろですから、しっかり充実したところもあるでしょうけど、現代はすでにあらたなコモンズ社会を求めていると思うのです。
話を戻して、許可制の弊害の一つをあげておきます。たとえば、農地の第三者への移転は農家要件(農業経営体であることが求められます)をクリアする必要がありますが、新たに農家になりたい人にとっては参入障壁となっています。また、農地を相続した人で農業をやりたくない人にとっても、難儀な問題です。
それに若い頃は元気であっても年をとれば、農作業は若い人の手伝いがあれば別ですが、なかなか容易ではないでしょう。農業には当然、跡継ぎがいるという前提で農地制度が構築されていますが、すでに農村社会にも孤立した高齢者が増大しています。
もう一つ重要な問題があります。零細分散錯圃という日本固有の農地利用です。農地を分散して、それぞれの気象条件や季節に応じて栽培する手法はそれ自体、以前は有効だったと思います。しかし、○畝(アール)とか、1反(10アール)未満とかの零細な農地があちこちにあると、合計で数町(ヘクタール)保有していても、移動距離だけで、耕作時間が大幅にとられてしまいます。
若い頃ならともかく、どんどん遠いところ、不便な農地は、耕作するのが億劫になるのもやむを得ないでしょう。他方で、住宅地が農地に侵食する(土地利用規制が有効に働かない)ところでは、次第に非農地化が進みます。
そんなとき、子供のいない農地所有者はどうしましょう。子供がいても農業を離れてしまった高齢の親はどうしましょう。
認定農業者制や農地バンクなど、以前からさまざまな新たな取り組みがなされてきましたが、実態に即したものとなっているか、有効に機能しているか、気になるところです。
で、かなり脱線しましたが、許可制の問題の重要な一つは、許可要件に適合しないということで許可しなかった場合の、後の処理が見過ごされているように思うのです。
許可条件に適合して許可されれば、農地の移転、新たなの農業者が耕作を開始して新たな船出を飾るでしょうし、農地も新鮮な試みがなされるかもしれません。
でも許可されなかった場合、その農地はどうなるでしょう。それこそ、耕作放棄地を作り出す契機になるかもしれません。許可しない場合のモニタリングが行われているといった話は聞いたことがありません。いや、これまで無許可で転用されるといったことはよく聞きます。
これらの自体が希なケースであればよいのですが、そのようには思えないのです。許可制を新たな制度設計をして、活き活きとした農地制度に蘇らせる時期にきていないのかと思うのです。
今日は台風が来ていますので、早めに仕事を終えようと思っていました。ところが、それに輪をかけたように、被疑者から声がかかって警察署に行く必要がでてきました。そんなわけで、今日はさらに早く仕事を終えるため、ブログも早く書き終えました。また明日。