たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

「ボランティア」治山 <尾畑春夫さんのボランティア精神>と<水害は人災>を兼ね合わせて考えてみる

2018-08-24 | 災害と事前・事後

180824 「ボランティア」治山 <尾畑春夫さんのボランティア精神>と<水害は人災>を兼ね合わせて考えてみる+補足

 

Newsポストの本日付ウェブ記事<2才児発見、尾畠春夫さんが説くボランティアとしての心がけ>を読むと、尾畑さんの魅力を改めて感じます。

 

最近の高齢者の話題というと、病気の心配からはじまって何をしたらいいかわからないとか、少しでも若返りたいとか、あるいは年金収入が目減りして将来が不安とか、孤立生活や孤独死のおそれ、さらにはお墓にしようか散骨にしようか、遺産争いにならないようにどうしたらよいか、などといった煩悩のようなものが尽きません。

 

ものは考えようですね。欲望を求めれば尽きません。不安をさがせば浜の真砂です。2歳児の超がつくすごい生命力にも驚かされましたが、その子を発見した尾畑さんには人間の生き方として魅力を感じさせてくれます。

 

だいたいボランティアの心構えが生き方としてすばらしいですね。

< 軽ワゴン車に食料や水、寝袋を積み込み、助ける側から一切、力を借りないことが信条だ。「自己完結するのが真のボランティアだ」と尾畠さんは語る。

「もちろん対価や物品、飲食、これらは一切いただきません。決して“してやる”ではなく、“させていただく”の気持ちで私は臨んでいます」>

 

尾畑さんは悠々自適で暮らしているわけではないのです。

<「私の収入は国民年金だけ。月に55000円です。お金がないなと思ったら、朝ご飯だけ食べて、昼と夜は食べない。それだけのことです」>

すがすがしいですね。78歳にになってこれだけ生一本のような生き方ができれば、あれこれ悩む心を超越しているようにも思えます。

 

その信条は次のようなところから日々つみかさねてきたのでしょうか。

<「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」──それが尾畠さんの座右の銘だ。>

 

尾畑さんの生き方をみていて、昔の僧侶というか、社会に尽くそうと思った人は古い時代からいたのではないかとふと思ったのです。

 

たとえば行基ですね。国家宗教として国家が認めない限り僧侶となることができなかった8世紀初め、優婆塞や優婆夷など多くの支持者を動かして、全国各地で、橋を架けたり、ため池や灌漑用水路を作るなど土木事業のほか、寺院道場をつくって導いたり、あるいは貧困者に布施屋など窮民施設を作って施したりと、ボランティア活動の先駆け的大事業を行いましたね。当初は活動を禁圧され排斥されましたが、最後は奈良大仏の造立責任者になるなど、彼の指導力は国家権力も動かしましたね。その彼を指導した道昭も先達として各種社会事業を行い、行基もその後を追ったのかもしれません。

 

その後も僧侶の中にはそういう社会事業、救済事業を率先して行ってきた人が数多くいますが、それが現在でも一部の僧侶などにも影響を与えているのかもしれません。

 

災害時は緊急事態ですので、本来は国家や行政が行うべき事業がなかなか対応できないのが現実ですから、個々、あるいは組織的なボランティア活動は必要不可欠だと思うのです。

 

そのボランティア活動について、社会規範的なルールというか、作法というか、心構えが自然に生まれたり、リーダーが規律することができればいいのですが、なかなかうまくいかないのが現実でしょう。そのようなとき昔であれば、行基のようなカリスマが生まれたかもしれませんが、現代では尾畑さんのような普通の人が理想的な姿を見せてくれるのも、現代的と言えましょうか。

 

ところで、ここからが今日の本論で、なぜ災害が起こるのか、むろん自然の脅威は人知の及ぶところでないことはまず理解しておく必要があるでしょうね。他方で、人為的な原因で起こる災害もあるでしょう。水害といわれるものは人災といって良いかもしれません。

 

小倉康幸著『水害は人災だ』では、自然の脅威によるものは別として、人災による水害が起こっていると指摘して、その対策を述べています。

 

近時の水害は、異常気象による異常局所的豪雨が頻繁に発生し、その結果、土砂崩れ、土石流、深層崩壊などの山林部での形態的な破壊が頻発するほか、山林部から流れる河川の合流部や支流で、越堤、堤防破壊などによる浸水被害をもたらし、人的物的にも甚大な被害となっています。

 

その原因をダム放流や堤防の強化などによる河川水量の制御を中心に進める国交省の従来型の姿勢に対して、長年林野庁で現場管理に従事してきた小倉氏は同著で「森は死んでいる」と述べて、治山・治水こそ重要だと指摘しています。

 

山林を健康に育てていれば、山林および下草がもつ保水力、土壌保持力などで、土砂崩れなどを防ぎ、最近よく取り上げられる流木の流出も防ぐことができるというのです(本書は13年前発行ですが)。

 

それには間伐や下草刈りを適切に実施することで、健康な山林、森林に育てることができるといのです。それにはどうするか、林業経営が市場経済の中で各林業者が経済的採算性を確保することが困難であり、国・行政の支援が必要と言うのです。

 

最近、ようやく国の財政において森林環境税が現実化する動きとなっていますが、このような問題提起が指摘されて、おそらく30年は経過しているでしょう。その間に、森林の治山力・治水力は大幅に低下してきたと思います。

 

そしてもう一つの問題は担い手です。緑の雇用制度の普及で、相当数の若い未経験者も林業社会に入ってきて、少しずつ木漏れ日が当たってきているように思いますが、まだ本来の治山力を発揮するには相当の時間を要するでしょう。

 

そんなとき、高齢者で時間をもてあましている人、若い人で仕事のない、あるいは仕事を見つけられない人、ボランティアとして林業社会に入ってくる人がいないかとふと思うのです。林業は木を切って、自然を破壊するといった一面的な見方をするのではなく、適切な間伐により木々を健康に育て、下草を育て土壌を保持して、治山・治水を有効に働かせ、事前の水害防止となることを考えてみて欲しいと思うのです。

 

災害後のボランティアの役割も大切です。災害が起こらないように活動するボランティアも求められていると思うのです。

 

今日は中身のある仕事の書面を書こうと思ったのですが、どうも乗り気にならず、つい尾畑さんの記事に目が移り、ブログを書いておしまいにしたいと思います。

また明日。


補足

私のブログの中でこの文が人気があるのですが、どんなことを書いたのか忘れていて今日、ふと覗いてみました。誤字脱字は相変わらずですが、内容は割合まっとうなことを言っています。我ながら意外といいなと思ってしまいました。それは尾畑さんの体験からほとばしる一言一句が心に響いてくるからでした。言行一致というか、言葉よりもを行いを大切にする、そのような人間としての真摯な姿勢に打たれてしまうのです。


私自身、この言葉と生き方を肝に銘じて、高齢者として生きたいと思うのです。尾畑さんは私にとって道しるべ的存在です。