180807 人生の旅路 義と愛 <赤神諒著『大友二階崩れ』>を読みながら
先般、賞受賞の書籍を紹介しながら、数枚めくっただけの感想を書いた赤神諒著『大友二階崩れ』を日曜日に読みました。やはり一気読みでした。面白いのです。昔、司馬遼太郎の歴史小説を読んでいた頃のような刺激を思い出させてくれました。
著者にはそのストーリーについて聞きませんでしたが、彼は私にはもう一つの『大友の聖将』の方が好みかもしれませんと言われました。信仰がテーマになるようですので、そう彼が言ったのかもしれません。たしかにタイトルも魅力的です。だいたい、「二階崩れ」って何でしょうという感じでした。とはいえ、いつかどちらも読もうと思っていたのですが、なにか気になって読み出したら、とまりません。
帯には「義を貫く兄がいた。愛に生きる弟がいた・・・」と義と愛の相克といったことがメインテーマかなと思いつつ、その義とは何か、愛とは何か、そしてそれぞれの価値観にしたがって、あるいは求めて生きると何かが、大友家内紛や領地拡大といったことと絡み合いながら、予想しない展開が次々と起こっていきます。
私はこの書籍の紹介をしようとしているのではありません。うまく紹介できるとも思いません。ただ、ここに書かれている義とは何か、愛とは何かについて、当然かもしれませんが、現代に生きる私たちにとっても重要な何かを問いかけているように私は思ったのです。それは勝手な解釈かもしれませんが・・・
著者は、義という言葉をどう使っていたか、いま具体的な表現を思い出せませんが、主君への「忠義」といった意味合いで登場人物のうまく采配していたように思います。
私自身、義という言葉を真剣に考えてきたわけではないですが、古今東西を通じて、人間の行動原理として重要な原則の一つではなかったかと思うのです。それぞれの時代、あるいは身分制、階級制、あるいは格差社会の中で、その意味は多様であったかもしれません。
愛という言葉がわが国で使われるようになったかは知りませんが、少なくとも愛という言葉を使わなくても同様の意味を持つ言葉(コミュニケーション表現)はやはり同様に原始の世界から各国で長い歴史を築いてきたのだと思います。
著者が示す愛の表現は、割合自然な夫婦愛、兄弟愛、親子愛、同僚愛、それと対峙するような肉親を殺されたことによる憎悪の気持ちも愛と相克するような、もだえ苦しむような形で表現されていたかと思います。この辺は歴史小説を好む読者を意識していたかもしれませんし、愛の強さを巧みに表現したものかもしれません。
私が少し注目したのは義の多様性であり、義の中の相克です。大友家当主の正妻の嫡男が跡継ぎと決まっていたのに、側室(妾?)を溺愛しその子が生まれると、前者を廃嫡にして、後者を後継にするという専断を下したことで、義を求める生き方が彷徨するのです。それは主君の行いが正義に反するものであれば、命を賭して諫言し、それが受け入れられなければ、切り捨てられことを受け入れるのでしょうか。いや、受け入れられなければ主君に反抗するのではなく、従うのでしょうか。
この著作では、主人公とともに諫言した無二の親友は、主人公よって介錯されるのです。そして主人公は、主君の指命を甘受して、嫡男を助けるつもりで廃嫡に動くのですが、嫡男側が逆に主君を殺し、主人公は危うい立場に追いやられるわけです。
こういった状況は、命まで関係しなくても、現代の企業、行政、研究機関など組織では起こりうることではないでしょうか。では義とは何かです。ある権力構造を想定して、その権威にそって行動することは義とは言えないでしょう。
他方で、最近の忖度事情は、義がもっとも嫌う権威に媚びる、おもねる行為ではないかと思います。もり・かけ事件からはじまって、東京医科大事件の不正合格から女性受験生の一斉減点扱い、女子レスリング・パワハラ事件、日大アメフト反則事件、ボクシング協会理事長事件などあまりに頻繁に目立ちます。組織の中に義というものが感じられないともいえるのです。
私の仕事も本来、ある種の義を求めるものです。弁護士法は「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」を弁護士の使命としています。それこそ義がなにか常に問われるべきことだと思います。上記のようなひどい事態は論外としても、はたしてそうなっているか、自省する必要があると思うのです。
では愛とはなにか。著者は夫婦愛を重視した位置づけをしているように一見、思えました。しかし、それは当然、兄弟愛、親子愛などとともに、各種の義との相克が常に折り重なっているようにストーリーが展開しているのではないかと思うのです。
一見、主人公の弟は、妻子に対する愛情を、兄や主君に対する義のうえをいく、家庭本位に映ることもあります。しかし、弟は、主君を守り、兄の助けを期待しながらも、それが期待できないこと知っても端然とし、妻子のために生き抜こうとするのです。そして窮地を脱しようとしたそのとき、若い頃に自分を救って命を絶った傳役(もりやく)の子が敵に囲まれ万事休すであるのを見過ごしにできず、妻子への愛を投げ出して、自分の命を差し出し、救うのです。弟が最後に選択した、愛と義のあり方はどうとらえたらいいのでしょう。
著作のいい加減な紹介を避けようと思いつつ、適当な引用をしつつ、つい取り上げてしまいました。おそらく私が義と愛というものを、改めて考える契機になったからだと思います。
そこには義とは、愛とは、その具体の行動選択は参考になるものの、現代日本に生きる私たちにとって、それを真摯に考えないと曖昧なまま人生を送ってしまいそうな現実を振り替えさせる意義を見いだしたのは私一人ではないように思うのです。
人生という長い、あるいは短い旅路は、何を目指すのか、そしてどのように生き、死ぬのか、ふと考えてしまったのです。
今日はこの辺でおしまい。また明日。