たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

独り居と孤独 <ヘンリー・D・ソロー著今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』>の「独り居」を読みながら

2018-08-27 | 心のやすらぎ・豊かさ

180827 独り居と孤独 <ヘンリー・D・ソロー著今泉吉晴訳『ウォールデン 森の生活』>の「独り居」を読みながら

 

最近、朝とか夜、朝焼けに染まる高野の山々を見たり、夜空の星に包まれた漆黒の森を見ながら佇んでいると、悠久の自然の中に溶けてしまいそうになります。ま、半分冗談ですが。

 

今日はとくに書くテーマも浮かばず、またいつもの才蔵頼みにしようかと思いつつ、古今東西の事柄や日々の思いをクールに歌い上げるように展開する、そして若くまた老獪さも備えたようなソローの文章に久しぶりにつきあってみようかと思うのです。

 

それは原文にあたってみていませんが、佐渡谷重信訳だと「孤独」という見出しで、今泉吉晴訳だと「独り居」となっている部分です。

 

ま、ソローのこの著作は、ボストンから少し離れたところにあるコンコード村郊外のウォールデン池のそばで、たしか2年くらい一人暮らしをしたときのエッセイですね。その間独り居として暮らす中で感じ経験した日々の様子を繊細な感覚で綴っていて、どの部分を読んでも何らかの影響を受けるように思います。

 

以前も、なんどか取り上げたような記憶がありますが、今回は「独り居」にしたいと思います。

 

彼にとっては暴風雨も自然との対話と感じるのでしょうか、心静まるかのように?受け止めているようにさえ感じられます。

「春と秋には長い暴風雨がやって来ました。暴風雨は朝に始まり、午後も一日続きました。家に閉じ込められた私は、びゅー、びゅー、ざあざあいう絶えまない暴風雨の激しい音を、心地よく楽しみました。」

 

私も暴風雨や雷など、自然の脅威と言われているものは、それを見て感じるのが好きです。以前、東京湾に面した谷間地形の崖上に済んでいましたので、海風、潮風がもの凄い勢いで自宅の窓をたたきつぶさんばかりにぶつけてくることがありました。それが少しは畏怖を覚えつつも、自然の猛威の素晴らしさを感じる絶好の機会と思い見ていました。

 

その代わり潮風のせいで、建物全体の痛みが早く、結構修繕費がかかりましたが・・・窓ガラスは強化ガラスだったせいか、びくともしませんでしたので、私の暴風雨とのご対面は安全地帯でのそれですから、ほんとの意味での自然の脅威に包まれるとはいえないでしょう。

 

それに比べ、ソローの場合は、簡易なたしか丸太で適当に建てた掘っ立て小屋の様なちっちゃな部屋といっておかしくない、方丈の小屋でしょうかね。すきま風という名の寒風も、平気ではいってくるでしょう。暴風雨だと小屋ごと飛ばされるほどの揺れになるのではないでしょうか。冬山で嵐に遭いテントの中でおびえているに等しい状況にもかかわらず、ソローの心意気は高揚しているのです。

 

ソローは森の中の一人生活と孤独について、明朗に語っています。

「私は独り居が寂しいと感じたことはなく、ほとんど孤独感にさいなまれもしませんでした。」と。

 

とはいえ、ソローも最初のほんの一瞬、不安や寂しさを感じたようです。

「森で暮らし始めて数週間経ったころのこと、私は近くに人がいないと、豊かに健康に暮らせないのではないか、と不安になったことが一度あります。ほんの一時間ほどでしたが、ひとりでいると、気分がおかしくなるのではないか、と思えました。」

 

それはすぐに変わるのです。

「私は、自然の社会には、雨という温かな、やさしく力になってくれる仲間がいることに気

づきました。私は、雨の滴の一粒一粒に、雨の音のすべてに、そして私の家を包む雨の情景のどこにも、限りない、言葉で言い尽くせぬ親しみと友情を感じました。自然のすべてと雨のすべてがひとつになって、空気と同じように私を抱いてくれると感じました。それと共に、私が勝手に思い描いた、近くに人がいたらいいという考えは消えました。」

 

それは雨だけではもちろんありません。あらゆる自然を構成する仲間がソローの伴となっているのです。

「森のマツの針のような葉も、私への共感をもってゆっくりと聞き、伸びて、私の友人になりました。私は自然の社会に、気の合う、いわば血縁関係の近い仲間がいるのがわかるようになり、人々が粗野で不毛だという自然の景観や場面も、親しみをもって見るようになりました。私にとって、血縁が近く人間的に感じられる仲間は、必ずしも人ではなく、村人でさえありません。今の私は、自然のあるところならどこでも、初めての場所だとは感じないでしょう。」

 

彼は人と触れ合うことを拒むわけではありません。人はもとよりあらゆる自然の訪問者を大事に扱うのです。ただ、人にはそれぞれ独自の原理があり、彼のそれとはかなり異なることを多くの場合独白していますが・・

 

ただ、人との付き合いについては、ソロー流のシニカルな語りで次のように述べています。

「私たちの社会と社交は、つまらないものになっています。私たちは、人に会う時間が長すぎ、多すぎて、会う人に伝える新しい価値を身に付ける暇がありません。日に三回、食事のたびに人に会い、考えが硬くなった自分と同じ古いチーズをまたしても噛み、話の種にしようと四苦八苦します。私たちは、こうした社交のつまらなさをしのぐために、早い話がいらいらしてケンカにならないように、エチケットと呼ばれる規則を作らねばなりませんでした。」

すごいですね、エチケットに対する痛烈な批評でしょうか。

 

「私たちは郵便局で人に会い、社交界で人に会います。そのうえ夜にも、暖炉の前で人に会います。私たちは、わざわざ寄り集まって暮らし、邪魔し合い、ぶつかり合い、つまずき合います。私の考えでは、私たちは社交のために互いに尊敬できなくなっています。社交を少なくすれば、大切なことを伝え合う、心を込めたコミュニケーションができるでしょう。」

彼が大都会ともいえるボストンから離れて生活することにした理由かもしれませんね。

 

で、ソローは何を大切に思ったのでしょうか。

少し長いですが、この文章も意義深く感じてしまいます。

「一度死んだ人が生き返るとしたら、蘇る場所や時間を選びはしないでしょう。どこでもいつでも同じで、たまたま蘇ったその場所と時間に、素晴らしい経験ができたと喜ぶでしょう。人は、たまたまめぐり合った場所と時間に応じて、すべての感覚が心地よく働くのを経験するのです。」

 

「私たちが一生の聞に重ねる経験のうちで、人々が高く評価する経験の多くは、本当の暮らしから見れば、見てくればかりでたいした経験ではありません。高い評価は私たちの心を乱し、気を散らすばかりです。」

 

「そうではなく、私たちのすぐ近くにあるあらゆるものと物事に、私たちの暮らしを作る本当の力が働いています。私たちのすぐ近くで絶えず働く、素晴らしく壮大な法則に触れる経験こそ大切です。私たちは、自分で雇った職人が近くで働いているのを見ると、ありがたいことだと親しく感謝の言葉をかけます。でも、じつは、本当に私たちのために、すぐ近くで働いているのは、私たちを生み出した創造者たる神というべき職人の手です。」

 

ここでソローは、多彩な表現を使って独り居の大切さというか、孤高の荘厳さのようなものを自然の多様なありようとともに語ってくれていますが、いまの私にはうまく的確にとらえきれません。ま、秋の夜長に、この一冊があれば豊穣の心持ちを方丈の空間で味わうことができるのではと思うのです。

 

今日はこれにておしまい。

これから警察に接見にでかけ、そのまま帰りますので、今日は早めにブログを書き上げました。

また明日。