180816 玄冬の心意気 <山中捜索の78歳、勘的中>や<ミクロネシアで戦後を終わらせようとする元島民>を考えてみる
以前、五木寛之著『玄冬の門』を紹介したような気がします。五木氏は、中国の人生の分け方として、青春、朱夏、白秋、玄冬を取り上げて、玄冬を高齢期、老年期だと思うというのです。その「玄冬の門をくぐれば」では、多様な楽しみ方、生き方を紹介しています(ま、こういういい方は適切ではないですが)。
その言葉をふと思い出す出来事が、今日のニュースで取り上げられていました。一つは毎日記事<行方不明「ぼく、ここ」2歳返事 山中捜索の78歳、勘的中 山口>で、2歳児が3日間も山中で一人、沢の水だけで生存できたことの快挙というか奇跡こそ、すばらしいですね。マムシやイノシシなど、遭遇すると命の危険もあったでしょう。いや、真っ暗闇で山中で過ごすことくらい怖いことはないでしょう。私自身、大人になって一人でなんどか経験しましたが、畏怖と変な侠気が入り交じった感覚でしょうか。この子はすごいです。
でも、玄冬の達人もすごい。記事では<大分県からボランティアで捜索に加わっていた尾畠(おばた)春夫さん(78)が山中に入り、沢近くで座っていた理稀ちゃんを見つけた。>
この尾畑さん、ただものではないですね。<尾畠さんは東日本大震災や西日本豪雨などの被災地にも積極的にボランティアに行き、2016年12月に大分県佐伯市で当時2歳の女の子が行方不明になった時もボランティアで捜索に参加した。その経験から「子供は現場から下ることはまずない」と思い、理稀ちゃんが最後に目撃された道路に従って山中に入り、発見につながったという。>
さらに別のネット記事を見ると、尾畑さんは玄冬の達人なんですね。<ボランティアの難しさ「善意」と「ニーズ」のマッチング>では、<76歳ベテランが引っ張る現場>とマネジメントもしっかりやっています。そうかと思えば<復興へんろ道 74歳・本州一周徒歩の旅>まで次々と思いを遂げる試みにチャレンジしています。
ところで、玄冬の達人を取り上げるのが本日のテーマではありません。ただ、尾畑さんは東京・日の出町出身で、私もなんとなく縁があるところなので、彼の魅力に惹かれてつい長くなりました。
本題は、<「最後の楽園」今も終わらない“戦後”>で紹介されている<ミクロネシアで戦後を終わらせようとする元島民>です。今朝のNHKおはよう日本でたしか取り上げていたように思います。ウェブ記事でははっきりしませんが、情報はここをみるとだいたいわかります。
その島民とは、<その思いで、奔走しているのが首都があるポンペイ島に住む植本盛さん(87)です。>
<日本人の父とミクロネシア人の母との間に生まれた植本さん。終戦後、15歳で家族とともに、生まれ育ったミクロネシアから日本に引き揚げました。戦後まもない日本での生活は経済的に苦しく、廃品回収をするなどして家計を支えました。
その後、建築関連の会社を立ち上げ、従業員12人を雇うまでになり、ようやく生活が安定した>
その植本さんが、終戦後30年ほどしてミクロネシアを訪ねて、その貧しさに驚き、戦後はまだ終わっていないことを痛感するのです。日本統治からアメリカ統治に移ったものの、産業育成が図られず、島民に仕事がなく、若者は島を出て、年寄りだけが残ったのです。大量消費文化だけは導入されましたから、あちこちゴミだらけです。
私たち日本人は太平洋各地に派遣され亡くなった軍人たちのことを思い、遺骨収集に取り組んできました。しかし、日本が統治し、アメリカと戦争を起こした結果、多くの島々国々では生活や環境を壊されたり、伝統的な仕事を奪われたりしたのではないでしょうか。
そのような事態について、私たち日本人は一体、知っているでしょうか、知ろうとしたでしょうか、なにかしてあげたことがあったでしょうか。戦後復興期は別にして、いまは自分たちの老後がどうの、仕事がどうの、と心配ばかりしていますが、それですまされるのでしょうか。私が何かできるわけではないですが、少なくとも自分の心配ばかりする日本人の狭量さを恥じるばかりです。
ところで、植本さんは、たしかに元島民ですが、玄冬期を迎える55歳のとき、<「この国のために何でもやってやろう」・・、経営する会社をたたみ、安定した暮らしも捨てて、妻とともにミクロネシアに移住しました。>
何か明確な採算なり計画があったわけではないようです。それこそ、ためにするという心意気でしょうか。奥さんもすごいですね。
そして植本さんがはじめたのがコショウ栽培です。<高温多湿な気候に合っていて、安定した現金収入が見込めます。年に4回収穫できるというのも魅力でした。>その着眼点はすばらしいですね。
でも農業経験もない植本さん、大変な苦労だったと思います。<試行錯誤を繰り返し、10年かけて特産品に育て上げました。当初、100本しかなかったコショウの木は、6000本に増えました。>
植本さんは、自らの成功を目指したのではなく、島民の経済的自立を意図したのです。
<コショウ生産のすそ野を広げようと、地元の人に苗木を無料で配ったうえで栽培方法も指導。今では約20の農家が栽培するまでになりました。
さらに、安定した収入を得られるよう、地元の農家が生産したコショウを高値で買い取っています。>
そして今では<植本さんが育て上げたコショウ。香りが高く、アメリカや日本などに高級品として輸出されてきました。生産されている島の名前から「ポンペイ・ペッパー」と呼ばれ、地元の特産品として人気となっています。>
玄冬期を迎えた私、いやどんどん過ぎていきそうな私ですが、今日紹介した2人はいずれも私のお師匠です。いつ脱皮するか、考えていきたいと思います。
今日はこれにておしまい。また明日。