たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

シェアエコとリスク <相互扶助と市場 シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら

2018-08-28 | 心のやすらぎ・豊かさ

180828 シェアエコとリスク <相互扶助と市場 シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら

 

先日物別れに終わったケースで訴状を書き上げ、今月末には訴状提出を予定していたら、相手から示談書が送られてきて、一件落着となりました。印刷していなかったので紙がムダにならなかっただけでなく、印紙代なども含め費用を削減できました。

 

と思いつつ、別の訴状を書き上げ一段落です。裁判なんかしなくてすむ社会が望ましいのでしょうけど、おそらく縄文時代は?ですが、弥生期、遅くとも古墳時代には裁判による解決が求められてきたのでしょう。日本書記に記載されている十七条憲法では、百姓が次々と訴訟を提起していて、官僚が業務に真剣に取り組んでいないと、解決できなくなるような趣旨の条文がありますね。ここで百姓といっても農民と限定するより庶民一般のことを指すのでしょうか。

 

そんなわけですから、裁判による解決はそのやり方は変わっても、いつの世にもなくならないものなのでしょう。それでも江戸時代には、ムラ社会が相当程度独立して、自立的な共同体を形成し、司法行政立法をある範囲で行っていたのだと思われます。その意味では幕藩体制も、武士のいないムラ社会の独自性を認め、農民を中心とした武士以外の工商などの人々が経済的にも文化的にも豊かなコミュニティを形成できていた部分があったのではないかと思うのです。

 

入会林野や水利秩序は、そのような共同体だからこそ、独自に維持し経済的にも成り立っていたのではないかと思うのです。竹林や雑木林などをうまく利用して優れた製品・商品を作り上げ、農業社会と両立するようにうまくやっていたのではないかと思うのです。

 

ところで、そういったムラ社会を成り立たせていたのは五人組といった幕藩体制の制度的裏付けもあったと思いますが、相互扶助の精神が自然に強い絆で結びついていたのではないかと思うのです。

 

しかし、現代の都会生活はもとより、江戸時代から続くムラ社会も、多くはすでにそういった相互扶助の結びつきが形骸化し、弱体化していると思われるのです。

 

長々と前置き綴りましたが、今朝の毎日記事<相互扶助と市場シェアエコが社会変容迫る 井手英策>を読みながら、シェアエコの急速な広がり(というより私自身がほとんど実態を知らない)の中で、今後どうなっていくのか、TV解説では明朗な語りの井手氏の解説を読みながら考えてみたいと思うのです。

 

<シェアリングエコノミー(シェアエコ)>という言葉や取引は最近、よく聞きますが、実態はよく分からないというのが本音です。

 

昨日でしたか、中国のタクシー代わりのシェアシステムを利用した運転手が乗客を殺したといったニュースが流れて、これが2回目で、最初の時はあまり気にされなかったのが、今回はもう利用しないといった声が大きくなっていましたね。

 

さて記事ではその意味内容について<シェアエコとは、デジタルコミュニティーを利用しながら、モノ・サービス・場所などを多数者が交換・共有する仕組みのことだ。国外ではUberやAirbnb、国内ならメルカリ、minneなどが有名だろう。>と紹介しています。

 

ところで政府は成長を切り札のように次々と政策を手を変え品を変えてやってきましたが、どうもその成長がぱっとしないように見えるのです。いや株価が上昇している、賃金が上がっている、企業投資も増えていると政府は言うかもしれませんが、どうも作られた張り子の虎のように思えて仕方がないと考えるのは偏見でしょうかね。

 

トランプ旋風でアメリカの株価は上昇する一方ですが、どうも多くの白人層がその年金にしても賃金の一部にしても、株式投資に流れていて、多くが実体経済より株価が上昇することにのみ関心が強くなっていることが背景にあるように思えるのです。ま、日本の場合はアメリカに比べてそこは段違いですので、その分の心配はないですが。

 

それにしても政府はGDPの増加を水増ししようとしているのか、早ければ20年度にはシェアエコをこれに参入する方針と言うことで、井手氏は問題提起しているのです。

 

<GDPは1年間に生み出される付加価値、富の合計額だ。個人どうしの取引、中古品の売買、民泊などが除かれるため、算定の過小評価が問題となっていた。>こういった取引も付加価値とみることはできるわけですね。

 

しかし、井手氏は統計の基準改定にはさまざまな要素を考慮して慎重であるべきとしています。

 

統計の精度を高めるというとき、GDPには社会的に好ましくない要因が含まれているが、この扱いは検討しなくてよいのか。

 例えば、車の渋滞によってガソリンが消費されれば、GDPは増大するが、環境は破壊され、通勤時間も増える。また、ギャンブルやアルコール消費のための支出は、必要不可欠な支出と区別できない。いずれの例でも、GDPの増大と同時に、公害やワーク・ライフ・バランスの劣化、治安の悪化、暴力といった社会的なコストがつきまとう。>

 

さらに根本的な問題をも取り上げます。経済の過大評価の危険性ですね。

<ケインズの言葉を現代風にアレンジすれば、「あなたがお手伝いさんと結婚すれば、GDPは減少しますが、提供されるサービスは変わりません」ということだ。>これはわかりやすくてケインズも思わずにやりとするかもしれませんね。

 

GDPと幸福との関係、その指標を多様化することと指標を変えることの違いを指摘しつつ、井手氏は根本的な問いかけをしています。

<なぜ僕たちはこんなにGDPを重んじるのだろう。それは、所得が減り、貯蓄ができなくなった瞬間に、将来不安に直面する社会を作ったからだ。>と。

 

ただ、井手氏が断定的に述べる<僕たちの暮らしの根本には消費がある。消費できなければ、生存はままならず、自己顕示欲も満たせない。>このフレーズの消費とは極めて多義的な意味を含んでいるように思います。ケインズの消費ともひと味違う気がするのですが。

 

<ケインズはひとつ重要な見落としをした。それは、みんなが必要と感じ、相互扶助的に満たされてきたニーズだ。>このニーズは消費には含まれないものなんでしょうね。

 

井手氏はこの相互扶助的ニーズについて<僕らの税で政府が提供するサービスはまさにこれである。初等教育、警察、消防など、個人を超えたすべての人びとが必要と感じ、相互扶助的に提供しあってきたものがあり、これを政府が吸いあげて財政システムが生まれた。>と指摘しています。

 

こういったことは江戸時代のムラ社会ではすべて村の中で自治的に行われてきたと思うのです。むろん現在の農村社会でも消防では一部になっていますが、とても自立的とは言えませんね。

 

ここで井手氏はシェアエコがこの相互扶助的な部分の一部を代替するような将来性を考えているのでしょうかね。

<シェアエコもまた、経済取引と相互扶助が結びついたものだ。地域コミュニティーが弱っていく半面、ネットには次々と新たなコミュニティーが生まれた。これを媒介として、泊まる場所、移動手段、生活用品といった、だれもが必要としつつも、身近な者どうしでなければ交換・共有できなかった財・サービスが市場に解放された。そして相互扶助的である分、市場よりも安価に商品が売買される。>

 

こういったサービスにはたしかに相互扶助的な一面があると思いますが、それはかなり薄められた、ある意味で相互扶助とはほど遠いものではないでしょうか。ある種大きな枠組みで相互扶助という言葉を使うことができるとしても、それは本来の意味での相互扶助を超えていませんかね。ま、政府がGDPの枠組みに入れ込もうとするのと同じ危険があるように思えます。

 

他方で、井手氏が指摘するように従来の制度では対応できなくなっている問題

<出生率の低下、所得水準の下落、格差の拡大、どれも世界的に起きている現象だ。この歴史の峠をどうやって乗り越えるのか。>はいずれにしても新たな考え・発想が必要でしょう。

 

<生活保障の再構築に加え、ここでは市場の姿が変わっていく事実に注目したい。>というのは理解できます。しかし、

<眠っていたモノ・サービス・場所がデジタルコミュニティーをつうじて発掘され、安値で売買される。絶対的ニーズや相対的ニーズとも違う、だれもが必要とする生活ニーズを埋める新しいかたちだ。>というのは、はたしてこういった問題に対処できるほどのシステムでしょうかね。そのリスクはまだ図りかねています。それに「デジタルコミュニティ」という仮想空間で生まれてくるその感覚は、空疎で内実の乏しいものになりかねないおそれもあります。

 

むろんデジタルコミュニティはほんの糸口で、そこからすぐれた豊穣の世界を形成していく可能性もあるでしょうけど、私はいまのところ、懸念の方が大きいように思えるのです。

 

人が相互扶助を本質的に求め、そこから得られる満足感を大切にする本質をいまも備えているのであれば、より根本的な取り組みを期待したいと思うのです。

 

ちょうど一時間が経過しました。今日はこのへんでおしまい。また明日。