たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

湿地の現代的意味 <諫早湾堤防閉め切り20年 漁師と農家、根深い対立・・>を読んで

2017-04-15 | 自然生態系との関わり方

170415 湿地の現代的意味 <諫早湾堤防閉め切り20年 漁師と農家、根深い対立・・>を読んで

 

有明の中、窓の外には少しかけた望月が残っています。そろそろ野鳥たちも目覚めの時でしょうか。するとちょうど聞こえてきました懐かしい鳴き声ピッピチュ・ピーチュー・ピリチュリチュー」です。この聞きなしは「一筆啓上仕候」(いっぴつけいじょうつかまつりそうろう)なんて言われていますが、私の偏屈な耳ではとてもそう聞こえません。ともかくかわいいホオジロのつがいが庭木に泊まって鳴いています。

 

そういえば昨日のツバメは、私がうっかり?窓を開けて出ていたので、帰ると置き土産を残して立ち去っていました。むろん気分のいい餞別とは言いがたいですが、あちらこちらに小さな塊がありました。

 

この程度はかわいいもので、西欧各国の都市部で騒がれるスターリング(ムクドリ)の糞と騒音は愛鳥家でも閉口するでしょう。とはいえわが国でも不忍池や首都圏各地で多少とも問題にはなっています。それでも愛鳥家や生き物との共生の思想が根付いているせいか?さほど大きな問題になっていないようです。カラスの場合は別ですが。

 

その思想の根底はというと、仏教思想でしょうか、いやそれ以前の縄文時代から伝わるものでしょうか。いずれにしてもいまでは山林草木悉皆仏というのは人口に膾炙しています。それは先のブログで引用した(?このブログでなくfbで議論したかもしれません)『森の生活』を発表し、自然保護の父とも評される19世紀半ばに現れたヘンリー・D・ソローや20世紀初頭にリードしたアルド・レオポルド(『野生の声が聞こえる』の著者)よりもずっと以前に日本人の中に育まれた思想ではないかと思うのです。

 

その意味では、南方熊楠はすごい人ですね。彼については、一昨日の毎日夕刊で取り上げられていて、このブログのテーマにしようかと思ったのですが、あまりに超越した博物者で行動力も卓越していて、なかなか一筋縄ではとらえきれない人ですね。とはいえ、彼を日本における自然保護の創始者的存在とすることには疑問を感じています。たしかに神社合祀反対運動などを通して神島などの自然生態系を保護する鬼気迫る運動を行ったことは確かでしょうが、彼には自然保護という観点はさほど明確にあったとは思えないのです。

 

その意味では、19世紀末に生まれ日本野鳥の会の創始者である中西悟堂の方がふさわしいかもしれません。でも私はあえて5代将軍綱吉を上げたいと思っています。彼の治世では、生類憐れみの令が悪名高いものとして常に取り上げられ、問題にされてきたように思います。しかし、そもそもそのような法令自体存在しないし、個別に多くの生態系保護に匹敵する法令を発布しています。私自身、まだきちんと検討していないので、それらの散在する法令の意義・効果について、しっかり整理できていないことから、このような評価は根拠なしと批判されてもやむを得ないと思っています。

 

しかし17世紀末の段階で、世界広しといえども、これほど多様な生物の保護を徹底した国は日本だけだったのではないかと思います。彼が好きだった犬だけが保護の対象であったわけでありませんし、他方で、犬を殺したり、魚釣りをしたりしたら、直ちに厳罰になったわけでないことは、とりわけ地方では当然のことだったようです。

 

さて前置きはこの程度にして、本論に入りたいと思います。毎日記事<クローズアップ2017 諫早湾堤防閉め切り20年 漁師と農家、根深い対立 地裁と高裁、判断正反対>は深刻な問題を提起しています。

 

有明の海、有明海は豊饒の地(湿地)でした。諫早湾はその地形的特徴から海水と淡水が入り交じり、出入を繰り返す中で、豊かな海産物、生物の宝庫として、湿地の一つである干潟を形成してきました。

 

ところが、農業が長期衰退する中で、狭小農地、零細錯圃の農地形態が一般的である西日本では、競争力のある農業、若い農家が起業できる一定規模の、そしてインフラ整備した農地を必要としていたという状況が長く続いていました。

 

諫早湾を閉め切り、海水流入を阻止することにより、そういった競争力のある農業に提供する農地を造成することが可能になるといったことが農政の長年の願いだったのでしょう。しかし、それは堰の鋼板が一斉に海に落とされ、閉め切られた瞬間、「ギロチン」と漁民をはじめ関係者から発せられたことに現れているように、まさに豊饒の地、湿地の価値を失うに等しいものでした。

 

その後、漁民、漁協からの開門を求める仮処分申立や損害賠償請求訴訟、それに対し農家、営農者から開門禁止の仮処分申立や損害賠償請求訴訟が、それぞれ地裁、高裁で争われていて、容易に決着できない状況にあります。

 

私自身は、四半世紀以上前から湿地保護の立場に立って少なからず運動体の一員として活動してきました。そして日弁連では、湿地保全を目的とした人権大会シンポジウムを福島で開催したのは0210月でした(このとき福島県の東西南北を走りましたが広さに驚き、また美しさに感激しました、原発被災の悲惨さを感じています)。このときの日弁連として「湿地保全・再生法の制定を求める決議」を発表しました。

 

そして日弁連は翌0310月には、この干潟閉め切り問題を取り上げ、「諫早湾干潟の再生と開門調査の実施を求める意見書」を発表しています。それからすでに約14年経過しています。いまなお解決の糸口が見いだせない状況は、やはり初期段階の検討が不十分であり、地域の実情に応じた関係者からの切実な意見聴取を繰り返し行い利害調整して、結論を導くべきであったように思うのです。

 

すでに閉め切った状態が長期化していることから、この状態を踏まえて丁寧に双方当事者の意見を改めて聴取し、弾力的な解決を望みます。双方の意見の一致を見ることは可能性としてはほとんどないかもしれません。しかし、この問題は当事者だけの問題ではないと思います。国民の多くから、そして将来世代への責任という観点からも関心が寄せられており、なにが望ましい公益かを具体的な議論を踏まえて結論を見いだして欲しいと思うのです。

 

ところで、この問題とは異なるものの、東日本大震災の復興計画で早々と決まり実現しつつある巨大防潮堤は、私には諫早湾閉め切りの二の舞のように思えて仕方がないのですが、これも湿地の価値を重視する立場からかもしれません。

 

なお、一言付言すれば、農地、とりわけ水田もまた重要な湿地です。そもそも湿地地帯から多くが水田に変わっていったというのが奈良盆地や古代河内湖の土地利用であったようにおもうのです。ある意味、農業は自然破壊の側面を持っているわけです。だからこそ縄文人は長く抵抗してきたのではないかと思ったりしています。とはいえ、水田も生き物の宝庫です。福岡で「農本主義」を進めている宇根豊氏は「農とは人間が天地と一体になることだ」と語る百姓の言葉を引用しつつ、自ら百姓こそ生き物と共生する本来的な職業であり、資本主義に対抗できる仕事であることを自負しています。

 

法律論も重要ですが、宇根流の農本主義であれば、漁業との共生、湿地生態系との共生も可能ではないかと愚考するのです。


建築の耐震性 <日弁連シンポ「木造戸建住宅の耐震性は十分か?」・・>を読んで

2017-04-14 | リスクと対応の多様性

170414 建築の耐震性 <日弁連シンポ「木造戸建住宅の耐震性は十分か?」・・>を読んで

 

今朝は気分よく5時前に目覚めました。しばらくするといろんな野鳥のコーラスで賑わってきます。昨日も寝床の横に置いたまま寝入ってしまった『強欲の帝国 ウォール街に乗っ取られたアメリカ』を少し読みました。

 

わかりやすくリーマンショックの背景というか、アメリカ金融資本の実態を追求していて、たとえば企業の存続よりも、CEOをはじめ現場のトレーダーたちまで、個人としていかに多くの報酬をストックオプションや現金で獲得できるかに関心がいっていて、そのことにより多くの人が莫大な損害を受けても関知しない、まことに個人主義の徹底、個人的な「マネー追求主義」でしょうか、見事に表現されています。とても面白いのですが、なかなか読み切れないでいます。

 

6時になると庭の手入れやいろいろ作業があり、あっという間に出かける時間になります。そして今日は電気工事などの立会があり、自宅に立ち戻りました。さて出かけようと思ったら、思いがけない珍客です。野鳥の紳士、ツバメです。玄関ドアを開けっ放しにしていたためか、入ってきて出られないで家の中を飛び回っています。間近でツバメを見るのはあまり経験がないので、写真を撮ろうとするのですが、さすがツバメ返しの必殺技と名付けられるだけあり、素早い動きです。これまで部屋の中に、メジロ、セグロセキレイなどの経験があり、いずれも素早さでは負けていない印象です。

 

残念ながら、高所に立てこもり、うまく外に出すことが出来ず、とりあえずそのままにして仕事場にやってきました。これまで窓ガラスに当たって一旦気絶するというのは割合多く、大きいのではトビ、ヒヨドリなどがいましたが、いずれも残念ながら暖かく柔らかい体を掌に乗せてあげたものの息を吹き返すこともなく、土の中に埋めてやりました。中には暖かいタオルなどに包んで置いていると、目覚めて元気よく飛び回ることもあります。

 

さてこういった田舎生活の出来事は時折あり、意外と暇でもてあますということはないのです。

 

この話題はこれまでとして、今日の本題に入りたいと思います。たまたま日経アーキテクチャの今朝のメール便に見出しのテーマがあったのと、毎日記事でとくに興味を抱くものがなかったので、これを今日のテーマに取り上げることにしました。というか、シンポの司会者の吉岡氏、一度も会ったことがないのですが、地盤リスク工学会の研究会のメンバーで、積極的に活動しているようでして、現在は名前だけのメンバーになっている私としては、吉岡氏がどのようなシンポを開催しているのか興味を抱いたこともあります。

 

で、熊本地震については、先日、NHK番組について、住宅を支える・地盤リスクの問題としてこのブログでも取り上げましたが、日弁連シンポでは、建築リスクという住宅そのものの問題として議論しています。

 

熊本地震は、被災建築物の調査の結果、建築基準法の耐震基準の3段階に応じて、その有効性に明確な差が出ていることが判明しています。

 

日経ビルダー記事によると<日弁連消費者問題対策委員会土地・住宅部会委員の安田周平弁護士が弁護士会で入手した熊本地震の被害分析を報告。>

 

宮澤健二・工学院大学名誉教授が益城町内の被害集中地域で行った調査報告によると、以下の3期に分類しています。

815月までの旧耐震基準(第1期)

816月以降005月までを新耐震基準(第2期)

006月以降の新耐震基準(第3期)

 

安田氏の報告では、<“国交省は接合部不良が主たる原因としているが、それ以外にもたすき掛け筋かいやホールダウン金物の偏心配置などの不良施工がある”、さらに“このような被害は少なくとも審査・検査を省略する4号特例がなければ発生しなかったと言える”などの宮沢氏の指摘も紹介した。>と「このシンポのメインテーマ「4号特例」が問題の一因と結論づけ、その見直しを求める方向に議論を向けています。

 

これに対し、<国交省住宅局の石崎和志・建築指導課長は、「倒壊防止という意味で現行耐震規定の有効性を確認した」として、接合部の適切な設計・施工がなされるよう注意喚起することで足りるという姿勢を示した>と、安田氏による指摘に反論しています。

 

そして石崎氏によれば、

旧耐震(第1期)28.2%(214棟)、

新耐震(第2期)8.7%(76棟)、

32.2%(7棟)

<という倒壊率の調査結果を挙げ、「顕著な差があり、倒壊防止という意味で現行耐震規定の有効性を確認した」と述べ、「この差は新耐震の壁量は旧耐震の約1.4倍あるためと考えられる」と指摘した。 >ということで、新耐震基準、第2期、さらに第3期でより強化されているとの立場に立っています。建築行政の責任者としては当然でしょう。

 

 <また、「住宅性能表示の耐震等級3の住宅は新耐震基準の約1.5倍の壁量が確保されており、軽微・小破16棟で大部分が無被害であり、効果があることが当たり前の事実として確認された」とも述べた。

 さらに、「新耐震は倒壊した83棟中77棟で状況を把握・分析したが、原因は地盤、隣接棟、蟻害、それと接合部不良でこれが最も多い。壁や金物の偏心は調査時には分からなかった」と述べ、「耐震基準をさらに強化するのではなく、既存ストックを含め、現行基準が求める耐震性の確保を目指す」として、現行の仕様規定や「4号特例」を見直す必要性があるという認識は示さなかった。>

 

基本的には現行耐震基準の有効性は相当程度証明されているといえるのではないかと思います。しかし、これに対して<日弁連消費者問題対策委員会土地・住宅部会幹事の神崎哲弁護士は、00年以降に建てられた木造住宅にも問題があったと反論した。>

 

神崎氏は、施工瑕疵に加えて設計瑕疵を指摘しています。前者の問題はどのような耐震基準を設けても施工監理が適切に行われていなければ起こりうるわけですので、後者の問題がここでは主要争点となります。神崎氏は自らの設計瑕疵をめぐる訴訟事例を3つ取り上げて指摘しています。

 

1つ目は、2階建てで設計者が途中で交替した案件(A)。引き継いだデザイナー系建築士が大幅な設計変更を行って柱・梁を撤去したことで種々の構造欠陥が発生し、争いになった。吹き抜けが建物のあちこちに設けられ、水平剛性を期待できないという。>

 

マンションのような共同住宅であれば、設計変更はもちろん構造計算のやり直しが求められるでしょうけど、戸建て住宅だと、そもそも構造計算が想定されていないので、このような設計変更も新耐震基準の厳格性を張り子の虎状態にしてしまう危険はあるでしょう。

 

これは設計する建築士にも問題があると同様に、施主においても安易に設計変更を求める姿勢、その場合の耐震性の確保をあまり考えていない、その分の費用増加を想定していないことにも問題の背景があるようにも思うのです。

 

2つ目は、建築士資格のないリフォーム業者が中古売買を仲介したうえロフトの増築まで行った案件(B)。1階・2階とも平面上の同じ位置で狭窄しているが、ゾーニングをせず、全体を一体として壁量を検討しており、大幅な偏心が疑われる。現在係争中だ。>

 

マンションなどの場合、偏心構造は当たり前?かもしれませんし、構造計算もそれに応じてしっかりやっているのが本来でしょう。ところがマンションでも、地盤の地質状態に応じた偏心基礎構造にできているかというと、実際に掘ってみて初めて分かる場合も少なくないんので、その後に構造計算のやり直しで変更確認をとることも少なくないのではと思うのです。

 

しかし、中古住宅での増改築の場合、当然、偏心状態になり得るのですが、その点を踏まえて構造計算をするといった建築士はあまりいないのかもしれません。信頼できる建築士であれば、当然のこととして、施主に費用負担をお願いして改めて構造計算するでしょう。しかし、4号特例があると、建築士としてもそこまで施主にお願いするのは躊躇するのが風つかもしれません。

 

3つ目は、建築士の提案で小屋裏物置を設置した2階建ての案件(C)。実質3階建てで下屋もあり、その天井高さが主屋の床とずれてスキップフロア状態になっている物件。水平剛性と壁量の不足などを現在争っている。>

 

最近は規制緩和で、木造3階建てが増えてきているように思います。しかも上記のような変形というか、多様な3階建が生まれているように思うのです。すると構造計算も複雑になるのではないかと思います。そのような設計におけるデザインの自由性はこれらからも拡大すると思うのですが、そのことにより耐震性が脆弱になるリスクも増大するように思うのです。それを従来の4号特例ですましておいてよいか、今後もより具体的な検討・議論を深めてもらいたいと思います。

 

神崎氏は以下の提言を行っていますが、これを議論の俎上に乗せるに当たっては、施工上の瑕疵との峻別、地盤リスクの問題との峻別は事例の中でわかりやすくしておく必要があると思います。

 

<(14号建築物にも建築基準法で構造計算を義務付ける。

24号建築物について構造計算以外の構造安全性確認方法(建築基準法2014号のイの仕様規定)を残すならば、壁量の見直しなど規定の水準を改正し、水平剛性の見直しなど規定の方式を改正し、さらに梁断面寸法、柱・壁直下率、狭窄部がある場合の平面分割検討など項目を追加することで充実化・厳密化を図り、構造計算をしてもNGが出ない水準に改める。

34号建築物について、建築確認手続きにおける構造審査の特例(4号特例)を撤廃する。合わせて4号建築物を設計・監理できる建築士を限定する方向へ建築士制度を改革する。>

 

なお、上記の議論とは関係ないですが、参考までに国交省の耐震対策についてURLを援用しておきます。

 

国交省 住宅・建築物の耐震化について

http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/jutakukentiku_house_fr_000043.html 

建築物の耐震改修の促進に関する法律等の改正概要(平成2511月施行)

http://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/build/jutakukentiku_house_fr_000054.html 

 

今日は割合、時間に余裕があったので、業務終了時間前にブログを書き終えました。ま、終わらせたという、いつもの調子ですが。


契約ルールの基礎 <民法改正案 契約ルール大幅見直し 今国会成立へ>を読んで

2017-04-13 | 日本文化 観光 施設 ガイド

170413 契約ルールの基礎 <民法改正案契約ルール大幅見直し 今国会成立へ>を読んで

 

昨夜は満月の光を受けて寝床もなんとも明るく、蛍の光といった感じで読書も出来たかもしれません。でもバタン休?でねむってしまいました。今朝は生ゴミコンポストの中に、落ち葉をたくさん入れ込んだり、剪定した枝条を少し小さめにして突っ込んだり、コンポストづくりに励みました。

 

春もおぼろでしょうか、いや訂正。月もおぼろでした。お嬢吉三の名台詞、「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空」に続いて、おとせという夜鷹から、百両の金を奪ったことから、「こいつぁ春から縁起がいいわえ」という立て板に水の調子はなんど聞いてもいい気分にしてくれます。が、話の内容はなんとも身勝手などうしようもないもの。

 

それでも歌舞伎の演目でも人気の一場面なのはなぜでしょう。歌舞伎座で観劇すると特に印象に残る舞台になる不思議・・・作者・河竹黙阿弥が生きた江戸末期から明治中期ころまで、世相は複雑・混沌としていたのでしょう。その時代背景にこのような芝居、その台詞が受けたのでしょうか。

 

現行民法が成立したのが明治29年、河竹黙阿弥が明治26年に死亡ですから、明治23年成立の旧民法の時代に晩年を送っていたことになりますね。明治政府は長い論争を経て、一旦、フランス法典を模範とする旧民法ができたものの、ドイツ民法典に依拠する現行民法に取って変わってしまいました。その内容の是非はともかく、長い歴史をたどった現行民法も、ようやく今回大改正の運びとなりました。

 

なんとなくお嬢吉三を登場させたのは、西欧式の文明開化を急いだ明治政府ですが、それまでの取引や社会の秩序はどうだったのでしょう。明治に入っても、それ以前の江戸期、さらに遡れば律令制度以来、ほとんど取引に係わる法令といった具体的なものがなかったのではないかと思っています。では未開の社会だったのか、そうではないでしょう。英米法もまた法典がないけども、慣習法というコモンローが秩序を維持する役割を果たしていました。チェールズ・ディケンズの小説などでは、弁護士が登場し、裁判も取り上げら得ていますが、コモンローという基準で裁判が行われ、それが判例法となって取引秩序を維持していてきたのでしょう。

 

とはいえ、当時の弁護士はというと、平気で嘘をいう、虚偽の証言をさせるといったことが平気で行われていたかのように、ディケンズは表現していますが、実のところはよく分かりません。

 

他方、わが国はというと、むろん日本書紀の中で、厩戸皇子による17条憲法には百姓による訴訟が増えていること、役人は朝早くに出て仕事に励まないと訴訟案件が溜まってしまうと警告しています。長い民事紛争と裁判の歴史があるわけです。源頼朝も紛争解決機能を期待され、武士の棟梁に祭り上げられたとも言われています。

 

江戸時代に入ると、訴訟手続きが次第に整備し、時代劇などでも取り上げられるようになりましたが、裁判の審理のために訴訟する当事者が宿泊する公事宿ができ、その手続きを代理するような代言人という、弁護士の元になったとも言われる職業も出現するようになったわけですね。

 

江戸時代の訴訟は限られていましたが、それでも相当数があったようです。すでに裁判例をあつかった書籍もかなり出版されています。といっても取引社会自体がそれほど発達していなかったこともあり、取引秩序をめぐる裁判はほとんどなかったのではないかと思うのです。

 

紛争がなかったわけではないと思いますが、取引当事者双方が信頼と誠実さを基本においていたのではないか、そのため大きな紛争にはなりにくい状況であったように思うのです。商売人というか、商いというのは信頼が一番というのが近江商人、上方証人、富山の薬売りなど、いずれもそういった観念が支配していたのではないかと思うのです。

 

と長々と前置きを書いてしまいましたが、そろそろ飽きる頃でしょうから、本題の民法大改正(民法の一部を改正する法律案要綱)に話題を転じたいと思います。

 

この改正案は、日弁連も意見書でおおむね賛同しており、私自身ほとんど勉強していませんが、同じような意見です。

 

意思能力や、消滅時効、保証人、約款、敷金などの規定は明示することでより合理的になったと思いますし、その他詐害行為取消権や債権者代位権、根抵当権など、法律要件の整備をしてわかりやすくなっていると評価されています。

 

とはいえ、日弁連意見書でも指摘されているように、取引社会における個人保証に依存する信用供与側のスタンスが依然変わっていない状況は、合理的な取引のあり方、事業に対する収益性をいかに見込むかと言った本来あるべき取引秩序への舵をきったとは到底いえないでしょう。保証人の意思を公証人によって厳格に確認することになった改正案は、それ自体は望ましい改正です。しかし、信用供与のあり方、金融機関などの審査機能のあり方や、新規事業に対する見通しをしっかり読み込み、融資するといった本来企業として望まれる能力が、保証人や担保不動産の価値だけに頼ることで、ますます劣化するおそれがあります。

 

渋沢栄一が株式会社制度を、そして銀行制度を作っていったのは、資産のある個人保証に頼るような事業では将来性がないことを暗に示唆していたのではないでしょうか。

 

今日はたまに早く終わらそうかと思っていますので、ほぼ一時間経過したことから、中途半端ですが、この辺で終わりとします。関心のある方は日弁連意見書をご覧下さい。

 

 

 

 


決算発表のあり方 <東芝 決算、監査意見なし 上場廃止基準該当も>を読んで

2017-04-12 | 日記

170412 決算発表のあり方 <東芝決算、監査意見なし 上場廃止基準該当も>を読んで

 

今朝も少し冷え込んだのか、昨日の疲れが残ったのか、目覚めが悪く6時近くに起きました。でもスギ・ヒノキや華やいだ木々の間を野鳥が歌声を高らかに鳴り響かせて飛び回っているのを見ると、すぐに気分がよくなります。ちっちっと甲高くなく声を聞いて、またシジュウカラかしらと思いつつ、ちょっと違うなと思いながら、わが家の小さな木の方に目をやると、黒い帽子にえび茶の服を来たようなヤマガラでした。さっと勢いよく飛んで言ってしまいましたが、うれしいお客さんです。

 

ちょっとしてウォールデンの森の主にでもなった気分にさせてくれます。ヘンリー・ソローは仕事らしい仕事をせず、まるで方丈記の鴨長明のような生活ですが、私にはまだまだその域に達する見込みがありません。でも気持ち次第かもしれません。ソローがウォールデンの森に住んだのはたしか30代初めくらいではなかったかとの記憶です。

 

それはともかく、今日も、先ほど来客が帰り、ようやくブログに取りかかろうと思うともう7時近くになっています。これから1時間でなにを書くか、はじめは7歳児の交通事故リスクをNHKの朝番組で取り上げていたので、これにしようかと思いつつ、見出しの東芝決算発表は、これまで東芝問題をなんどか取り上げてきていることもあり、節目的な意味合いもあるので、こちらに変更します。

 

毎日記事では、東芝の決算発表が2回も延期になった後、上場廃止になる直前に、<監査法人から「決算内容は適正」との意見を得られないまま異例の発表に踏み切った。>ことを報じています。

 

そして興味深いのは、淡々とした報道の中に、<社長「調査継続 意味ない」 一問一答>を丁寧に記事にしています。この一問一答こそ、東芝の、社長のみならず経営体自体が、アカウンタビリティーを欠落していることを明白に示している、それを毎日記事は証明してくれています。

 

なぜ決算発表が遅れたのか、監査法人との意見の違いとそれに対する具体的な説明を一切していません。これが巨額赤字を長い間放置してきた大企業の責任者がとる姿勢として信頼を得るものといえるのでしょうか。従業員数が一年前の段階で連結で19万人弱という大勢を雇用してきた、いや関連会社や取引先を入れれば膨大な数になるでしょう。そのトップのとる態度でしょうか。

 

ウェスチングハウス(WH)の問題は何度も取り上げているので、ここではその企業の体質や能力について指摘しません。ただ、異なる観点で、アメリカ企業というか金融・経済・会計と大統領選といったものについて少し言及してみたいと思います。

 

昨年の大統領選では、多くの若者が民主党の中でクリントン氏に反旗を翻し、ラストベルト地帯などの白人労働者層がトランプ氏を熱烈に支持していました。その両者ともにウォール街への強い敵意があったように思えます。2000年代の住宅バブルでは、あのサブプライムローンなどを中心に信用のない債務が膨大に膨らみ、そしてバブルがはじけ、多くの失業者、破綻者がでる一方で、リーマンブラザーズのように企業倒産したのはウォール街では一部に過ぎず、ほとんどは救済され、再びトランプ人気にあやかって株式バブルが今のところ続いています。

 

なにが問題かです。アメリカの会計基準は厳格で監査法人の審査も厳しいと言われ、証券市場もSECが厳しい摘発を繰り返しいるとされています。しかしながら、サブプライムローンといった返すあてもない借り手にどんどん貸し出し、焦げ付くのが予想できるのに、そういったくず債権を膨大に保有する企業や投資銀行に、AAAといった評価をしてきたのは著名格付け会社です。ウォール街を構成するメンバーがバブルを生み出し、バブルがはじけてもそれを予想してデリバティブの保険をかけ、生き抜いている、それがウォール街の主要なメンバーではないでしょうか。そして共和党政権であろうが、民主党政権であろうが、常にゴールドマン・サックスなどのCEOが閣僚など政府の主要なメンバーになり、政財軍官のチームとして好き放題やってきた一面をぬぐい去ることが出来ないように思うのです。これは一面的な見方かもしれません。でも昨年の大統領選で示された民主的な意見の根底にあるのは、現行制度の偽善的な実態ではないかと思うのです。

 

私のこの意見の基礎は、チャールズ・ファーガソン著『強欲の帝国 ウォール街に乗っ取られたアメリカ』によるものです(といいたいところですが、なかなか読み切れずいつも途中で寝てしまっている状態です、中身はとてもおもしろいのですが、疲れに勝てない状況です)。 

 

換言すれば、いかに制度がしっかりできていても、それを使うのは人間です。人が勝手気ままにして、それが通ってしまう世界、それがアメリカの一面でしょう。トランプ氏のあの無軌道な発言もありなんでしょう。まだ表に出ているだけ、ましかもしれません。平気でルールを破る偽善者、それ以上に確信犯的な悪の履行者かもしれません。その点、松井知事が小学校設立認可にあたって申請者の申請内容を語るのに性善説で見るという、型にはまった行政マンのような言い訳ですむ世界とはまったく異次元の世界だと思います。

 

それがアメリカの実業界、政治の世界ではないでしょうか。そうだとすると、WHのいい加減な会計処理、とりわけ原発工事の遅れをめぐる損害を相争う相手企業を0円で買収するといった手法は、よほどの会計処理にたけている人(チームとしての会計法人)であっても、とりわけ過去30年以上も経験のない原発工事の会計処理ですから困難きわまりないはずですので、要は不審きわまりないわけで、それを解明しないまま、放置する東芝の対応はとても信頼に値しないです。

 

なお、<東芝の監査委員会委員長を務める佐藤良二取締役も「東芝とWHは海外原子力事業の買収に伴う損失の調査を真摯に実施した。60万通のメールの確認、役員や従業員へのヒアリングを実施した。調査の過程で一部経営者から不適切なプレッシャーとみなされた言動はあったが、財務諸表への影響はなかった。我々とWHの内部統制は有効に機能している」>とのことですが、この説明は外形的な内容につきており、内容はないといっていいものです。それが責任ある監査委員でしょうか。監査委員の責任も問われることになるように思われます。

 

いかに厳格なアメリカの会計基準であっても、それを無視する企業経営者がいて、その企業実体を高く評価する格付け会社があり、それを信頼して世界各地の金融機関や年金基金が買いまくったのはつい最近の事です。そして会計基準をまったく無視した事業が名門企業、大企業として存立できていたわけです。

 

そうだとすると、東芝の不正会計処理の事件の際に、第三者委員会が調査した内容もまた、ある意味で外形的なものにすぎず、むろん原発事業をあえて対象外にしつつ、それ以外の事業もきちんと精査したか、疑念が残ります。

 

このように東芝の再生を願う一人としては(そういえば最近、東芝の家電を買いました)、綱川社長の説明は、はなはだ将来への見通しを暗くするものです。大いに猛省していただきたい。

 

そろそろ一時間です。今日はこれでおしまいです。


女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

2017-04-11 | 日記

170411 女性と権威 <道鏡の由義寺跡 大阪・八尾で塔の基壇を発掘・・・>を読んで

 

今朝は夜中に目覚めその後寝付けが悪く、次に目覚めたのが6時を大きく回っていました。すっかり明るくなっていました。早速、外にでて、庭の草を少しとっていると、パラパラと雨が落ちてきて、早々とあきらめました。するとシジュウカラの軽やかな鳴き声が聞こえてきました。ヤマガラと違い、シジュウカラは住宅地にもよく出没してきますね。まだウグイスの鳴き声が練習段階で、危なっかしい状態です。

 

そんな朝からいつの間にか、今日も業務時間が過ぎてようやくブログに取りかかっています。来客対応があったり、慣れない登記申請など関連作業が多く、時間の経つのがあったという間です。一日まとまった仕事をしている状況にないのですが、これも年のせいでしょうか、仕事がさほどはかどっていないのかもしれません。

 

そういえば、昨日、林家の人たちが集まり、ま、皆さん70前後ですが、ナタに似た枝打ち斧の話題になり、そういうのを扱える人が最近いなくなったといった、(その名前が思い出せませんので、ここでは枝打ち斧としておきます)枝打ち斧をきちんと扱える人だと、軽くスナップをきかして枝をすっぱと一発できってしまうそうです。その切れ具合を測るのに自分の肌毛を剃るそうです。それくらい鋭利で、しかも一定の重量があるそうです。

 

ところが、最近は切り口がきれいな枝打ち用のノコがあり、それ出来ると簡単に切れて、切り口もきれいだそうです。で、どのくらいの高さまで登るのか、どのようにして登るのかを聞いてみると、それに関連して、スギ・ヒノキの巨木だと20mくらいはあるので、その近くまで登るとのこと。その際、何本かはしごを用意し、その後はぶり縄で登るそうです。場合によってはぶり縄を5段くらいにすることもあるといいます。といっても皆さん、年なのでいまやっているわけではないようです。

 

で、私が今もぶり縄で10数mくらいまで登ってやっていると言うと、危ないから気をつけないと、と言われてしまいました。年寄りから年寄りの冷や水的なことを言われるとなんともいえないジョークに聞こえます。

 

と雑談はこの程度にして、今日の話題は、女性天皇制が近時ますます議論されるようになってきていますが、見出しの毎日記事を読みながら、時折、この男性優先社会構造の中で、クォーター制とか、男女均等法とか、さまざまな施策・制度が講じられていますが、まだまだ女性がトップに立つことは容易でない状況にあると思います。

 

韓国の朴大統領の場合も、彼女の不幸な生い立ちも影響しているのかもしれませんが、他方で儒教的な男性優先の社会風俗の中で、周囲がほとんど男性ばかりであり、ガラス張りの意思決定を避け、閉鎖的・秘密裏に行ってきたことが、今回の弾劾罷免にまで到ったのかなと思いながら、称徳天皇のことを思い出してしまいました。

 

両者に関連性も類似性もあるとは思いませんが、なにか女性が権力のトップに立つことの不幸を背負ってしまったようにも思えるのは少し狭量な見方でしょうか。

 

称徳天皇の父、聖武天皇は、曾祖母、祖母、叔母(一時父が10年間のみ在任)と長い間続いた女性天皇というリリーフ的な存在から、生まれながらにして確立した天皇の道を歩んできたと思うのです。でも聖武天皇自身、幼いときに父と死に別れ、母も病気で離れて暮らし、悲しい孤独の中で成長し、天皇になってからも、一方で盧舎那仏を建立するなど仏教国家の樹立を図る一方、九州で起こった反乱以降は転々とする奇行ともいうべき行動に出ています。妻の光明皇后ほど評価されないような印象があります。

 

聖武天皇の評価は単純ではないのかもしれません。娘に天皇の地位を譲るに当たって、記憶では天皇の地位に執着するなといったか、民間から天皇になってもよいといったか、天皇制といった万世一系の虚構性?(曾祖父・天武天皇が確立したか?)にこだわるなといったことを言い渡したとか、言われています。割合自由な考えの持ち主であったのかもしれません。

 

娘が孝謙天皇として、一旦政治の世界に入りますが、当時は政争の中にあり、藤原仲麻呂が結局実質的な政権を握り、孝謙天皇はその傀儡のような状態であったかもしれません。そのため間もなく淳仁天皇に譲位しますが、仲麻呂の独裁的な政治も、長続きせず、再び、孝謙天皇が称徳天皇として返り咲いたわけですね。

 

でも信頼できる人が身近にいなかったのでしょう。看病僧侶として付き添っていた道鏡に頼りきり、ついには道鏡が法王、そして天皇にまでなるところまで行ったのですから、和気清麻呂が出てくるまでもなくどこかで頓挫していたかもしれません。

 

ついでにいえば、道鏡を天皇にするようにという託宣は、あの宇佐八幡宮から出ていますが、この八幡宮はなかなかややこしいです。神功皇后伝説、その子、応神天皇と関係する神宮ですが、このあたりの話しは整理して別の機会にしたいと思います。

 

で、称徳天皇以降、女性天皇はでていません。当時といまでは天皇制も異なり、女性の地位も異なっています。象徴としての天皇という点でいえば、エリザベス女王と比較するのもなんですが、女性が天皇になることはすばらしいことではないかと思うのです。

 

日本書紀や続日本紀に書かれた女性天皇像がどれだけ正確なものか私は分かりません。また、男系の男子のみによる天皇制の継承がわが国の国体的なものというのも、私には合理的な根拠があるのか疑問です。

 

あまり天皇制云々について検討したことがないので、ここで仰々しく議論するつもりはありません。ただ、男系の男子天皇にこだわる理由は、多くの国民には理解しにくのではないかと思うのです。

 

それはともかく、兼行法師の、徒然草第38段で披露している、人生観は、維新前までは割合多くの日本人に受け入れられていたのではないかと思うのです。それを最後に援用します。

 

名利に使はれて、しづかなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。財(たから)多ければ身を守るに貧(まど)し。害を買い、累(わずらい)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎょく)のかざりも、心あらん人はうたて愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。

 

埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらはほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時にあへば高き位にのぼり、おごりを極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、自ら賤しき位にをり、時にあはずしてやみぬる、又多し。ひとへに高き官(つかさ)・位をのぞむも、次に愚かなり。

 

智慧と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは人の聞(きき)をよろこぶなり。ほむる人、そしる人、ともに世にとどまらず、伝へ聞かん人、又々すみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は又毀(そし)りの本(もと)なり。身の後の名、残りてさらに益なし。是を願ふも、次に愚かなり。

 

ただし、しひて智をもとめ、賢を願ふ人のために言はば、知恵出でては偽(いつわり)あり、才能は煩悩(ぼんのう)の増長(ぞうぢょう)せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、真(まこと)の智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は智もなく徳もなく、功もなく名もなし。誰か知り誰か伝へん。これ、徳を隠し愚を守るにはあらず。本より賢愚得失の境におらざればなり。

迷いの心をもちて名利の要(よう)を求むるに、かくのごとし。万事は皆非なり。言ふにたらず願ふにたらず。