たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

地盤リスク <NHK 「大地震 あなたの家はどうなる?・・>を見て

2017-04-10 | 災害と事前・事後

170410 地盤リスク <NHK 「大地震 あなたの家はどうなる?・・>を見て

 

今朝もどんよりした夜明け前。ただ、霧が晴れてまだ日が昇っていないけど、高野の山々が再び美しい稜線をさらしてくれます。空海さんは、どこからこの広大な紀州半島の山の中に、高野の平かな場所を見いだし、そこに聳える八峰の山々に気づいたのでしょうか。いつも木に掛かる一つです。私は天野の明神さんが犬を使って導いたなんてことを信じるタイプではないのです。空海さんは、役行者の後を追って、金剛山系を、あるいは和泉山系を、そして吉野・大峰山系を渉猟する中で、遠くに連座する高野になにかを感じたのかもしれないと、思ったりしています。むろん水銀など高価な鉱物が産出する場所と言ったこともありえたかもしれませんが、まだまだ謎解きには時間がかかりそうです。

 

さて、今日もいつの間にか、8時に近づき、最近、業務時間の6時に終わったためしがない状況に唖然とします。長く毎日が日曜と感じつつ、農作業や林業もどきにうつつをぬかしたり、月20冊以上の読書三昧を続けていたのが、いつの間にかブログを書く余裕もなくなりつつあります。

 

仕事が忙しく収入が増えるというのであれば、それなりにうれしいですが、なにか作業に追われて、一向に余裕が生まれない状況で、収入の方はどうも相変わらず縁がなさそうです。

 

とはいえ指の具合も少しずつ回復基調にあるので、もう少ししたら、字数を増やしてみようかと思いますが、書き始めの段階で疲れ切っているため、一時間程度で今日もまとめたいと思っています。

 

さて本題ですが、「地盤リスク」、最近よく話題になります。私自身は20年位前から長くこの問題に関わってきて、素人ながら、地質専門家、地盤工学専門家などからいろいろ教えを受けながら、各地の開発案件に係わってきました。

 

それであるとき、地盤工学会のメンバーと一緒に研究する機会に誘われ、合宿などを繰り返した後、「役立つ 地盤リスクの知識」の出版まで共同作業をしたことがあります。実際の作業は東日本大震災の前におおむね終わっていたと思います。震災直後にメンバーの中には現地というか各地を調査に入って、リアルな映像を見ることが出来たとともに、こうやって現場で地道に作業している人がいるから被害の実像が専門的な視点で見ることが出来るんだと感じた次第です。

 

また余談が長くなりましたが、NHKドキュメンタリーが昨夜、見出しのテーマで放映されました。

 

私なりに建築の危うさ、地盤の危うさを、これまでさまざまな事例で検討してきましたが、この番組で放映された内容には目から鱗・・の内容がいくつかありました。

 

いくら昭和56年度以降に建築された建築物は、耐震基準に適合しているからといって、地震に対して安全とはいえないことは、ちょっと地盤のことを知っていれば理解できます。地盤調査がいい加減だと、たとえば液状化現象が生じた場合に耐震基準適合は意味をなさないでしょう。柱状図では軟弱地盤でないとされていても、ボーリングコアを見ないとその柱状図が適切に実際の地質を反映していない、偽装されたものだと、意味をなさないことになります。

 

そういえば、森友学園の土壌汚染の例で、柱状図だけでなく、ボーリングコア自体が開示されたのでしょうかね。それを見れば、少なくともボーリング箇所(多くは当該開発地で3箇所か4箇所しかやっていません)の地質状況は分かるはずですね。

 

それはともかく本題に入らないといけないですね。番組では、粘土質の土層は一般に軟弱ですが、その層の深さ、厚さによって、地震の揺れの影響が違うということが実験の結果分かったということです。いや、実際は、熊本地震で、従来、安全と言われていた地域で大変な揺れが発生し全壊した家が集中する箇所があったことと、その余震調査が行われ、その地震による揺れの特徴が分かったという希有な発見となったようです。

 

粘土層が厚ければ厚いほど、軟弱なのだから、揺れが酷くなると思うのは自然ではないかと思います。ところが、実験結果では、深さ20m5m10mを比較すると、その順番で揺れがひどくなるのです。興味深い深さ10mの振動幅の巨大化のメカニズムはよく分かりませんが、実験結果とおそらく熊本の被害地の状況が適合するのでしょう。

 

そしてハザードマップが最近普及しつつありますが、この作成自体は望ましいですが、旧来の知見に基づいて作成している結果、実態に合わない状況が現れています。熊本の事例では、川に近いところはたいていは氾濫原で軟弱地盤が多いことが一般に言われてきました。それでハザードマップも川沿いを地震の揺れが大きい危険箇所としています。しかし、実際に揺れが大きかったのは川沿いではなく、そこから離れた場所でした。

 

従来、地質調査はボーリング調査が基本で、費用もかかり周辺への影響もあり、開発現場はともかく一般的な調査としては使えないかと思います。そのため上記のような地形的特徴とか簡易な診断基準で揺れの大きい地域を推測していたのではないかと思うのです。

 

ところが、最近の振動調査では、器具の名前を確認できませんでしたが、振動計のようなものを地盤上に置いてその下の地層がもつ揺れの程度を診断することが出来るようです。もしこのような器具を広範囲の調査で利用できれば、より地盤のリスクを事前に予測できることになるでしょう。

 

当然、それは地価にも影響することになりますが、希望通りの家を新築して快適な生活を送ろうとしても、最も肝心な地盤が揺れにもろいところだと、砂上の楼閣になりかねないのですから、それこそこのような調査結果を宅地建物取引における重要事項説明事項として必須のものにしていくことも検討されるべきではないかと思うのです。

 

熊本地震で自宅の全壊状況を目の前にして、いかに悲しさと喪失感で放心状態になってしまうか、誰もが共感するでしょう。でもそれは私たちが住んでいる家、周辺の家も、自信をもって安全といえる人はそう多くないとおもいます。

 

ようやくはじまったハザードマップが不完全な物であるかは、私自身、洪水被害に係わるマップのいい加減さについて手直しを求めたことを以前ブログで書いた記憶がありますが、地震の揺れに係わるハザードマップも同じです。私たち一人一人が、自らの体験や知見を基に、それを鵜呑みにするのではなく、しっかり批判的に見ていく必要があると思うのです。

 

これで一時間ちょっと過ぎたようです。今日はこれでおしまいです。


応援 【くにたち上原景観基金1万人の会】

2017-04-09 | 都市のあり方

突然ですが、くにたち上原景観基金1万人の会を紹介させて頂きます。 

私もこの弁護団の名前だけの一員でした。

こんな訴訟で負けるはずがない、そして弁護団は活動しているいずれのメンバーも精力的に見事な論陣を張っていて、一審勝訴までは私もフォローしていたのですが、負けるはずがないとの思いもあり、いつの間にか多くのメーリングリスト(この中に入るとほとんど見ない)に入っていました。

 

そしてつい最近、川崎で一緒に活動したある方のメールで、逆転敗訴確定で、新たな運動を立ち上げるとのことを知り、驚くばかりです。なぜ敗訴か、その原因も確認したいですが、その元気がいまはないので、応援だけでもと思っています。

いまの司法、行政(中央集権の行き過ぎ)への疑問を感じる方は、ぜひこの運動をご覧下さい。上原さんは90年代後半から一緒に活動してきた仲間です。彼女の国立への思いはすばらしく、その歴史的考察は、私も何度か参考にさせてもらいました。また、首長時代、さまざまな建築紛争の中で、単純に住民側の立場に立たず、慎重に法的根拠を探る姿勢をなんどか間近で感じてきました。明和事件での具体的な事実関係は、建築条例制定議会の事件を除き、私自身が関与していないので、正確なことはいえませんが、上原さんのしっかりした考え方からは、違法論は裁判所の誤りだと思っています。

 

 

 


声と音がもつ力 <こころをよむ 人生を変える『声』の力「恐るべき声の力」>を聞いて

2017-04-09 | 人間力

170409 声と音がもつ力 <こころをよむ人生を変える『声』の力「恐るべき声の力」>を聞いて

 

今朝も静寂の中、どんよりした空気が感じられ、目覚めました。これはなんなんでしょうか。体内時計の曙光を浴びて目覚めるというのとは違うようです。あるいは高齢者として早起きになるのかもしれませんが、私は40代から夜、終電ないしは終電に遅れて帰ってきても、よほどでない限り朝6時にはだいたい目覚めていました。

 

当地にやってきて冬は真っ暗で寒いので少し遅いですが、春から夏、秋にかけては日が出ると目覚めています。すると5時前はもちろん、4時台のときも多いのです。この体内時計は、というか体が感じる物は何か、今朝の偶然、耳にした見出しのNHKラジオ番組での講演者、音楽ジャーナリスト・山崎広子氏の話が参考になりました。

 

その話題に入る前に、今日も少々疲れ気味です。雨が降る中、昨日花の苗(昨日は苗木とつい書いてしまいましたが、花ですので苗でしょうか)を3列に植えました。そうすると少しは花園風の感じがでてきたかなと一人ほくそ笑む気分です。窓から見ると、枯れ草が乱雑に生え放題だったのが、少しだけ見栄えがよくなったかなと思うのです。

 

でもその先のなんともいえぬ景観は、とても気分を安らかにしてくれます。一言で言えば、今朝のように深い霧に包まれていると、ロンドン郊外にある霧の田園風景ともいえる懐かしさを感じさせてくれます。イギリス(この表現もイギリス人?は好まないでしょうけど)では、首都圏をちょっと離れると、低い丘のような山、谷が広がっています。その田園景観、果樹畑というか牧草地が境界線を示す灌木ないし樹木がちょうどよいモザイク調で、ドライブを楽しむことができます。

 

それと似ていると感じさせるのがわが家の窓の先に広がっているのです。瓦屋根を中心とした和風の屋敷が点在する中、周りは柿畑がよく手入れされていて、ときどきスモモ畑(いまは白い花が満開)、それらが深い霧でぼんやりと目に映るのです。カメラのシャッターを切った若い頃と違って、一瞬から持続性のある景観を視角野の中に記憶しておくことが多いのです。

 

このように眼が私に感動をもたらせたり、それを記憶させ、過去の画像との類似性や異同などを判別したり、そこからさまざまな判断や感慨をもたらす重大な機能を営んでいることは、知らず知らずのうち、私たちが経験することだと思います。

 

さてそろそろ本題の「声の力」です。私は声の魅力というものに長く関心を持ってきました。おそらく40年近くはなるでしょう。きっかけは、私の声に問題があることを指導教官とも言うべき弁護士に指摘されてからです。T先生といいますが、とても厳しい方でした。すでに物故者となられていますが、以来亡くなるまで年賀状を毎年やりとりするだけの関係となりましたが、これまでに唯一私の声の問題を指摘した人であり、弁護士でした。

 

その後私なりにいろいろ試してみましたが、長続きせず、1000人、2000人の聴衆を前に話すこともある意味で慣れてきましたが、話しの内容とともに、私の声の問題を意識せざるを得ず、10年くらい前からは、そのような公開の場に立つことを避けてきました。そうはいいながら、才蔵ネットワーク和歌山では、いつの間にか私が締めの挨拶をするのが当たり前のようになりつつあり、少々閉口していますが、才蔵の魅力を少しでも届けたいという思いが勝って、自分の声や話しの内容に問題があると意識しつつ、つい表に出ています。

 

さて私の貧弱な声にまつわる話しはそのくらいにして、山崎氏の話は興味深い物でしたので、紹介させてもらいます。今後も続くようですので、興味のある方は毎週土曜日午前645分から40分間を楽しんでください。

 

山崎氏の話で最も興味を引いたのは、人が最初に得る能力が聴覚ということです。いや摂食するとか触れあう感覚とか、いろいろあるんじゃないといっても、母胎の中で最初に獲得するのが聴覚だという指摘は、実験結果を踏まえていろいろ指摘されましたが、実験はともかく、誰もが赤子の様子を見て感じてきたのではないかと思います。

 

そして母はわが子を、子はわが母を、多くの母親の声や赤子の泣き声の中から聞き分けができているそうです。母胎の中にいるときは目が見えない状態ですね。生まれても当分の間は視力は発声と似て、それほどすばやく機能を獲得するわけではないようです。

 

で、このように生まれたての赤ちゃんが相当の機能を持つ聴覚をすでに獲得しており、その能力により危険を回避し、健やかな成長を自ら目指すようです。そして何よりもこの聴覚は、単に聞く能力だけでなく、その音声とそれが意味するさまざまな背景やそれを構成する要素を含む一体の情報を、脳全体にインプットして、人の全身全霊に作用するようです。

 

それはどういうことかというと、音から、あるいは音声から、人はさまざまなイメージを自分の中で体験を踏まえた情報の中で再構成し、あるイメージを作り上げるようです。

 

だからでしょうか。人の話声を聞いただけで、いい印象をもったり、悪い印象を持ったり、その人の年齢・身体的特徴・性格をも推測することに繋がるのではないかと思うのです。

 

この点は、私はいつも不思議に思う、オレオレ詐欺などの電話などを介して行われている大量の詐欺事件について、解決というか、問題が生じる糸口の一つを感じるのです。これだけ多くの詐欺被害が出て、そういう被害防止策をさまざまな情報媒体で告知されているのに、なぜいまも欺される人が次々と出てくるのか、その一つは、電話だけの会話だと、声を通じて、いい印象を受けると、記憶が増幅され過剰なイメージ、敏感な反応になるの場合があるように思うのです。そのいいイメージの声から、肉親と誤ったイメージを一旦形成されると、不安や救済を求められたら、断り切れない状態に追い込まれるのではないかと思うのです。それは視力のよる識別判断とは異なる、仮装の空間が作られる危険性があると思うのです。

 

このような発声側の訓練は巧みに行われているでしょうから、聞く側の聴覚機能が麻痺するほど、その人にとって素敵な音声になって聞こえてくるのでしょう。

 

その意味では、美しい声にはトゲがある?という格言はないかもしれませんが、外部からの電話はそう思ってよいかもしれません。いやいや対面しても、外見はさほど魅力を感じないけれども、声を一旦発すると、一辺で脳細胞を蹂躙というか、魅了させてしまう人がいるでしょう。有能な営業パースンですね。こういう人は男性・女性を問わず、素敵な声の持ち主で、むろんサービス精神も旺盛でしょうけど、声だけで相手を惹きつけるものがあると思います。

 

そういえば、山崎氏の話では、クレオパトラの美人説について、実はそうではなく、カエサルも、アントニウスも、クレオパトラの声の魔力に魅了されたという説が最近話題になっているそうです。私もこの説に賛同したい気分です。オードリーヘップバーンはたしかに美人ですが、その吹き替えの、すみません名前失念、声優の方の声に魅了されます。最近は、原音で見ていますので、少々がっかりするのですが、それはともかく、声優のすばらしい音声でどのくらいその人柄をイメージしてしまうか、自分の脳細胞が試されている思いがします。

 

で、声の話しはこの程度にして、少し声とは飛びますが、私自身は、若干関連性を感じている、<今週の本棚佐藤優・評 『発達障害』=岩波明・著>を取り上げておきたいと思います。佐藤氏は外交・軍事問題を含め広範囲に実践的で貪欲な追求をされる方で、必ずしも賛同する分けではありませんが、鋭い指摘が多く傾聴に値すると思っています。

 

さて彼が取り上げた書籍は、<発達障害の代表的な疾患であるASD(自閉症スペクトラム障害、最近までアスペルガー症候群と呼ばれていたものが含まれる)、ADHD(注意欠如多動性障害)について、最新の医学理論、岩波明氏の臨床経験、さらに刑事事件の解説や文学作品の読み解きを通じて重層的に明らかにしている。>と、この問題の刑事司法におけるあり方をも視野において言及している点をまず指摘しています。

 

これまでも私は精神鑑定のあり方について、なんどか簡単に言及してきており、いつかしっかりと取り組んでみたいと思っていますが、この書籍はそのヒント的なものを提供してくれているように思えます。

 

刑事事件、とくに酷たらしい、非人道的な死傷事件や大量惨殺事件などで、精神鑑定が争点になることが少なくありません。当然、専門家である精神鑑定医が複数人、検察・弁護の双方で鑑定合戦という表現が軽薄ですが、外見的にはそういう様相を示すことがあります。しかし、現在行われている精神鑑定のあり方は、真にその障害の有無、程度を的確に把握するものであるかは検討してしかるべきではないかと思うのです。

 

ここでは発達障害をとりあげて、<人間を支配するのは理性だけではない。岩波氏のように、冷徹な頭脳と人間的な共感力と幅広い教養があわさった専門家が積極的に発信することで、発達障害に対する偏見が除かれ、障害のある者とないものが共存する社会の構築が進むと期待する。>と岩波氏および佐藤氏が警鐘を鳴らすとともに、改善への期待を示しています。

 

では声は、どう関係するのかですが、山崎氏が言及している聴覚と脳への作用について、刑事司法においても、改めて検討することも重要ではないかと思うのです。聴覚は視覚と異なり、視覚で有効な働きをする、嫌な物、見たくない物を回避したり、見たい物だけに焦点を当てるといったことは、聴覚ではできないと山崎氏は述べられていたかと思います。私の聞き違いかもしれませんが、そうだとすると、それは正確ではないように思うのです。

 

騒音事件などを担当していると、いかに人は音を識別し、嫌な音をなるべく聞かないようにしたり、騒音への聴覚の慣れという順応を示すかということが一つの争点なり、事実として取り上げられます。人は本能的に、音の善し悪しを判断し、聴覚作用が識別して、脳を含め全体で回避したり、順応したりする能力を身につけてきたように思うのです。

 

で、発達障害の児童などは、その作用が十分に機能していないのではないかと素人ながら思うのです。そうすると、最近、とりあげた動画<BS朝日 「自閉症を旅する」>では、自閉症の方が体験するのは、社会の風景・音・臭いなど感覚器官すべてに略奪的に侵入してくるインベーダー的存在が跋扈している状態で、それはまさに恐怖でありパニックに陥る状況ではないでしょうか。

 

このような障害者の視点で、刑事司法の責任能力の有無・程度を精神科医は社会的実態を踏まえて検討する必要を感じています。

 

なにを語ろうとしたのか、今日もあまりすっきりしない形で終わりました。とはいえ、しばらく2000字程度に抑えてきたので、指の痺れや体全体の違和感が和らいできたように思います。fbでは半年くらいが最長不倒距離?でこういう物書きを続けましたが、いつも具合が悪くなり断念してきました。この調子だと、fbの記録更新は見えてきたように思います。

 

なにせ千日回峰行ならぬ、千日ブログを目指しているので先は長いです。自重しながら適当に日々のブログを続けていこうかと思います。


方丈記と老後 <介護保険 2割負担の1600人、特養などを退所>を読んで

2017-04-08 | 医療・介護・後見

170408 方丈記と老後 <介護保険2割負担の1600人、特養などを退所>を読んで

 

今朝も昨日からの細雨が残っているようで、どんよりした雲行きの中、目覚めました。雨を嫌う人がいるようですが、私は、自然のなすがまま、というのが好きなので、どのような気象もそれなりにいいものですと言いたいと思います。

 

神さまを信じるだけの度量がないですが、自然がさまざまな姿を見せるのは地球誕生以来、それこそ驚天動地の連続ですから、日本の歴史レベルで経験した気象変動などはとくに驚くに値しないかもしれません。といっても私のこの分野の知見は2000年代のいつ頃か始まったNHKのプラネットアースによることが大ですので、たいした内容ではありません。

 

さて本題に入る前に横道にそれる私ですが、今日も一日作業ばかりしていて、いつの間にかもう暗くなる時間となってしまいました。なにをしたかということもないのですが、庭の枯れ草を刈り取り、花の苗木を買ってきて植えたり、雑多なことばかりです。

 

苗木は60株くらい買ってきましたか。去年、まだ腱鞘炎の具合がよくなく、fbでの今のブログのような内容を日々書いていたのを休止して、あれこれ作業をしていた頃でした。気分転換に花壇づくりをはじめ、試しに苗木を100株ほど植えたのです。どうせすぐ枯れるだろうと思っていたら、結構、長生きするので、次々と買い足して行きました。すぐに枯れてしまい、それでおしまいというのもありますが、何度も何度も枯れてはしばらくして咲いてくれるのがあり、これはなかなか病みつきになります。なかにはどんどん株分けして、当初の数十倍というと大げさですが、10倍は軽く超えるほど大きくなる花もありました。マリーゴールドなんかはその一つです。

 

それで事務所でも花だらけになっていきました。事務所の花が枯れたら、庭に植え直すと、中にはやはり土壌がいいのか、菌類がいいのか、再び開花して長生きするのもあります。不思議な世界と思うのは、花のことを何も知らないからでしょう。

 

以前の英国婦人の庭造りの話しを取り上げましたが、私は以前、TVで放映された番組で紹介された日本人の男性のことを気にかけています。たしか北海道の山の中で、野草を育てる姿を見て、なんとか私もやってみたいと、心の片隅にいつも残っています。

 

一時間600字を目標にしつつ、そんなにコンパクトに物事を整理するには頭をしっかり働かせないと無理な相談で、この字数はいつか頭の切り替えができるようになったらにしておきます。

 

さて、そろそろ本題に入りたいと思います。介護保険の話しと、方丈記の話しとどう関係するか、それは私の勝手な思いから筋道がつくのだと考えています。

 

方丈記では鴨長明が、最初は大きな屋敷に住んでいたが、転居のたびに小さくなり、いまでは一丈四方(約3m四方)の家具も何もない庵を住まいとして時代の世相を写し取り、処世の有り様を綴っていますが、私は、方丈記や徒然草、西行物語など、過去の先達を遠くに見上げながら、この貧しい内容のブログを日々書き連ねています。いずれも当時としては長生きして60年、70年余の人生を全うしたように思うのです。

 

では彼らは高齢になった後どうしたのでしょう。西行については以下の歌を生前に詠んで、そのとおりに陰暦216日、大阪にある弘川寺で釈尊涅槃の日に入寂したといわれています。

 

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)

 

西行さん、そのような自死に近い生きたかをしたのでしょうか。鴨長明や吉田兼好はどうしたのでしょう。

 

五木寛之著作の親鸞では、自分で生きていけなくなると、京の都では、鴨川に捨てに行く、あるいは自らそこに出かけていって死を待つという、状況を丁寧に書いています。五木親鸞では、親鸞が最後に死んだら鴨川に流してくれとか言ったという話しを作家独特の想像力で鴨川における若い時代の親鸞の感性を見事に表現していると思いました。

 

では、私のこのような疑問と介護保険制度の見直し、負担増による特養施設利用の変化とどう関係するのでしょう。関係するといえば関係するし、そうでないと思えばそうでないといえると無責任な話しです。

 

私自身、それほど特養施設に関係したことがあるわけではありませんが、知り合いが経営者であったり、後見人として担当した被後見人が施設入居者だったりして、わずかな経験ですが、入所者的立場と経営者的立場、また、よく事情を伺っていた社会福祉士の方など施設職員の立場も、垣間見てきました。そして自分の母親も90歳を過ぎ要介護度4ですので、いずれは特養にお世話になる予備軍です。

 

特養施設に入ると、おそらく非常に快適な生活というか、何も出来なくてもやってもらえるので、その人にとって安楽かもしれません。家族の人も、介護の世話でくたくただった状況から解放され、安らぎが訪れるかもしれません。

 

でもその人が自由な意思を持っていたら、果たしてそこに入所することを選ぶだろうかというと、少しクェッションがつきます。いや、社会的には望ましいシステムかもしれません。

 

しかし私は、できれば西行のように、自らの死を自分の生きたかで選べる体力と知力を持ち続けたいと思うのです。西行がそうできたか、また、空海もそうできたかは、神のみぞ知るでしょうけど、私はそういう先達を少しでも見習いたいと思っています。

 

鴨長明も、吉田兼好も、当時の時代背景からすると、そういう生き方、死に方をしたのではないかと思うのです。そしてそれは別に平安末期や鎌倉の時代だけでなく、戦後初期までは割合、普通というか、それに近い状態であったのではないかと愚考しています。

 

とはいえ、現代は国の制度として、介護制度があるわけですので、その費用負担も、世代間、世代内での公正さ、公平さが求められるでしょうから、高齢であっても一定以上の所得があれば、介護費用の負担割合が増えてもやむを得ないというのも一理でしょう。

 

しかし、それには国家全体の予算配分との関係で、本当に、介護制度を含む社会福祉に要する費用負担について、予算配分が不足する事態なのか、他の予算配分に過大に回されていないのか、その検討を改めてしっかりやってもらいたいと思うのです。

 

安倍首相は、トランプ大統領のシリア空爆を是認する立場を早々と発表し、そして北朝鮮を中心とする東アジアの緊張拡大に対処するため、防衛予算を増やし続けています。そのような力と力による対立構造を是認し、強化することが本当に日本が目指すべき道なのか、日本国憲法の精神に適合するといえるのか、改めて問いたいと思うのです。

 

一時間が過ぎました。今日はこれでおしまいです。


ゴミとは何か <記者の目 高齢者のセルフネグレクト問題>を読んで

2017-04-07 | 廃棄物の考え方

170407 ゴミとは何か <記者の目高齢者のセルフネグレクト問題>を読んで

 

今朝は夜明け前の明るさに鈍さを感じつつも、野鳥たちの楽しそうな鳴き声でゆっくりと起き出しました。いまにも降り出しそうな雲行きです。遠くの高野の山々も薄雲に隠れて見えません。とはいえ目の前の大きなヒノキやスギの葉の緑はその識別が容易に出来るほど身近に感じます。そして斜面に並ぶ桜木も幹は細いですが、見事に開花して春爛漫です。

 

そんなのんびりした早朝から、仕事を終えたらもう業務終了時間になっています。たいして仕事がはかどっていないのに、いくつかの用件を次々とやっていると、あっという間に一日が終わります。そしてブログのテーマは何にしようかといま考えて、つい毎日の「記者の目」に視線が一瞬止まり、これでなにかを感じてみようと書き出しています。

 

高齢者のゴミ屋敷は時々話題になっていますね。私も高齢者の一員ですので、危ないと思われる存在かもしれません。今回の記者・工藤哲氏は、高齢者でもとくに、セルフネグレクト問題の切り口で取り上げています。

 

セルフネグレクトという言葉は最近、目にする機会が増えていますが、ここでは東邦大の岸恵美子教授(公衆衛生看護学)による定義づけとして、<「人として生活のための行為を行わない、または行う能力がないため、自己の心身の安全や健康が脅かされる状態に陥ること」>とされています。認知症に似ているようで、違いますね。この定義でどこまで識別可能かグレーゾーンが多そうですが、それでもこのようなアプローチで問題の実態に迫るのもいいかと思うのです。

 

このセルフネグレクトと密接に関連して生じる問題として、ゴミ屋敷やゴミ部屋が発生しているとの見方でしょうか。

 

記者は<高齢になって体力や生活意欲が衰えたとしても、食料や日用品は買わなくてはならない。しかし、自治体のごみ捨てルールが本人にとって厳しかったり、自分の所有物への思い入れが強かったりするとうまく捨てられず、時間に比例してごみ屋敷化・ごみ部屋化が進行してしまう。次第に外からも見えるようになり、解決に多くの時間やコストをかけざるを得なくなる。>

 

<自治体のゴミ捨てルール>という表現は、私には一時代前のもののように映ります。とはいえ、おそらくセルフネグレクトの問題を抱えている人たちには、そのような表現が妥当するのかもしれません。

 

70年代というか、80年代も、全国各地で廃棄物処分場が満杯になる一方で、廃棄物の不法投棄も各地で問題となっていました。沼津方式でしたか、先進的な自治体では30種とか詳細の分類を自ら定め、リサイクルでごみを排出しない、最小化する工夫をするようになりました。ところが一番排出する首都圏では、燃えるゴミと燃えないゴミといった分類といえないような処理方式がまかり通り、東京港にある最終処分場の延命措置に汲汲していました。

 

私のおぼろげな記憶では、80年代後半になってようやく東京都が焼却処理を減らす方向で、ようやく分別を試験的に始めた覚えがあります。まだまだ分別と言ってもおおざっぱなものだったと思いますが、横浜市などは2000年代に入ってようやく始めたのでしたか。

 

首都圏に住む人たちは、平気で大量に消費し、大量に廃棄物を出していたのです。それは大量生産を規模の経済といった経済学の考え方の影響もあってか、メーカーの熱い思い、政財の共同戦略でしょうから、一人一人はあまり意識せず、そのベルトコンベアに乗せられて、物質的な豊かさ?のようなものを自然にすり込まれてきたのかもしれません。

 

そして突然、廃棄物を最小化しないといけない、リサイクルによる循環型社会になる必要があると、天からの命令のごとく、大転換が始まったのかもしれません。

 

私自身は、自分でどこまでできているかと聞かれれば自信はないですが、長くゴミ問題に取り組んできました。廃棄物の選別も、東京都の杜撰なやり方より、鎌倉方式や横須賀方式などの方が性に合っています。いやいや田舎にいけば、たとえば徳島県の上勝町(葉っぱビジネスで有名ですが)では数え切れない分別方式で、基本的にゴミは出なくなるほどです。

 

しかし、そのような徹底した分別が望ましいかというと、それ以前に、必要でないものを買わない、受け取らない、そういう生活態度が一番ではないかと思うのです。それはヒトが人として、あるいは社会的な人間として生きていくための必須の選択を求められるものではないかと思うのです。

 

私たちは、さまざまな欲望、欲求を抱いています。煩悩の炎に包まれているのが人間かもしれません。欲望の成果は、物であれば、その程度はそれぞれで異なりますが必ず廃棄物が発生します。欲望を求めるとき、それがいかに廃棄物として最小化できるかを考える必要を感じています。

 

昔、スウェーデンでは、人が生きていること自体が自然に対して有害というか、問題を生じるという考え方が基礎にあるという話しを伺ったことがあります。

 

いまスウェーデンでは、<スウェーデンでゴミの99%を有効利用する「リサイクル革命」が起きている>ともウェブ情報としてアップされています。

 

その有効利用が焼却処理で発電といったことが中心とのことですので、それがほんとに環境に優しい、というか自然への配慮といえるかは、私は疑問符を抱きます。

 

たしか90年代初頭でしたか、当時、ゴミ焼却場からダイオキシンが発生するということでわが国では少しずつ問題になり出した頃です。私は環境保護先進国の一つといってもよい、カナダではどうかと、一人、トロント市を訪ね、廃棄物処理全般、そしてゴミ焼却の話しを伺おうとしました。

 

すると廃棄物処理担当者は、焼却処理は一切行っていませんと回答しました。私の廃棄物処理に関する知識の欠落に恥ずかしさを感じてしまいました。最終処分場も見学させてもらいましたが、焼却ゴミ、焼却灰などが一切ありません。そして広大な処分場は、あまり管理されているとはいえない状況で(東京都のそれとは全く異なる)、いろんな動物、たしかシカとかに出会った記憶です。そして何年か後には自然の土地となって再生利用されるのです。

 

その意味では、スウェーデン方式は、少し科学の力に頼りすぎではないかと思うのです。だいたい、遺体の処理についても、冷凍保存するとか、機械力で粉状にするとか、どうも人間の科学の力に頼りすぎる傾向を感じてしまいます。

 

ゴミ屋敷の問題、セルフネグレクトの問題から、スウェーデン方式やカナダ方式による廃棄物処理の問題に話しが飛んでしまったようです。

 

そろそろまとめに入る時間になりました。もう少しで1時間になります。セルフネグレクトは、物と人の関係性を改めて問い直すヒントになるのではないかと思っています。日々、私たちは、意識しないうちに、物の流れの中に身を任せています。その思いつきのような欲望で物を買い、消費し、捨ててしまいます。

 

そのあり方について、物を識別し、それとの関わり方を意識して、物の生産から消費・廃棄までの一生を、意識して付き合うことにより、意識もクリアとなり、それだけ脳も活性化するでしょうし、とてもセルフネグレクトに陥るような事態を回避できるのでないかと思うのです。予防的対応をまず心がける、それを早い段階から、身につけるような仕組み作り、環境作りが大事ではないかと思うのです。それがテーマ「ゴミとは何か」を考える作法ではないかと思っています。