170827 戦争の不公正さ <今週の本棚 加藤陽子・評 『日中戦争全史 上・下』>などを読みながら
昨夜おそらく12時を過ぎた頃からでしょうか、急に冷え込んだように思います。夏バテするほどがんばっていないのと、あまり外に出ていないのとで、体は快復モードです。ところが、今朝の冷え込みでどうも具合がよろしくないようです。腱鞘炎的な痛みは少し和らいでいるものの、ぼっとした感じが続いています。
毎日の今週の本棚は割合好んで読んでいます。加藤陽子氏が取り上げる書評は最近気になります。<加藤陽子・評 『日中戦争全史 上・下』=笠原十九司・著>では、<日中戦争勃発から八〇年>の今夏、<いくつかの新聞は日中戦争再考の意義を説き、NHKも七三一部隊と医学者との結託を特番に組んではいた。だが、人々の関心を大きく集めたとまではいえなかったように思う。>と指摘しています。
私もNHKの731部隊の真相に迫る取材報道によく掘り下げたと思いましたが、米軍による全国無差別空爆や航空軍による米軍内で支配権争いの実態の方に内容的も衝撃を受けました。しかし、日本軍が中国を含む東南アジア各地で行った侵略は無謀かつ無軌道であったことはNHKの「戦慄の記録 インパール」でもリアルに描かれています。
しかし、日中戦争自体について、全体像を明らかにしたものはさほど多くないように思います。加藤氏は、<著者によれば、その数、一九三七年末で四〇万人超、三九年末には八五万人に達したという。そして、敗戦までの中国戦線で陣没した日本側戦没者は、四五万五七〇〇人にも上る。
国内が戦場とならなかったからか、この戦争は一見、国内の国民生活や政治状況にさしたる影響を与えなかったようにも見える。だが、それは本当だろうか。あるいは、長らく戦場とされた中国で、日本軍や民間企業は何を行っていたのだろうか。これらの疑問に答え、日本人として知っておくべき歴史を「全史」という形で全面展開したのが本書である。>と総括しています。
太平洋戦争が始まる前、日本は意外と平穏だったのではないかと思うのです。たとえばわが国の都市景観保全の金字塔ともいうべき、風致地区制は最近国利競技場建設で問題となった明治神宮の指定(1915年)を皮切りに、30年に東京・京都、さらに次第に全国の主要都市に広がり、とくに38年(昭和13年)鎌倉を含め全国に普及していったのです。とりわけ鎌倉の場合当時の市域の半分近く広範囲に指定されたのです。それが、日中戦争勃発の翌年です。いまの鎌倉の風致景観があるのもこの指定のおかげといってよいくらいです。
しかし、<一見平穏な日常の裏面で進行していた事態の深刻さ。陸海軍は、特別会計による臨時軍事費という、議会審議を要しない抜け道を手に入れる。その上で、目の前の戦争に予算の三割を使い、残る七割を将来の対ソ戦・対米戦の準備に振り向けるようになっていた。政府もまた、三九年、軍用資源秘密保護法を制定し、金属・機械・化学関連の統計を「秘」扱いとする。国策決定に必須なはずの重化学工業の実態は、こうして国民の目から隠されていった。>というのです。
戦争拡大や危険な事業は、決して表に出ない隠れた中で進んでいったことがわかります。わが国の原子力事業の推進もそうではないでしょうか。危険な要因・リスクは隠蔽される、あるいは無視されることが、権力者の側には常にあるということを忘れてはいけないと思うのです。
軍隊というもの、指揮系統が別れている場合について、<豊田隈雄は、陸海軍の違いを的確に評していた。いわく「海軍は知能犯。陸軍は暴力犯」。こう評される海軍は、日中戦争不拡大のための和平交渉が進められるさなかの三七年八月、上海で大山勇夫大尉事件を起こす。著者はこの事件を偶発とは見ず、第三艦隊司令長官などの了解下になされた謀略だとする解釈を実証的に提示した。
ついで、重慶への渡洋爆撃の意味も説かれる。海軍航空隊は、中攻機や零戦を数か所の基地から離陸させ、重慶に向かう空中で大編隊を編成し、一糸乱れぬ指揮系統のもとで爆撃を行った。これは前例のない長期的かつ大規模な都市無差別爆撃であるだけでなく、この経験値なくしては、真珠湾攻撃の企図が不可能だったという点で重要な指摘となる。>
ここで直接は関係ないですが、スピルバーグの「太陽の帝国」をなぜか思い出しました。あまり日中戦争をしっかり描いた映画作品がない中で、これは断片的ですが真相に迫る一つではないかと評価しています。平穏な上海を部隊にしていますが、上記海軍航空隊がそこを無差別的に攻撃を仕掛けていた様子の一端がでていた記憶です。
で、話変わって毎日の別の記事<遺骨収集法成立1年半戦没者の鑑定、人員不足>に注目しています。
その記事中、戦没者数と未収容者数の図を参照していただきたいと思います。
これを見て驚いたのは、海外戦没者数240万人のうち、半数近くが未収用のまま、派遣された現地に残されたままとなっているということです。その中で、取り上げられた戦没者数に占める未収容者数の比率が高く、しかも絶対数が異常に高いのがフィリピンと中国東北部である点です。とくに後者は80%を超えるきわめて高い比率です。
この日中戦争を指導し、あるいは作戦を指導した多くの上官は戦後無事日本に帰還し、A級戦犯にもならないで、経済成長の担い手の一人となったのかもしれません。むろん心になんらかの深い傷を抱えていたかもしれませんが、外地でなくなり遺骨も放置されたままの状態をどう思ってきたのでしょうか。
靖国神社参拝を戦没者のためになすべきことと信念をもって継続している国会議員など政治家は、この事態をどう考えているのでしょうか。集団で参拝してマスコミで報じられる事で、未収容者の遺族の気持ちに応えているということなのでしょうか。
私個人は、遺骨にも遺体の一部などにも自分自身についてはなんの関心もありませんし、それをどこか大切にして欲しいなどといった考えはまったくありません。そこは親鸞さんのような考えに惹かれる人間です。
しかし、それらを故人あるいはその魂の一部として大事してきた遺族の方々の思いは尊重し、それこそ靖国神社に参拝することでは代替できない、予算・法律を決める国会議員が担うべき役割だと思います。
そして、日中戦争ではむしろより多くが亡くなったのは中国人ではないかと思います。日中戦争全史がその真相にどう迫るのか、いつか読んでみたいと思っています。
今日はこの辺でおしまい。