たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

寄り合い <高原の里、集落守る 鳥取県日南町「ファーム白谷」>を読んで

2017-08-22 | 心のやすらぎ・豊かさ

170822 寄り合い <高原の里、集落守る 鳥取県日南町「ファーム白谷」>を読んで

 

人は一人でも生きていける、いや仲間がいるから生きていける。簡単に結論を出すものでもないように思うのです。

 

会社や企業で働いていると助け合い、競争しながら生きているのを日々実感するでしょう。大勢の家族に囲まれている人でも時には一人を意識することもあるでしょう。

 

普通、仲間がいることでその生き方は豊かになるように思うのです。近世社会の暮らしを垣間見ると、現在の「字」あるいは「小字」程度の狭い領域で一つの集落共同体、ムラが成立していたように思うのです。

 

そこには共同体の中で自治的な秩序維持がうまく機能していたのでしょう。その生産方法も田んぼの水利や肥料獲得のための山野の入会利用といった中核的な部分に限らず、多様な兼業農民を活かす生産や共同体の暮らしが成り立っていたのではないかと思うのです。

 

それが維新以降、近代化という第一弾の波、戦後は経済成長の波で、中核的な共同体は農山漁村でもほぼ消失ないしは形骸化していると思います。

 

それでも誰かが声をかければ、近代化した個々の生き方を大事にすることで、新たな共同体的なものが生まれるのでしょう。やはり人はある意味、一人では暮らせないのでしょう。

 

農村に住んでいると、農家の人たちは、農作業を個々、独自に営んでいます。周辺一帯に田畑があっても、人影一人見ない日も少なくないのです。それぞれが零細錯圃のあちこちにある田畑の作業などに携わり、自分なりの農法で作業しているので、共同性というものがどんどん失われています。

 

それでもお互いがそれぞれの作業をしっかりと見て、どんなことをやっているかを気にしながらも、自分なりの農法で作業をやっているように思うのです。兼業農家も多いので、土日や休日だけ作業をする人もいます。灌漑期は毎日田んぼの様子を見たり草取りをしたりする人もいます。

 

ただ、農業機械が高いのに、多くはそれぞれ自分の時間・方法でやりたいためか、個別に購入し好きなときに利用しているのが一般かもしれません。

 

それでは生産性の低いところや辺鄙なところではやっていけないでしょう。毎日朝刊記事<地域とともに、農業再生に挑む毎日農業記録賞に寄せて/上 高原の里、集落守る 鳥取県日南町「ファーム白谷」>は、そういう農民の意識をうまくとりあげて、寄り合いを復活させ、共同作業所の設立からはじまって、利害対立する近隣関係や作業方法などを寄り合い的な話し合いで次第に解決していったようです。

 

柔軟な寄り合いという集まりは、限界集落だけでなく、町中、いや都会においても重要な役割を担うのではないかと思うのです。個々の趣味や嗜好で集まるサークル的な活動は、地域性を超えて、現代の人々の意識を反映してこれからも伸びると思います。

 

ただ、いま必要とされるのは、地縁的な寄り合いの集まりではないかと思うのです。趣味嗜好などの集まりは黙っていても簡単にできあがるでしょうし、今後も支持されるでしょ。

 

しかし、そのことにより地域の暮らしはますます空虚になるでしょう。趣味も好みも生活条件も異なる人々がお互いを理解し合える寄り合い的な場ができることにより、より多様で豊かな、そして異なる価値を理解し合えるようになるのではと、ふと考えています。

 

自分の個性を尊重し高めることも意味があると思いますが、他方で、そのことにより自分が住む場所の価値、身近に暮らす人たちの多様な価値を無視し続ける社会にはほんとの豊かさが生まれないのではと危惧しています。

 

それが近代化し未来社会と言われる21世紀の生活形態だとすると、なんとも底が浅いというか、折角懸命に水を入れても大きな穴が開いていて水漏れし続けて言うように感じるのは私が少し偏屈なのでしょうかね。

 

今日はこの辺で終わりとします。


不公正と人の選択 <わたしの生き方 母とは違う方法で ・・重信メイさん><もう一度夫に好かれたい=回答者・高橋源一郎><被災者支援法・・首長、要件見直し訴え>を読んで

2017-08-21 | 心のやすらぎ・豊かさ

170821 不公正と人の選択 <わたしの生き方 母とは違う方法で ・・重信メイさん><もう一度夫に好かれたい=回答者・高橋源一郎><被災者支援法・・首長、要件見直し訴え>を読んで

 

今日も1000字を目標にしながら、上に上げた3つの記事をどう自分で考えるかチャレンジです。

 

おんなのしんぶん・MyWayわたしの生き方 母とは違う方法で ジャーナリスト・重信メイさん>は驚きました。70年代、テルアビブ空港乱射事件など日本赤軍のテロは世界を震撼させ、そのリーダー格の重信房子は頻繁にクローズアップされていました。

 

仲間の内の議論ではほとんどすべてが非難囂々でした。その中で私はイスラエルの不法占拠やパレスチナ難民などに対する非道な無差別爆撃などにも配慮するべきだなどと反論したような記憶があります。ま、いえばテロへの一種の弁護的な反論をしていたように思うのです。とても理解されない状況ではありましたが。

 

その娘さんがジャーナリストになって活動していると知り驚きとともに、そのしっかりした言動は日本人の一人として公正な視点で問題に取り組もうとしているように思い、激励を送りたい気持ちになりました。

 

彼女の言葉<中東問題で伝えたいことは、いろいろあります。特に思うのは欧米メディアは中東のことをセンセーショナルに報じているので、日本の人たちはメディアリテラシーを身につけてほしいということです。人間の価値、人間の扱いが不平等であることも知ってほしい。欧米でテロの犠牲になった人がいれば大きく報道されますが、イラクで多くの市民が殺されてもあまり報じられません。これからも中東を取材し、映画もつくりたい。新しいことにチャレンジしていきたいです。>

 

次に私の好きなコーナー、<人生相談もう一度夫に好かれたい=回答者・高橋源一郎>です。離婚事件を担当していますと、とても二人の関係はお互い理解し合える対等・平等な関係にはないと感じることがほとんどです。なぜそうなったのか、ある意味では一方に原因があるようにも思えますが、他方もそれに真剣に取り組み悩みをぶつけ合って、問題点を明確にして解決する試みがとられた例はまずないと思います。

 

<夫に嫌われています。また好きになってもらえるでしょうか?>という相談に対して、高橋氏はまず、<憎しみでさえ、愛情の裏返しの可能性があるでしょう。しかし、ふたりの関係にとって致命的なのは、嫌悪や軽蔑の感情です。そして、その感情の由来は、当人にもわからないことが多いのです。>これは国同士でも似ているように思うのです。ただ、感情の由来は掘り下げれば国民それぞれ、ある程度理解できるのではないかと思うのです。

 

結論として、高橋氏は<「あなたを嫌悪している」という相手と暮らし続けることは、わたしにはできません。なぜなら、そのことによって、いつか必ず、そんな自分自身を嫌悪することになるだろうから。>私も同感です。国同士であれば、いくら嫌悪していても、一緒に暮らす訳ではないので、改善の見込みというか、他の方法で付き合う工夫ができます。しかし、夫婦は無理でしょう。

 

そしていつも高橋氏が言葉にするあなたが自分自身の心に問いかけて決めることのセリフが好きです。<相談者は夫の気持ちを心配されています。けれど、いちばん大切で、考えるべきなのは、相談者自身の気持ち(とりわけ夫への)と人生だと思います。>

 

最後の<被災者支援法8割「拡充を」 首長、要件見直し訴え 都道府県・政令市、毎日新聞調査>は、被災の多発と深刻さを受けて、ある種の公正さが問われているのだと思います。被災件数を多くしている要件は私有財産制を前提にして、少数の被害だと個人負担にという考えが基本かもしれません。

 

しかし、地域・環境条件次第では、わずかしか居住していない集落だと、いくら全戸が半壊・全壊しても該当しないことになりますが、それが集落を消失させることになりかねないとすると、そのような要件該当性を形式的に取り扱うことの公正さに疑問を感じるのは現場の首長や住民でしょう。

 

「認定、柔軟に」 独自支給自治体も アンケート調査>では全壊・半壊の指針自体が問われています。一定の数値基準で線引きすることは行政上やむを得ない部分もありますが、現場ではわずかの違いで支給されるか否かが決められることに、困惑と疑問が残ることになるのでしょう。

 

日弁連災害復興支援委員会委員長・津久井進弁護士の話>では<実際にどの程度の金銭的負担が被災者にかかったのかなど、救済の「物差し」を再考する必要があるのではないか。>と制度の見直しの一つを指摘していますが、実態に即した合理的な意見ではないではないでしょうか。

 

私自身は、以前から、結果だけをみて全壊・半壊などの基準で支給の有無・金額を決めることに疑問を感じていました。耐震構造に一切かまわずに暮らしてきた住宅が半壊・全壊した場合と、耐震基準に適合するよう、建築し、補強してきた人の場合と一緒に扱ってよいのかという問題です。

 

こういった何が公正であるかという問題は、最後の被災の場合の対応の方がより客観的で合理的な基準を示すことができるのですから、また人が作った制度の問題ですから、早急に問題点を洗い直し改善を検討してもらいたいものです。

 

それに比べ、人同士は、虐待でさえわかりにくいですが、まだ客観的な裏付けが可能です。その内心の嫌悪や軽蔑・不公正さなどは本人同士はわかりにくもので、第三者の協力が必要でしょう。

 

やはり3つの話の共通項を探るには無理がありました。1時間で仕上げたのはよかったのですが、字数制限を大幅に超えてしまいました。

 

今日はこれでおしまい。


喫煙は病気! <ベランダ喫煙 煙たいよ! 「被害者の会」登録急増>などを読みながら

2017-08-20 | 健康に生きるとは

170820 喫煙は病気! <ベランダ喫煙 煙たいよ! 「被害者の会」登録急増>などを読みながら

 

このブログでもなんどか喫煙問題をとりあげてきたと思います。人の趣味趣向が医学的知見によって有害性が立証されれば、それを個人の嗜好として許容される範囲が狭まり、嗜好を楽しむ場所や方法も制限されてもやむをえないことでしょう。タバコはまさにそれに該当するでしょう。

 

人の迷惑になるようなことはするなかれ、なんて戒律なり、決まりは宗教上はないのかもしれませんが、生きる知恵というか、嗜みではないかと思うのですが、どうでしょう。

 

たしかに私自身、子どもの頃や青春期、裕次郎や旭のタバコをかっこよく吸う姿をかっこいいと思いました。たいていの仲間は大学に入ると、まだ未成年のくせに喫煙と酒が許されると、紫煙の中で議論やフォークソングで青春を感じていたのかもしれません。

 

でもそれは昔のこと。私たち人は、その有害性に気づいたら、行動を変える事により、順応あるいは適応して、生き延びてきたのではないでしょうか。

 

この<ベランダ喫煙煙たいよ! 「被害者の会」登録急増>の記事、蛍族などと呼ばれていた人たちにとって、ベランダこそ唯一の救いの空間だったのかもしれません。

 

蛍族の人は、子どもや妻、家族のことを考えて、暑い夏でも、寒さで凍える冬でも、ベランダに出て一服して、自分なりに努力する姿勢を見せ、我慢してきたのかもしれません。外から見られる目線も気持ちのよいものではなかったでしょう。でも耐えてきたのでしょう。

 

でもそのベランダ喫煙によって受動喫煙の被害に悩まされている方がようやく立ち上がり、<全国組織「近隣住宅受動喫煙被害者の会」(事務局・横浜市)が5月中旬に結成された。>というのです。

 

蛍族には気の毒とは思います。しかし、その行為は気にならない近隣の方もいるかもしれませんが、記事にあるようなアレルギー体質の方などにはとっても危険な症状を発症させることがあります。いや、普通の方でも、最初はなんの症状がなくても、累積的な影響である時点で歯健康被害が発症するおそれもあります。

 

家族の健康を思うのでしたら、近隣の方への配慮をもってもらいたいと思うのです。ベランダは外気につながる公共空間といっても集合住宅であれば共用部分です。隣接する部屋の方にとっては、恒常的にタバコの有害物質にさらされることになります。大気で拡散されるという議論は一面だけをみています。タバコの成分は驚くほど多様な物質が含まれていますが、吸着性の強い・同時に有害性・臭気の強い物質が相当含まれています。タバコ病訴訟の時少しは勉強したのですが、10年以上前の話ですので正確な記憶は遠のいていますので、文献等で確認ください。

 

要は被害者の会なんかをつくらなくてもいいように、自らタバコついて見直してみてはどうでしょうか。私はタバコ病の患者の苦しみを間近で見ておられないほどに、感じてきました。いまは健康でもいずれは発症する危険が高いと思います。ご自分のためにも、また家族のためにも、近隣のためにも、禁煙を決意してはどうでしょうか。

 

毎日記事では<法律のツボベランダでの喫煙、法的に止められる? /大阪>とか、<弁護士雑記マンション隣人の喫煙で迷惑 /和歌山>とか、裁判例を紹介していますが、裁判で訴えられるような立場になる危険もあります。むろん、この喫煙者は唯我独尊のような方ですので、違法と認定されています。しかし、現行不法行為法は、隣人訴訟では緩やかな対応しかしませんので、法的には被害者の心は晴れないでしょう。

 

問題は喫煙者のマナーでしょう。生き方の作法でしょう。

 

最後に、<地域医療を考える愛する人の命より、タバコが大切?>を引用します。<「禁煙推進の会えひめ」会長、県立中央病院・医局長の松岡宏さんに聞く>と、医師の立場で、

 

<タバコは嗜好(しこう)品ではなく、喫煙は病気です。しかも、糖尿病や高血圧よりも恐ろしく、最も多くの命を奪っている病気であることを、できるだけ多くの方に知ってもらいたいと思います。>と断じています。

 

ですから喫煙が病気ですから、治療が必要というのです。そして<2006年から、禁煙治療は保険適応となりました。病院によって異なりますが、3カ月間の治療、5回の通院で費用は通常2万円弱です。ニコチンの肉体的依存は、ニコチンパッチやニコチンガムなどのニコチン代替療法か、ニコチン受容体をブロックする内服薬で治療していきます。今では内服薬が主流になっています。精神的な依存については、習慣を変える行動療法などを含めたカウンセリングを行います。>

 

そして私としては、喫煙は自分の病気にとどまらず、他人に有害物質をばらまく感染者になり得る危険を持っているということを常に自覚して欲しいと思うのです。厳しいかもしれませんが、私は喫煙でがんなどで苦しみ亡くなった方、受動喫煙で仕事ができなくなった方など、とりわけ人工的な閉鎖された環境の都会では、個人の嗜好品として許容できなくなりつつある現状を多くの方が意識する必要を感じています。

 

1000字目標にしているのですが、思いつつくまま書いているので、整理もせず、字数制限を超えて、腕や手に痛みが出てきています。今日はこの辺でおしまいです。


一言追加です。前にも書きましたが、私が関わっている農林業や以前関わっていた漁業の世界ではタバコを吸うのは厳しい作業の中でほんのわずかの楽しみであり、当たり前です。依頼人だからではなく、やはり時・場所・機会に応じた対応は、私も尊重しています。

 


養育費を考えてみる <貧困阻止 養育費の新算定>などを読みながら

2017-08-19 | 家族・親子

170819 養育費を考えてみる <貧困阻止 養育費の新算定>などを読みながら

 

最近手のしびれが気になるようになってきました。ブログを再開してまだ一年ならないのですが、そろそろ連続運転が厳しくなってきたかもと少し不安になっています。このブログは最初は三日坊主ならぬ2日で断念。当時はとりわけ体調がよくなかったのだと思います。

 

その後fbで何度か半年近く継続したのですが、その都度痛みがひどくなり、長い休養となりました。その休養中にブログを再開したのですが、意外と長文がを書いても大丈夫となり、最近は気の向くまま内容の脈略は関係なく長文で体というか手を鍛えてきました。が、ちょっとやりすぎたかもしれません。

 

そんなわけでしばらく1000字以内を目標に書いてみようかと思います。昨日もその気で始めたら、調子に乗って痛みも忘れて少し長めになりました。ともかくこういう無駄な文は避けて、1000字文をしばらく続ける努力をしてみようかと思います。

 

さて、見出しのテーマ、以前に日弁連新基準を紹介しましたが、それから半年も過ぎ、実際に利用例というか弁護士から提案が出された例があるということが毎日朝刊<くらしナビ・ライフスタイル貧困阻止 養育費の新算定>で紹介されています。

 

基本的な仕組みは従来の基準ですが、その算定額があまりに低いというのが女性側の意見として強かったと思います。その意見を少しでも反映する形で長年研究した成果が新基準です。

 

新基準は記事で概要が説明されていますし、詳細は日弁連のウェブサイトで入手できるので、それを参考に検討されたらよいと思います。

 

ところで養育費という問題はなぜ発生したいのでしょうかね。法制度ですので、基本、誰のためにつくられたものでしょうか。当然、子どものためというのは答えでしょうが、どうも離婚問題と関係すると、その当たりが曖昧になってくるように思うのは私だけでしょうか。

 

なぜこういった問題が生じたのか、答えは簡単ではないかもしれませんが、離婚当事者のどちらかがこの養育を担う以上、他の当事者がその費用負担を担うのが公平ということで、資本主義経済の社会では、費用という金での解決となったのでしょうか。

 

この最初の構造は、本来多様であってよいと思うのですが、とりわけわが国では離婚時に子どもの将来の養育の在り方(ここでは担い手と費用負担者)を決めてしまいます(事情変更はありますが)。

 

そして多くの場合子どもの養育に当たるのは母側、父側は費用負担となり、養育費の算定もそのような構造の中で一部裁判官によって現行基準が作られ、多少の修正があっても、現在まで活用されてきています。

 

むろんこれは指針的な物で、現行基準もこれで機械的に決めるということはありません。

 

それに多くの個別事情が検討されないと行けないことがあります。それに当事者の意思・合意が尊重されます。

 

たとえば支給期間ですね。これは特に定めていません。成年までとか、あるいは18歳までとかが多いかもしれませんが、他方で大学卒業が普通になってきた最近では22歳とか、卒業年月も射程に入るでしょう。いや、大学院も入ってもいいでしょう。

 

もう一つ、障がいのある子など特別事情があると、支給額も支給期間もそれに応じて増加してもよい要素と考えられるのではないかと思います。実際、私が担当したケースでは、年齢制限を設けないとか、あるいは支給額を基準額に比べかなり高額にするとか、経験しました。そういった個別事情は当然検討されるべきでしょう。

 

それにいつも問題になるのが履行の確保です。父親側も母親の生活費になるのではないかとか、あるいは離婚をめぐる心理的な影響が残るためか、養育費履行責任を免れようと画策することもあり、親としての責任感の欠如を感じます。

 

この間、政府もさまざまな法律改正等で、履行手段の確保・充実を図ってきたことは確かですが、それでも責任感の欠如した親には有効ではありません。

 

給料差し押さえもかなり便利になったと思いますが、夫側がさまざまな支出が多いといって、差押異議申立をして差押金の減額させた事例にも出会いました。

 

ウィキペディア・養育費ではアメリカの例として<非監護者(主に父親)の養育費徴収強力に推進され、養育費は給与天引きが行われ、養育費サービス機関は、福祉、税務、司法、検察・警察等の各種の行政機関、民間機関等と情報連携・行動連携を取りながら子どもの養育費確保のために動き、滞納者には免許停止やパスポート発行拒否など公権力が行使されている。>と行政の積極的な関与が勧められています。

 

そこまでいくかどうか、子どものための養育費の在り方として、検討してみる価値はあるでしょう。

 

ただ、強いて言えば、それよりも何より、子を育てる責任を持つ親の意識を育てる社会、そして養育費支払いを困難にしている大きな問題、経済的貧困の克服という課題解決へも目を向けることが大事でしょう。

 

大ざっぱな話になりました。字数制限を超えてしまい、何をいいたかったか、ちょっと中途半端になりましたが、痛みが強くなってきたので、この辺で終わりとします。


成年後見の今後 <日弁連新聞「三類型の判定と診断書等の在り方」>を読んで

2017-08-18 | 人の生と死、生き方

170818 成年後見の今後 <日弁連新聞「三類型の判定と診断書等の在り方」>を読んで

 

以前は毎月配布されてくる日弁連新聞や「自由と正義」を読むことがあまりない、あるいはほとんどない時期が長くあったように思います。最近は高齢者となり、仕事も忙しくないこともあり、こういうブログを書いていることもあり、・・・要は目を通すようになりました。

 

同期や知り合いの活躍が紙面に掲載されているとやはり目を通します。みんないろいろなところでまだまだがんばっているな、なんて。Wさんは国連会議に参加したというのですが、国連本部に入場する仕方というか、ガイドなしで入ろうとしたのでしょうか、危ないところだったようです。私も昔、これは完全に観光でガイドツアーで入った記憶がありますが、まったくどんなところか覚えていません。でも外観はかわりませんね。活動の中身や存在意義は相当変わりましたが。

 

さて、本日のテーマとして取り上げるのは成年後見制度です。この制度も昔の禁治産者精度に比べて相当普及してきたと思いますが、それでも本当に必要とされる方に利用されていない比率はまだまだ高いと思います。他方で、とはいえ相当普及する中で、いろいろ問題が多様に起こっています。

 

164月成立の「成年後見制度の利用の促進に関する法律」はその制度課題を見いだし対応することで促進を図ろうとするものでしょうか。こういった法律では一般的な仕組みとして、plandocheckというような感じで、計画策定が行われますが、本年1月「成年後見制度利用促進基本計画」が閣議決定されました。

 

で、見出しの記事ではその基本計画にある施策にいろいろ課題があると言うことで、日弁連で連続学習会を開催し、その第一回として、見出しのテーマが取り上げられ、その概要を報告しています。

 

その記事では、まず、知的障がい者の親の立場から、重度知的障がい者は現行の診断書式では後見類型に該当するが、後見制度では本人の意思が尊重されないため、そういった障害のある家族の多くが制度利用をためらっているといった趣旨の報告がなされています。

 

重度知的障がい者といっても、いろいろなレベルがあり、また管理する財産の内容によっても、現行の三類型をどのように適用すべきかは、簡単に判別できるとは思えないというのは私の経験上からも痛感しています。

 

私が後見人になった重度知的障がい者の方は、それこそ通常の日常的な生活や判断をすることが困難な方でした。そのため施設に入所していましたが、そういう重度の知的障がいの方でも、なんらかの形で意思疎通ができたりする人もいます。

 

私が担当した方は資産も多様な有価証券や不動産も含め巨額のものが両親から残されていたため、後見制度以外の利用は考えにくいと思います。しかし、重度の知的障がいの方でも上記のような人、そしてさほど管理する資産もない場合は後見制度を利用するのはどうかと思うのです。

 

これは知的障がいの方ではありませんが、視覚障害の方で、普通に会話ができることから、補佐か保佐相当と考えて、申し立てたところ、医師がなぜか後見相当と診断したのです。その方の夫については、私が任意後見人となって財産管理や話し相手になっていましたので、その夫より、妻のことを心配して依頼を受け、妻も了解したので、申立をしたのです。

 

目が不自由なだけで、私とは普通に会話ができるものの、夫より少し高齢で(当時70代後半だったか?)、若干、認知症の症状とまではいきませんが物忘れもでてきたこともあったなどの理由で、成年後見制度を利用しておいた方がいいかと思ったのです。

 

その後、後見人になった人から、投票できなくなったということで、妻から悲しみと苦痛の連絡が繰り返しあったという話を伺いました。それはそうだろうと思いました。なぜ彼女が後見相当と診断したのか私には疑問でしたが、財産もあまりなく、その結果を話したときもとくに異論を述べなかったので、そのままになってしまったのですが、いざ選挙権がなくなったことに直面し、衝撃を受けたのでしょう。

 

その後総務省の<成年被後見人の方々の選挙権について>で掲載されていますが、

 

<平成255月、成年被後見人の選挙権の回復等のための公職選挙法等の一部を改正する法律が成立、公布されました(平成25630日施行)。

これにより、平成2571日以後に公示・告示される選挙について、成年被後見人の方は、選挙権・被選挙権を有することとなります。>

 

私の場合その10年くらい前の話です。法改正を求めるも大事だったかもしれません。それよりは今回テーマの診断の在り方を変えることを求める方も重要です。

 

というのは、別の件で、こんどは後見相当という医師の診断書で、私の知り合いの弁護士が申し立て、私に後見人候補になって欲しいと依頼されて、待っていたら、かなり時間がかかりました。そして結果は、なんと保佐相当になったのです。

 

これにはおどろきでした。この方はご主人が結構な企業の役員をされ資産も相当あり、デラックスな老人ホームに入居していましたが、私とは話がかみ合わないのです。この方が判断能力が劣っているが一応あると診断されたわけですが、ご主人が亡くなった後相続処理がいろいろ残っており、そのようなことに対処できる能力はとてもありません。むろん保佐であっても内容によって代理権を付与されるので、後見人に近い対応ができますが、前記の奥さんが後見相当となって、この方が保佐相当という診断にはかなり疑問を感じてしまいました。

 

私自身のそれぞれの仕事はつつがなく終わったというか、重要な権限行使はすべて終わり、当地に移るに当たり、すべて若い元気な弁護士に依頼して引き継いでもらいました。

 

さて、見出しの記事では五十嵐禎人教授(千葉大学社会精神保健教育センター)が講演を行い、次のように意見を述べられています。適切な内容なので全文引用します。日弁連新聞さん、ご寛容ください。

 

「処理すべき情報量の大小に応じて必要とされる意思能力には差があり、年金収入だけで暮らしている人と、数億円の資産を保有している人とでは、財産管理のために求められる能力に大きな違いがある」と意思能力が問われている人の取り扱う収入・資産・情報量の多寡に応じてその評価基準を設ける必要を指摘されているように思います。同感です。

 

次に意思能力を判断する医師と現行診断方式の問題を指摘しています。

「本人の生活状況を把握していない医師が本人の財産管理能力を判定する現行の診断書式の不適切さを指摘し、この診断書式を改め、三類型に直結する判定の記載をやめるべきだと提言した。」というのです。

 

私が関わった多くのケースでも、医師が初めて会って診断するのです。それもきわめて短時間だと思います。それは、医師に無理を強いるものであり、また、その判断結果を重視することで、被後見人等のご本人の生活が決定的になることの問題を関係者は真剣に検討すべきだと思います。これだけが原因ではないですが、現行制度の普及が今ひとつ進まない理由の一つと考えます。

 

また、「五十嵐教授は、本人の生活状況に関しては、福祉専門家からソーシャルレポートの提出を受け、裁判官が、診断書だけではなく、ソーシャルレポートや調査官調査を基に総合的に三類型を判定すべきとの見解を示した。」これがオーソドックスというか、本来的な在り方でしょう。

 

ただ、問題はコストです。慎重に丁寧にこの判断を行うとすると、医師としても現在、一般に行われているような簡易な方式で安価にというわけにはいかないでしょう。

 

ただ、少なくとも年金収入がほとんどとか、財産が一定基準未満といったような方については、簡易な方式で、しかも意思能力を緩やかに認めることなど、ダブルスタンダード的な方式もありえるように思うのです。その場合に異議権も整備すれば問題を少なくできるようにも思うのです。

 

この記事を見ながら思いつきで書きました。

 

この成年後見問題は本年1月日弁連が発表した<「成年後見制度利用促進基本計画の案」に盛り込むべき事項に対する意見書>に多様な視点から問題を取り上げていますので、本格的な議論はこれを見ていただければと思います。

 

今日はこの辺で終わりとします。