たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

逃走犯とミステリー <アクリル板破る><スニーカーに履き替え><脚立で塀を><写真と防犯カメラ映像><バイクや自転車><空き家>なぜ捕まらない

2018-08-26 | 刑事司法

180826 逃走犯とミステリー <アクリル板破る><スニーカーに履き替え><脚立で塀を><写真と防犯カメラ映像><バイクや自転車><空き家>なぜ捕まらない

 

12日夜、富田林署で弁護人との接見後に逃走した樋田淳也容疑者の行方は今日もまだ判明していないようです。

 

直後にこのブログでもアクリル板の破壊という表現と、弁護人の対応、富田林署の対応などを少し取り上げました。その時点では逃走してもまもなく逮捕されるものと高をくくっていましたが、2週間以上も都会のど真ん中(ま、この周辺は田舎的雰囲気もありましょうか)で終日にわたって3000人の警察官が捜索しているというのに、一向に手がかかりも見えてこないようです。これはミステリーでしょうかね。

 

わが国の警察官がこれだけの大捕物体制を続けていて、どこにいるのやらさっぱりわからないといのはどういうことでしょう。

 

もう一度この事件の顛末を振り返りながら、少し考えてみたいと思います。ちょうど久しぶりに当番弁護士である警察署に接見に出かける用があり、改めて接見室のアクリル板を確認しました。やはり仕切りの鋼鉄製囲いの中に設置されているアクリル板は強固でした。

 

アクリル板と鋼鉄の囲いの接着剤は何か特定できませんでしたが、コーキング剤の一種でしょうか。富田林署の場合30年くらい前に設置されたようですが、接着剤が劣化していたのでしょうか。それもはっきりとしたことがわかっていませんね。

 

その後の報道でもアクリル板を壊したとか、破ったとか、押し開いたとか、いろいろな言及があったようですが、実際の画像などが開示されていないのでしょうか、見たことがないので、よく分かりません。たしかある報道では、樋田容疑者がサンダルでアクリル板を蹴飛ばしたというのですが、それでアクリル板自体が物理的に破損したというわけではなさそうです。鋼鉄の囲いとの間に隙間を作りそこから出て行って、接見室の外に出たようです。

 

ただ、樋田容疑者の防犯カメラの画像からは少し小太りで、その隙間から抜け出ることができたのか、それも気になっています。

 

防犯カメラ画像に映っている顔、体格と、最初に公開された顔写真とは大きく違う印象です。おそらく多くの人は最初に顔写真が韻書として残っており、その後の防犯画像は開示の仕方も全体像の中ですので、あまり印象として残らないように思います。

 

顔写真は、今回の逮捕時の写真でしょうか、ちょっといつ頃の写真かも確認できていませんが、その当たりのキャプションに工夫が必要ではないかと思うのです。

 

だいたい顔写真は、そのときどきで違った印象に映ることがありますね。捜索している警察官にもそういった識別能力があれば別ですが、AIの画像認識をより活用する必要があるかもしれません。

 

弁護人が接見終了後に管理係に連絡しなかった点は、この事件以前からほとんどの場合連絡励行が当たり前だと思いますので、不思議な印象をぬぐえません。

 

とはいえ、通常、接見室から警察署の外に出る場合、当直勤務の警察官が大勢いる横を通って玄関外に出るというのがほとんどの警察署の構造ではないかと思いますが、一人、私服の弁護士が通ったとき、注意を払わなかったのも不思議です。たしか弁護人の接見は夜間730分頃ですので、受付時も当職が対応しており、その当直は何をしていたのでしょうかと思ってしまいます。ふつう顔を合わせて、礼をするかそれなりのポーズをして帰りますね。

 

むろん100番通報がいくつか連続して入って、緊急事態の時は、そういった弁護人の出入りに気づかないこともやむを得ないかもしれませんが、そのような事態であったという情報は聞いていませんね。

 

ま、ここまででも不思議な話ですが、それ以上にスニーカーの存在です。ほんとにスニーカーが接見室の外に置いてあったのでしょうか。私も長年首都圏や和歌山の警察署を多数訪問したことがありますが、そんなものが通路や見えるところに置いてあるなんてことは経験がありませんし、想像すらできません。で、このスニーカーの持ち主は判明したのでしょうか。製品も特定できたのでしょうか。ニュースを追っていませんので、未確定ですが、すでに分かっていれば、公開するのが本来でしょうね。

 

脚立の話もそんなのありと驚くしかありません。大阪府内の交通事故で、加害者側の意見だけで調書を作成して不起訴処分した事例がありましたが、このような捜査をしていたら、市民の理解を得ることは困難でしょう。そんなことをつい思い出してしまいました。

 

樋田容疑者は、逃走直後からバイクを利用してたしか45件のひったくりをしたとされていますね。当初合計額が4万円だったのが、いつの間にか5万円になっていますね。確認が不十分だったのでしょうが、このような事件ではとりわけしっかりした被害者聴取が求められますね。

 

バイクの形状とかもはっきりしませんが、盗難品であればなぜすぐに分からないのでしょう。被害者からの申告がないと言うことでしょうかね。あるいは自転車に乗っているとかの情報もニュースで垣間見ましたが、バイクにしても自転車にしても型式・形状はできるだけ早く公開してもらいたいものですが、どうなっているのでしょう。

 

と長々とまた前置きが続きましたが、今日のお題は空き家問題です。

 

むろん樋田容疑者が、リチャード・キンブルのような有能な逃走犯?であれば別でしょうが、これまでの容疑事実からはよくある累犯者的性質をもった男と思われます。池澤夏樹著『アトミック・ボックス』の主人公の女性のように聡明でかつ勇気と高い目的を抱き、優れた仲間の支援があれば、もうとっくにどこか別の場所に移って、捜査側の頭脳や捜査網の先を行っているでしょう。それはありえないでしょうね。

 

で、空き家です。大阪府内に限定しなくても、周辺府県まで逃亡することはそれほどむずかしくないと思いますが、このところ事件を起こしていないとなれば、どこかに潜んでいる可能性が高いと思われます。

 

では警察官が3000人体制でローラー作戦により一軒一軒しらみつぶしでチェックしているはずなのになぜ皆目見当がつかないのでしょう。

 

むろん友人とか知り合いの援助の可能性も否定できませんが、これまでの犯罪歴からするとその可能性は低いのではと思っています。他方で、どこかの空き家に隠れている可能性の方が高いと思うのです。

 

しかし警察官は空き家も調べているはずというのは、残念ながらあてにならないと思うのです。空き家は所有者が誰でどこにいるか連絡先を突き止めるだけでも大変かもしれません。最近は駐在所のおまわりさんが一軒ずつ訪問して管内の住宅の居住者について台帳をしっかりつくり現在状況を反映しているというのは少ないのではないでしょうか。

 

つまり、いくら大勢の警察官が住宅を調べても、空き家の場合、所有者意思の確認ができないと、家の中に入るわけにいきませんね。ですから、空き家を調べたといっても、部屋の中、押し入れ・天井などを調べるなんてことはできそうにないと思うのです。

 

むろん窓ガラスを割ったり、あるいはサッシや玄関ドアが施錠されていないとかの異常が見つかれば、放置はしないと思いますが、樋田容疑者はたしか屋内盗もやっていたように思うのですが、かなり器用な人間のようですので、アクリル板をすり抜けるように、うまく家の中に入っている可能性を考えるのです。

 

むろんこれは机上の推定に過ぎませんので、山の洞穴とか、農地の納屋など、その他いくつでも潜伏の可能性がありますので、捜査の網を絞り込む根拠としてはまだまだ薄弱です。

 

ただ、空き家は全国に多数あり、とくに首都圏にはかなりの数に上っているはずです。東京オリンピック・パラリンピックでは大勢の外国人が来日します。そのときテロリストや犯罪者も紛れ込む危険もあるでしょう。そのときこの空き家は彼らの危険な巣窟になるリスクがあります。

 

空き家問題は、農地で言えば耕作放棄地、山林で言えば荒廃した林地と類似した背景をもっています。しかし、その危険性は他と比較にならないと思います。本格的な対応が求められるでしょう。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


再エネの未来 <電力大手、ようやく本腰><ドローンで新サービス><プラごみ対応>などを読みながら

2018-08-25 | 原子力・エネルギー・地球環境

180825 再エネの未来 <電力大手、ようやく本腰><ドローンで新サービス><プラごみ対応>などを読みながら

 

最近、プライムニュースを見る機会が少なくなってしまいました。以前のキャスター反町さんのコーディネイトが肌に合っていたのか、あるいはテーマとゲストが私の関心とあっていたのか、よく分かりませんが。昨夜もプラゴミを扱っていたので少しだけ覗いてみましたが、どうもぴんとこない、政府見解の表面的な披露式みたいにみえてすぐに読書に移りました。と思ったのですが、ロッキングチェアの居心地が良く夜空に浮かぶ雲の移り変わりを楽しんでいるうちに眠り込んでしまいました。

 

ところで、今朝の毎日記事電力大手について希望的な記事が2つ掲載されていて、原発論議とは別に、電力会社も少し風向きが変わりそうかなと思いながら読みました。

 

再生エネルギー電力大手、ようやく本腰 石炭火力逆風、関電バイオマス・洋上風力も>では原発再稼働や新規増設に向けた動きに大きな変化がみられなかった電力各社に、再エネに向かう世界的な潮流を受けて、少し新たな方向を目指すような動きを追っています。

 

やはり背景はパリ協定やそれを受けた政府の方針でしょうか。

<15年の「パリ協定」採択で「脱炭素」の流れが加速し、日本が得意とする石炭火力発電に逆風が吹く。政府は7月に閣議決定したエネルギー基本計画で再エネを「主力電源化」すると明記。電力各社も再エネに注力せざるを得なくなった。>記事からは仕方なくといった印象を受けます。

 

まず最大手の?<東京電力ホールディングス(HD)は6月、国内外で原発6~7基分に当たる600万~700万キロワットの再エネ電源を開発すると発表。今後10~20年間に海外の水力や国内外の洋上風力で総事業費数兆円規模の新規開発を行い、年約1000億円の利益を上げる主力事業に育てる狙いだ。>

 

原発一辺倒のような関電も<16年7月に「グループで30年までに国内で50万キロワットの再エネを導入する」と発表。これまでに太陽光8万キロワット▽水力0・6万キロワット▽風力1・8万キロワット--など、24カ所で計11万キロワット相当の再エネ電源を新たに開発した。水力では、既存発電所の設備更新に際し水車を改良するなどして出力を積み増した。今後は、22年度までに兵庫、福岡県など3カ所に計約20万キロワットのバイオマス発電施設を設ける計画だ。>と大手電力会社としては細々とした印象をぬぐえません。

 

ところが早速、大規模停電の不安の声を上げています。

<いたずらな再エネの大量導入は弊害も伴う。日照時間が長い九州電力管内では、再エネの固定価格買い取り制度(FIT)が始まった12年度に約100万キロワットだった太陽光発電の接続量が、今年6月末で800万キロワットに急増。管内の昼間の需要は少ない日で1000万キロワット以下で、それに迫る規模だ。

 再稼働している原発が4基になっており供給力は約400万キロワットに。この先、秋や春の日中など需要が少ない時期に太陽光の稼働率が高まれば、供給力が大幅に上回り大規模停電を起こしかねない。>

 

すでにドイツの再エネ企業では、気象予測に費用を投じて、それに応じた発電量の調整を総合的に行うネットワークを構築しているのにもかかわらず、発送電分離もスムーズに進まず、このようなもたついた状態の日本では再エネという将来の電力供給システムに対応できるのはいつの日か怪しい感じすら受けます。

 

だいたい、原発自体、<出力を小刻みに調整できない>という問題を抱えているのを放置して、柔軟性の欠く原発に<代わりに太陽光の発電を止める「出力制御」が行われる可能性がある。>というのですから、本末転倒かもしれません。これからの時代、需要に応じた供給体制、あるいは供給に応じた需要体制というソフトこそ求められると思うのですが、原発自体が硬直化して、これまでは無理して需要を喚起していた傾向さえあったのではないかと疑わざるを得ません(原発が稼働しなくても電力不足を来さなかったことが一つの証でしょう)。

 

とはいえ、小規模の再エネ業者による発電事業に問題がないとも思えません。木質バイオマスはこれまで盛んに喧伝され、各地で外観のきれいなバイオマス発電所が計画されたり、実際完成し稼働したりしていますが、実際に需給がうまくいっているところはどの程度あるのでしょう。

 

太陽光発電では、小規模な形態が日本のあらゆるところで設置されていますが、果たして持続性が担保されているのか、担い手企業の事業維持能力が確保されているのか、懸念されますし、供給過剰による送電網がパンクしたりするリスクに対応できるような、調整装置があるようには思えないので、いつまでこのような形態で事業を拡大させるつもりか、懸念されるところです。景観的にも、あるいは反射光などによる影響も、周辺住民から批判の声が上がっているようです。立地の適切さも今後は十分配慮されるべきでしょう。

 

そういった事柄以上に、日本の電力供給を担ってきた電力大手の独占企業体は、その導入目標を掲げても、いったい、どのような電力システムを構築しようとしているのか、多種類の発電事業の一元化を上がるところもありますが、具体的な青写真が一切見えてきません。それが問題ではないかと思うのです。

 

もう一つの記事<大手電力各社作業、空から効率化 ドローンで新サービス開拓>では、ドローンを使って、サービスや維持管理の効率化や新規事業の開拓をうたっています。

 

<人が行うには危険な高所や災害現場などでの作業をドローンで代替し、現場の安全性向上や効率化につなげている。さらに、電力インフラとドローンを組み合わせた新サービスの創出を探る動きも出ている。【袴田貴行】>

 

前者の空撮による危険な箇所での保守点検などは電力に限らずあらゆる分野で活用されるでしょうね。それ自体はよいことでしょう。

 

<海上用の放射線測定器を搭載したドローン><災害時に危険で作業員が入れない場所><山間部の送電線の保守>などもどんどん活用されて良いのでしょう。

 

送電網を使った新しい物流ルートは、「空のハイウェイ」になるかもしれませんね。

<東電のインフラ(鉄塔約5万基、送電線約1万5000キロ、電柱約590万本など)と、ゼンリンの地図情報を組み合わせ、電線沿いを安全かつスムーズに飛行する「ドローンハイウェイ」を構築。楽天はこの「ハイウェイ」を使って空飛ぶ物流サービスを提供する。東電ベンチャーズの赤塚新司社長は「電力インフラとドローンを活用した『空の道』ができれば、大きなビジネスチャンスになる」と意気込む。>

 

たしかにドローンはまだこれから開発可能性をふんだんに秘めているでしょうから、電力事業としてもより活用してもらいたいと思うのです。しかし、これらはあくまで小手先ではないでしょうか。

 

いま電力事業体に求められているのは、抜本的な電力の未来像です。その問題に傾注した研究を是非とも行ってほしいものです。ドイツはすでにその新機軸を生み出そうしているように思えます。

 

ところで、毎日記事でも<論点プラスチックごみ海洋汚染>が取り上げられています。以前から連載記事もあり、注目していますが、電力事業との関係では、プラゴミのリサイクルの主力が焼却による発電というのですから、あきれます。

 

<日本のプラごみ発生量は年約900万トン。うち6~7割を燃やしている。>それをわが国では<「サーマルリサイクル(熱回収)」としてプラごみの焼却熱を発電などに利用する日本の手法>としてこれまでプラスチック分別収集を進めて、行ってきたわけですね。

 

<欧州ではリサイクルと見なしていない点にあると思う。欧州からすれば、焼却は化石燃料を燃やすことと同じで、地球温暖化に影響を与えかねない行為なのだ。>

 

発電というと、再エネの手法として評価される傾向にありますが、私が90年代初頭に加太なで経験したのは、焼却処理はゼロということでした。ま、当時はダイオキシン問題もあり、当たり前でしたが、焼却設備の改良により危険度が低くなったからといっても、地球温暖化という本質問題からいえば、あきらかに逆行する手法ですね。

 

ここの論者も指摘しているように、プラスチックの有用性を認めるとしても、その処理・廃棄に問題があり、地球環境上対応できていないのですから、基本的には使用量をいかに削減するか生産者、流通業者、消費者が真剣に取り組まないといけない問題でしょう。

 

いつのまに一時間を過ぎてしまいました。だらだらと書いているとこうなりますね。そろそろ1000字くらいでまとめる意識をもたないといけないですね。といいながら、饒舌に考えもなく書くことの楽さはロッキングチェアで揺られている感じですので、なかなか直らないかもしれません。今日はこれにておしまい。また明日。


「ボランティア」治山 <尾畑春夫さんのボランティア精神>と<水害は人災>を兼ね合わせて考えてみる

2018-08-24 | 災害と事前・事後

180824 「ボランティア」治山 <尾畑春夫さんのボランティア精神>と<水害は人災>を兼ね合わせて考えてみる+補足

 

Newsポストの本日付ウェブ記事<2才児発見、尾畠春夫さんが説くボランティアとしての心がけ>を読むと、尾畑さんの魅力を改めて感じます。

 

最近の高齢者の話題というと、病気の心配からはじまって何をしたらいいかわからないとか、少しでも若返りたいとか、あるいは年金収入が目減りして将来が不安とか、孤立生活や孤独死のおそれ、さらにはお墓にしようか散骨にしようか、遺産争いにならないようにどうしたらよいか、などといった煩悩のようなものが尽きません。

 

ものは考えようですね。欲望を求めれば尽きません。不安をさがせば浜の真砂です。2歳児の超がつくすごい生命力にも驚かされましたが、その子を発見した尾畑さんには人間の生き方として魅力を感じさせてくれます。

 

だいたいボランティアの心構えが生き方としてすばらしいですね。

< 軽ワゴン車に食料や水、寝袋を積み込み、助ける側から一切、力を借りないことが信条だ。「自己完結するのが真のボランティアだ」と尾畠さんは語る。

「もちろん対価や物品、飲食、これらは一切いただきません。決して“してやる”ではなく、“させていただく”の気持ちで私は臨んでいます」>

 

尾畑さんは悠々自適で暮らしているわけではないのです。

<「私の収入は国民年金だけ。月に55000円です。お金がないなと思ったら、朝ご飯だけ食べて、昼と夜は食べない。それだけのことです」>

すがすがしいですね。78歳にになってこれだけ生一本のような生き方ができれば、あれこれ悩む心を超越しているようにも思えます。

 

その信条は次のようなところから日々つみかさねてきたのでしょうか。

<「かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め」──それが尾畠さんの座右の銘だ。>

 

尾畑さんの生き方をみていて、昔の僧侶というか、社会に尽くそうと思った人は古い時代からいたのではないかとふと思ったのです。

 

たとえば行基ですね。国家宗教として国家が認めない限り僧侶となることができなかった8世紀初め、優婆塞や優婆夷など多くの支持者を動かして、全国各地で、橋を架けたり、ため池や灌漑用水路を作るなど土木事業のほか、寺院道場をつくって導いたり、あるいは貧困者に布施屋など窮民施設を作って施したりと、ボランティア活動の先駆け的大事業を行いましたね。当初は活動を禁圧され排斥されましたが、最後は奈良大仏の造立責任者になるなど、彼の指導力は国家権力も動かしましたね。その彼を指導した道昭も先達として各種社会事業を行い、行基もその後を追ったのかもしれません。

 

その後も僧侶の中にはそういう社会事業、救済事業を率先して行ってきた人が数多くいますが、それが現在でも一部の僧侶などにも影響を与えているのかもしれません。

 

災害時は緊急事態ですので、本来は国家や行政が行うべき事業がなかなか対応できないのが現実ですから、個々、あるいは組織的なボランティア活動は必要不可欠だと思うのです。

 

そのボランティア活動について、社会規範的なルールというか、作法というか、心構えが自然に生まれたり、リーダーが規律することができればいいのですが、なかなかうまくいかないのが現実でしょう。そのようなとき昔であれば、行基のようなカリスマが生まれたかもしれませんが、現代では尾畑さんのような普通の人が理想的な姿を見せてくれるのも、現代的と言えましょうか。

 

ところで、ここからが今日の本論で、なぜ災害が起こるのか、むろん自然の脅威は人知の及ぶところでないことはまず理解しておく必要があるでしょうね。他方で、人為的な原因で起こる災害もあるでしょう。水害といわれるものは人災といって良いかもしれません。

 

小倉康幸著『水害は人災だ』では、自然の脅威によるものは別として、人災による水害が起こっていると指摘して、その対策を述べています。

 

近時の水害は、異常気象による異常局所的豪雨が頻繁に発生し、その結果、土砂崩れ、土石流、深層崩壊などの山林部での形態的な破壊が頻発するほか、山林部から流れる河川の合流部や支流で、越堤、堤防破壊などによる浸水被害をもたらし、人的物的にも甚大な被害となっています。

 

その原因をダム放流や堤防の強化などによる河川水量の制御を中心に進める国交省の従来型の姿勢に対して、長年林野庁で現場管理に従事してきた小倉氏は同著で「森は死んでいる」と述べて、治山・治水こそ重要だと指摘しています。

 

山林を健康に育てていれば、山林および下草がもつ保水力、土壌保持力などで、土砂崩れなどを防ぎ、最近よく取り上げられる流木の流出も防ぐことができるというのです(本書は13年前発行ですが)。

 

それには間伐や下草刈りを適切に実施することで、健康な山林、森林に育てることができるといのです。それにはどうするか、林業経営が市場経済の中で各林業者が経済的採算性を確保することが困難であり、国・行政の支援が必要と言うのです。

 

最近、ようやく国の財政において森林環境税が現実化する動きとなっていますが、このような問題提起が指摘されて、おそらく30年は経過しているでしょう。その間に、森林の治山力・治水力は大幅に低下してきたと思います。

 

そしてもう一つの問題は担い手です。緑の雇用制度の普及で、相当数の若い未経験者も林業社会に入ってきて、少しずつ木漏れ日が当たってきているように思いますが、まだ本来の治山力を発揮するには相当の時間を要するでしょう。

 

そんなとき、高齢者で時間をもてあましている人、若い人で仕事のない、あるいは仕事を見つけられない人、ボランティアとして林業社会に入ってくる人がいないかとふと思うのです。林業は木を切って、自然を破壊するといった一面的な見方をするのではなく、適切な間伐により木々を健康に育て、下草を育て土壌を保持して、治山・治水を有効に働かせ、事前の水害防止となることを考えてみて欲しいと思うのです。

 

災害後のボランティアの役割も大切です。災害が起こらないように活動するボランティアも求められていると思うのです。

 

今日は中身のある仕事の書面を書こうと思ったのですが、どうも乗り気にならず、つい尾畑さんの記事に目が移り、ブログを書いておしまいにしたいと思います。

また明日。


補足

私のブログの中でこの文が人気があるのですが、どんなことを書いたのか忘れていて今日、ふと覗いてみました。誤字脱字は相変わらずですが、内容は割合まっとうなことを言っています。我ながら意外といいなと思ってしまいました。それは尾畑さんの体験からほとばしる一言一句が心に響いてくるからでした。言行一致というか、言葉よりもを行いを大切にする、そのような人間としての真摯な姿勢に打たれてしまうのです。


私自身、この言葉と生き方を肝に銘じて、高齢者として生きたいと思うのです。尾畑さんは私にとって道しるべ的存在です。

 

 


許可制のあり方 <京都土砂崩れ ・・>や<耕作放棄地や所有者不明農地の存在>を少し考えてみる

2018-08-23 | 農林業のあり方

180823 許可制のあり方 <京都土砂崩れ ・・>や<耕作放棄地や所有者不明農地の存在>を少し考えてみる

 

今朝の毎日記事<京都土砂崩れ昨年トラック2500台以上搬入 対応後手>(これはウェブ記事の表現で、紙面記事は少し異なり、「京都残土投棄 規制外地」といった見出し)は、以前もこのブログで取り上げた京都市伏見区の大岩山の惨状について、法的問題に言及し、また写真で拡大表示されています。さらに<空撮・西日本豪雨:不法投棄土砂 住宅目前に>では、動画で周辺の山容が映っていて、この景観破壊や山地の安全性が問題となっています。

 

毎日記事(飼手勇介記者)では、当該山林では大量の建設残土が持ち込まれたこと、京都府は土砂条例が制定されているものの、京都市内は規制対象外となっているということで、適用されない問題が指摘されています。

 

でこの懸絶残土の量はというと、<毎日新聞が入手した記録によると、昨年6~11月に1日最大89台のトラックが出入りし、少なくとも9500立方メートルの土砂を土地所有者に無断で搬入していた。>

 

この問題に対し京都市は、<宅地造成等規制法に基づき、土砂の傾斜を30度以下にして崩落を防ぐよう土地の管理会社に指導。>したということです。

これに対し、<請負業者によると、整形目的の「是正工事」として大型トラック約3000台、計約1万6500立方メートルの土砂を8月中旬までに運び込んだ。>というのですから、驚きです。京都市が関与したら、1.5倍以上に持ち込み残土がふくれあがったのですね。どのような目的と基準で、是正を指導したのでしょう?この京都市の行政対応は適切と言えるのでしょうか。

 

とはいえ、私も過去に許可行政を取り扱うわが国の地方自治体の権限行使の実情を経験したことが何度もありますが、京都市が特に異例とまでいえないように思います。

 

わが国の土地利用規制の法制では、許可権と監督権が行政の権限として、各法律によって多少のちがいはあるものの、認められていて、適正な土地利用を図ろうとしているともいえます。しかし、実際には許可権限自体、一定の基準に適合すれば許可する義務があり、他方で、無許可という違法な行為があっても、監督権の行使については抽象的な定めしかないこともあって、違法行為を元に戻すといった原状復旧を求めるような権限行使はまずないようにおもえます。

 

そのため違法業者はやり得的な意識も根付いて、敢行するケースが少なくないように思えるのです。

 

それと本件では宅地造成等規制法に基づくとありますが、同法の規制対象は「宅地造成」で、2条の定義では「宅地以外の土地を宅地にするため又は宅地において行う土地の形質の変更で政令で定めるもの(宅地を宅地以外の土地にするために行うものを除く。)をいう。」となっています。ま、規制区域内であることは問題になっていないのでしょう。他方で、この定義にあるとおり、非宅地を宅地にするため、あるいは、宅地内で、土地の形質の変更を行うことが対象行為となるわけですが、はたしてこの宅地造成に該当するのか気になります。

 

本来なら、同法の許可基準に適合する、安全性を確保する工事計画を提出させ、技術的な安全性を審査した上で、是正工事をさせるべきであるのに、業者任せになっています。これは本来の監督行為とは言えず、是正指導ともいえないでしょう。京都市自体が同法の適用に自信がなかったのでしょうかね。

 

私は以前、何年間か、こういった監督権行使を行政の責任者と繰り返し協議したことがあり、行政の苦労も多少は知っておりますが、今回そのような汗をかいたのか疑問が残ります。

 

で、ここまでは前置きでして、今日の本題は、農地の許可制を考えたいと思っています。時折、楜澤能生著『農地を守るとはどういうことか』を拝読しているのですが、楜澤氏は許可制の意義を強調して墨守するかのような姿勢を示されています。私はその機能を一定評価しつつ、少なくとも現行許可制は換骨奪胎する必要があると考えています。

 

今回も詳しく同書を引用して議論することはしませんで、農地法の耕作者主義と許可制の問題点の一部を取り上げようかと思っています。

 

私は農地改革がうたった耕作者主義が当時としては望ましいと思いますし、いまでも可能であればそういう方向に進めればと思うのですが、現実はその理想と隔離するばかりではないかと思うのです。

 

それは農地法を含め農地利用法制すべてが、手続における民主性や公開性、判断における自主的な裁量性を欠いている点に重要な問題の一つがあると思っています。加えて、他の都市計画法などの土地利用規制との調整が適切になされてきたことがなく、端的に言えば、耕作者主義とか食糧自給とかの目的に資するような制度的な担保がない中では、形骸化の道を辿るのもやむを得ないと思うのです。

 

耕作放棄地一つとってみても、ようやく指導や勧告などを制度化し、農業委員会の権限強化というか明確化を図ったかもしれませんが、後の祭りのごとく感じます。委員自体も農家も、そういう意識を醸成する環境を失っていませんか。

 

耕作者主義をうたいながら、耕作しない農地を放っておいた付けは、現在、農地の10分の1に達するといわれる40haの耕作放棄地(この数字はずっと以前から変わらないように思いますし、全体を把握できているか疑問です)ではないかと思うのです。

 

他方で、農地転用や農地の権利移転を許可制にして、農業委員会や都道府県知事などの権限にしてコントロールする制度設計は、週末ファーマーがすでに200万人を超え、他方で兼業農家がほとんどという状態の中で、適切な運営を行えているとは思えません。

 

兼業農家がムラの共同体の構成員であっても、ムラの共同水利や共同作業、祭りの担い手として、これらを適切に維持してきたかというと、それも疑問符を投げざるを得ないのです。むろん私が体験したのはわずかなもので、ムラ社会もいろいろですから、しっかり充実したところもあるでしょうけど、現代はすでにあらたなコモンズ社会を求めていると思うのです。

 

話を戻して、許可制の弊害の一つをあげておきます。たとえば、農地の第三者への移転は農家要件(農業経営体であることが求められます)をクリアする必要がありますが、新たに農家になりたい人にとっては参入障壁となっています。また、農地を相続した人で農業をやりたくない人にとっても、難儀な問題です。

 

それに若い頃は元気であっても年をとれば、農作業は若い人の手伝いがあれば別ですが、なかなか容易ではないでしょう。農業には当然、跡継ぎがいるという前提で農地制度が構築されていますが、すでに農村社会にも孤立した高齢者が増大しています。

 

もう一つ重要な問題があります。零細分散錯圃という日本固有の農地利用です。農地を分散して、それぞれの気象条件や季節に応じて栽培する手法はそれ自体、以前は有効だったと思います。しかし、○畝(アール)とか、1反(10アール)未満とかの零細な農地があちこちにあると、合計で数町(ヘクタール)保有していても、移動距離だけで、耕作時間が大幅にとられてしまいます。

 

若い頃ならともかく、どんどん遠いところ、不便な農地は、耕作するのが億劫になるのもやむを得ないでしょう。他方で、住宅地が農地に侵食する(土地利用規制が有効に働かない)ところでは、次第に非農地化が進みます。

 

そんなとき、子供のいない農地所有者はどうしましょう。子供がいても農業を離れてしまった高齢の親はどうしましょう。

 

認定農業者制や農地バンクなど、以前からさまざまな新たな取り組みがなされてきましたが、実態に即したものとなっているか、有効に機能しているか、気になるところです。

 

で、かなり脱線しましたが、許可制の問題の重要な一つは、許可要件に適合しないということで許可しなかった場合の、後の処理が見過ごされているように思うのです。

 

許可条件に適合して許可されれば、農地の移転、新たなの農業者が耕作を開始して新たな船出を飾るでしょうし、農地も新鮮な試みがなされるかもしれません。

 

でも許可されなかった場合、その農地はどうなるでしょう。それこそ、耕作放棄地を作り出す契機になるかもしれません。許可しない場合のモニタリングが行われているといった話は聞いたことがありません。いや、これまで無許可で転用されるといったことはよく聞きます。

 

これらの自体が希なケースであればよいのですが、そのようには思えないのです。許可制を新たな制度設計をして、活き活きとした農地制度に蘇らせる時期にきていないのかと思うのです。

 

今日は台風が来ていますので、早めに仕事を終えようと思っていました。ところが、それに輪をかけたように、被疑者から声がかかって警察署に行く必要がでてきました。そんなわけで、今日はさらに早く仕事を終えるため、ブログも早く書き終えました。また明日。

 

 


高野山100年を生きる <添田清美著『高野山に生きて97歳』>などを読みながら

2018-08-22 | 心のやすらぎ・豊かさ

180822 高野山100年を生きる <添田清美著『高野山に生きて97歳』>などを読みながら

 

宗教家というのは精神肉体を鍛え、超高齢になってもお元気で信徒を導くだけの生きる力を発散している、なんてことは必ずしもないのでしょうね。いや、私が狭い経験で知っている限り、高僧といわれる90歳を過ぎ100歳前後の方で、そのような活き活きした姿を目にしたことがないので、お目にかかりたいとは思いますが。

 

弘法大師空海ですら62年で入寂したのですね。長生きした法然(79年)、親鸞(89年)の終末期はどうだったのでしょうね。それほど快活であったようには見受けられないのですが。

 

むろん、貫首とか門跡、神職や司祭は、100歳前後の超高齢でいらっしゃると、存在すること自体にありがたさを感じる人が多いのでしょう。

 

ところで高野山の最高齢の僧職はどなたでいくつなんでしょうかね。

 

和歌山放送ニュース記事<高野山最高位に静大僧正 金剛峯寺で昇進式>では、

<高野山真言宗総本山・金剛峯寺の第519世・寺務検校(じむけんぎょう)執行法印(しぎょうほういん)に、清涼院の住職、静慈円(しずか・じえん)大僧正75歳の就任が決まり、金剛峯寺できょう(2/22)、昇進式が行われました。>とあります。

 

「法印」が最高位ということのようです。でもまだ75歳とお若いですね。

 

で、<金剛峯寺座主(ざす)の中西啓宝(なかにし・けいほう)高野山真言宗管長84歳がきょう、辞令と緋色の僧衣の目録などを交付しました。>

 

管長は84歳なのですね。いずれにしても、現代の長寿社会では、お二方ともまだまだこれからという印象を受けます。とはいえ100歳前後の僧侶の方はいらっしゃらないのかしらとふと思うのです。

 

そんなとき見出しの書籍『高野山に生きて97歳 今ある自分にありがとう』を最近、通読しました。タイトルがいいですね。昨年97歳の添田清美さん(ご存じない方ですが、さんの方が似合っていると勝手に思ってしまいました)の著作で、生まれが41日ということですから98歳になられています。高野山100年を生きると題しましたが、ま、この方は100年を優に超えて高野山を快活に生きられるのではないかと思うのです。

 

その添田さんの書かれた文章が美しいのです。とても清らかで、仏さんのような?(むろん私は仏を知りませんが)優しい言葉遣いです。ほんとに97歳の高齢者が書いたのかと、疑うような失礼な気持ちになってしまいました。よくある代筆ではないかと・・まったくの誤解ですね。

 

というのは<97歳添田清美さんのお話>というタイトルで、ユーチューブでそのお声と話を聞くことができます。立て板に水ですね。なめらかな語り口、添田さんが終戦直後から守ってきた蓮華定院の宿坊に宿泊された方を前にお話しする声がみなさんを元気にさせてくれそうです。

 

毎日も今年116日記事<輝集人英語が得意な宿坊の名物お母さん 添田清美さん 高野山で語学力を発揮 /和歌山>で添田さんのことを取り上げています。

 

高野山に生まれ、戦前、東京女子大学英文科を卒業され、なんと国文科の瀬戸内寂聴さんの先輩で、戦後すぐ蓮華定院の住職跡継ぎに嫁がれ、以来、そこで高野山の厳しい四季を過ごし、重労働とも言える宿坊の世話をしてきたのですね。ご長男は現在の金剛峯寺主務総長である添田隆昭氏(70歳)です。

 

さて、著書からいくつか添田さんの言葉を引用させていただこうと思います。

 

「90歳を過ぎてしまっても、まだ悔いていることがあります。」

まるで北斎のような、気力と自己認識、そして探究心をお持ちのお方と思うのです。それが元気の源でしょうか。

 

「未完成だからこそ、成長を志す、そういう気持ちをいくつになっても持ち続けたいと思うのです。」

先の言葉に通じるものがありますが、生を限りあるものと自覚しつつ、最後まで自分の至らなさ、未完成さを認識できる能力というのでしょうか、それを伸ばそうというか、よりよくしようとする意欲こそ、認知症とか、体力の衰えを回避する有効な手段であることを示しているようにも思えるのです。

 

「死という自身の生の結末を含めて、人生を謡歌したい。」

死を怖れるのではなく、それを素直に、自然に受け入れつつ、生を、人生を楽しむ、謳歌することを日々、心がけていらっしゃることを学びたいと思うのです。

 

そしてすごく大事なことを自然に語っています。

「長く生きていて感じるのは、まずは感謝です。」

私は改めて、「謝」という言葉の意味を調べてみました。いくつも意味がありますが、2つに注目しました。

「1 わびる。あやまる。「謝罪/陳謝」」

礼を言う。「謝意・謝恩・謝礼/感謝・多謝・拝謝」」

まるで相反するような意味合いにもとれる謝ですね。添田さんは3の感謝の気持ちを日々持ち続けてきた方かなと思うのです。1もあるでしょうけど、感謝の気持ちを重視されて、その気持ちでつねに対処すれば、わびることは少なくてすむかもしれませんね。

 

誰にでも、苦手な人、うまくいかない人が世の中いますね。そんなときどうしましょう。

「反りが合わない人にほど、親切にする」

「まず自分から親切に尽くす。これでだいぶ変わってくると思います。」

まずは自分の心持ちを変えること、難しいけど、自然な言葉で語っています。

 

その他、97歳、すでに98歳になられた元気な添田さんの言葉は、心にしみるいい響きがあります。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。