「石の上にも三年」・・・
という文言、ある。
何故にこんな文言飛び出すか?その理由、あり。
実は、先月2月の20日をもって、gooグログ開設して丸三年経過した、、、。
我ながら、よく続いたものだと思う。今にして思うに、何故か、たいした感動はなく、意気消沈とまではいかぬとも「憂鬱」としている感、無きにしも非ず!である。
「・・・?」
そう、一体全体「3年」もの間ブログを書き続けたことから、自分は何を得たのであろうか?
そして、何を失ったのであろうか?
自分にとってプラス或いはマイナスを考えるは野暮であるとも思うけれど、実質的に「それなりの時間」を掛けてブログを書き続けて来たのであるから、得失を考えない人間はいないであろう。おおよそ自分自身も並の人間であるからして、得失を考えるは当然の成り行きであろう。
三年経過した今、そして3月1日を迎えた今、4年目に突入する今、反省と回顧の範疇にて、あらためて自分自身のケースを挙げてみたい。
1. まずは、失ったものは、何か、、。
A)第一に、大切な自分の時間を失った。
つまり、若し、ブログを書いていなかったら、自分はその時間を何かに当てていたはず。少なくとも、その時間に読書しておればこの3年間で「読めた本」はどのくらいになるか。想像しただけでもワクワクする。かなりの書籍を読破できていたに違いない。
B)次に、この3年間の紆余曲折あれども、自分の「書きたいモノ」を書く時間、これを見事に失った。
ブログを書く神経構造と、自分のモノを書く時の精神構造は、まるっきり違うことが解った。加えて、若しもブログにしたためた文字数を自分の作品の文字数に置き換えれば、とっくに完成したはずの「作品」を書き上げる時間を完璧に失っている。ブログの文字数より少なくても、作品は完成したはず。そう、3分の1だけでよい。この文字数だけで、すでに作品は完璧にでき上がっていたはず! 等と、いささか「口惜しさ」を残して今日を迎える、、、。
結論として、
「読むこと」と「書くこと」の時間を失った、、、。
しかし、失ったのは自分自身の可処分的時間であり、決して「読書の時間」と「作品を完成させる時間」を失ったことにはならない。 時間あっても読書には繋がらなかったかもしれないし、作品に向って執筆するための時間に割り当てていなかったかもしれない。
2.ブログを書き連ねることによって得たものは、何か。
A)ブログを書く作業はできた。それは単に「書く作業」ではなく、間違いなく(ブログの範疇ではあるけれど)創作活動をしていたはず、、。とにかく「書いた事」には違いないか。
B)うれしいことに、自分の創作した記事を読んでくださる読者、つまり、ブログを通じて仲間ができた。これはブログを書いていなければ、存在しえない財産である。財産は次なる資産を生む。次なる資産とは、読者諸兄姉から次のブログ記事創作のヒントを頂くことに他ならない。そのヒントを以ってして、今日までブログを継続できた。と、信ずる。これは、大切な自分の財産と考える。
C)更に、短時間内に「書き切る作業」の特訓はできた。もちろん、他人様との比較ではなく、自分自身の昨日と今日、今日から明日へ繋がる「内的トレーニング」の範疇に留まってはいるものの、3年前の自分の「書く力」と比較し、より「書く力」を増幅できた。と、確信したい。
あれこれ客観的に眺めれば、次なる疑問が生じる。
1)ブログ書くための「書くエネルギー」は、作品創作の力量へのブラッシュアップに直結しているかどうか?
これが大いに疑問である。
ブログ記事は、あくまでもブログ投稿の為に(自分なりに)アレンジしたものであるからして妥協の副産物である。妥協の副産物を書き連ねても、すでに自主性失われており個性や表現したいことの一貫性は消え失せている。となれば、作品創作のベースに貢献できているのか如何か?この辺りまで突き詰めて来ると、かいもく解らなくなる。
2)加えて、上述「失った時間」の「埋め合わせ」は、できているか? これが解らない。 経済学的・経営学的な物差しに当てて物理的得失を考えれば、これ以上の詮索は無粋であるか。 ならば止めておこう。
どうやら、自分自身問わねばならぬ「観点」は、別のところにあるようだ。
そうだ!
見落としている点あり。
今ひとつ、「ブログを楽しむ」というアマチュアリズム的ブログ製作者の共通した考え方から逸脱してはならない。と、思う。
そう!
もう一度、アマチュアリズムに戻ろう、、、。
ブログを書き続けたいと望むなら、後にも先にも「自然体」を維持するのみか。すなわち肩の張らない「アマチュア精神」に立ち戻り、気負わずに書き続けたい・・・