<添付画像>:前回記事に続く「旧友N君」のジープ、コンソールパネルを視る、、
このジープの車齢は、何と、20年である。と、云うから驚いた!
もともとジープという「名詞」を聞いたのは終戦後(1945年以降)、かのアメリカ進駐軍の将校やMPどもの乗り回していたもの! かくして我輩幼少の折り、米軍将兵達の乗り回していた姿を実際に見た記憶あり。 当時、我国の貨物運搬用車輌といえば、馬車馬に荷車を引かせ物資を輸送していた面影も、遠き歴史の一ページに刻み込まれている。 その後「マツダの三輪トラック」なるもの主流となり、これまた街中を走っていた情景も走馬灯のように脳裡から瞼の裏側に蘇るから、幼き頃の記憶とは、いと面白い、、、。
N君とこのジープの出会い、その経緯、助手席に乗せて貰って出発進行して以降、我家に辿り着くまでの約40数分間に亘り、その経緯をくまなく拝聴する。
1)某銀行員時代、四国松山に単身赴任中に購入した。
2)元のオーナーは、車のタイヤ販売店オーナとの事。当時、このジープのみならず別に5~6台、アメ車欧羅巴車国産車問わず珍しいスーポーツカーを蒐集していた特殊人物。
3)当時のN君は、珍しいスポーツカーを購入したいと想っていた。 目的は、すなわち家族サービス無用の週末の暇つぶしに、珍品名車を駆って四国一周を志す。
4)上述の如く、単身赴任にかこつけて、
「週末は、四国山脈の原野河川に入り込み、思いっきり山野を駆け巡ろうか・・」
等と、未舗装道路ドライヴ専科を考慮した結果、このジープに標的を定めた。
5)三国志もどき「三顧の礼」を上回ること5回に亘りオーナーに合いN君流儀にて口説き、断られても断られても怯むことなく「五顧の礼」をもってようやく、元オーナーはN君に対し「然るべき査定金額」にてこのジープを譲ることになったのは、かれこれ10年も前になるか。
6)それから数年後、郷里に赴任帰参叶うも、このジープ所有の事、奥方にバレてしまい、「家族にとっては何ら貢献しない無用の乗り物である」との認識から、奥方のお叱りを受ける。
(男らしさとダンディズムを旨とするN君も、奥方にはそうとう弱いと観る・・・)
7)その後N君は定年を迎え、今尚「このジープ」を手放さず大切に管理メンテは怠らず、現役時代に叶わなかった「行動:四国一周周遊」を、3年前に果たしたとの事。昨年は、九州を一周したという。
あらためて、計器類を観る。
なかなかのものである。
いかにも、頑丈且つ無骨である。
なるほど、もともと軍用車である。
助手席に同乗させてもらった感想として、一にも二にも、決して乗り心地良くない。 こんな車で四国一周九州半周?など、とんでもない。 宇品港から我家に送り届けて頂くだけでも「疲れ」果て? そろそろ腐熟しかけた我が脳味噌は、クッション悪きイタバネの反動にてかき混ぜられ、むしろ逆作用にて頭脳明快になったやも知れぬけれど、ここは判断基準なる物差しの持ち替え以外、何物も判明しないであろうぞ、、、。
今、想うに、
「これだけ揺られる方が、乗り物らしくてよいではないか!・・・」
自衛隊の将兵、このような無骨な乗り物で、日々、時々再々、兵隊さん的団体移動をなさっとられるのだ。 我輩、同じ体験をする。
陸上自衛官の皆様、ご苦労さんです。
そんなこんな、このジープとは?!
おおよそ、陸上自衛隊用に生産されたものか? 訳の解らぬ想像妄想を燻らしても埒はあかない。 これ以上の御託はうっちゃって於いて、そろそろ我輩愛読する「ウイキペディア百科事典」を開いて見た方がよさそうだ・・・
<第一回記事は、こちらから入れます)
<以下、添付資料>
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《三菱・ジープ》
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(こちらから入れます)
三菱ジープは、中日本重工業・東洋工機が生産、中日本重工業・新三菱重工業・三菱重工業・三菱自動車工業が販売していた自動車である。
目次
1 概要
2 歴史
3 生産拠点
4 外部リンク
概要
第二次世界大戦終了後、旧警察予備隊は四輪駆動車を必要しており、1953年ウイリス社との提携によりジープ(CJ3A)のノックダウン生産が始まった。初期モデルにはスリーダイヤが無かった。主な顧客は防衛庁で大きな変更も無く1998年まで製造されていた。
歴史
1953年:製造開始。当初は左ハンドルだったが、のちに通商産業省の指導で右ハンドル化される。
1973年:防衛庁の指示でジープをベースにした73式小型トラック登場。
1982年:パジェロ登場に伴い、グレードを大幅に整理。
1996年:防衛庁が長らくジープを採用していたが排ガス規制に適合させるためのエンジンが搭載できないためパジェロベースの新型73式小型トラックが登場する。
1998年:製造中止。
生産拠点
中日本重工業(分割された三菱重工の一つ、再合併して三菱重工業となった1967年まで)
東洋工機(現パジェロ製造、1967年から一貫生産)
(以上、ウイキペディア百科事典からの引用・終・・・)
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<注-1>:お勧め「三国志」は、、
まずは正調、吉川作品
さらに、
これが面白い、、、
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<注-2>:三顧の礼のこと
* [goo辞書より]
さんこ 1 【三顧】
〔諸葛亮「前出師表」より。蜀(しよく)の劉備(りゆうび)が諸葛亮を軍師に迎えようとして、その庵(いおり)を三度訪れた故事による〕人に仕事を頼むのに、何度も訪問して礼を尽くすこと。
「―を尽くす」
「三顧の礼」
(ウイキペディア、「諸葛孔明」開設より抜粋・・)
曹操は200年に袁紹を打ち破って華北の覇権を手中にしており、後の諸葛亮の主君・劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼り、荊州の北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。有志の間では、北の曹操の強大化に伴い、これまで平和であった荊州も危険になるのではないかと話し合われていたが、頭領の劉表は高齢から病気がちになり、その後継も長男・劉と次男の劉との間で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。
その中で諸葛亮は相変らずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており諸葛亮の事を劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言い、劉備は3度諸葛亮の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。なお裴松之注に引く『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は臥龍と鳳雛と、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話を載せる。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話を載せている。ただしその後に裴松之自身の案語として「『出師表』には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、しかる後天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識にほれ込み、ついに諸葛亮は劉備に仕えた。
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『諸葛亮』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸葛亮(しょかつ りょう、ピンイン:Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。
伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。また『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称している。(・続く・・・)
このジープの車齢は、何と、20年である。と、云うから驚いた!
もともとジープという「名詞」を聞いたのは終戦後(1945年以降)、かのアメリカ進駐軍の将校やMPどもの乗り回していたもの! かくして我輩幼少の折り、米軍将兵達の乗り回していた姿を実際に見た記憶あり。 当時、我国の貨物運搬用車輌といえば、馬車馬に荷車を引かせ物資を輸送していた面影も、遠き歴史の一ページに刻み込まれている。 その後「マツダの三輪トラック」なるもの主流となり、これまた街中を走っていた情景も走馬灯のように脳裡から瞼の裏側に蘇るから、幼き頃の記憶とは、いと面白い、、、。
N君とこのジープの出会い、その経緯、助手席に乗せて貰って出発進行して以降、我家に辿り着くまでの約40数分間に亘り、その経緯をくまなく拝聴する。
1)某銀行員時代、四国松山に単身赴任中に購入した。
2)元のオーナーは、車のタイヤ販売店オーナとの事。当時、このジープのみならず別に5~6台、アメ車欧羅巴車国産車問わず珍しいスーポーツカーを蒐集していた特殊人物。
3)当時のN君は、珍しいスポーツカーを購入したいと想っていた。 目的は、すなわち家族サービス無用の週末の暇つぶしに、珍品名車を駆って四国一周を志す。
4)上述の如く、単身赴任にかこつけて、
「週末は、四国山脈の原野河川に入り込み、思いっきり山野を駆け巡ろうか・・」
等と、未舗装道路ドライヴ専科を考慮した結果、このジープに標的を定めた。
5)三国志もどき「三顧の礼」を上回ること5回に亘りオーナーに合いN君流儀にて口説き、断られても断られても怯むことなく「五顧の礼」をもってようやく、元オーナーはN君に対し「然るべき査定金額」にてこのジープを譲ることになったのは、かれこれ10年も前になるか。
6)それから数年後、郷里に赴任帰参叶うも、このジープ所有の事、奥方にバレてしまい、「家族にとっては何ら貢献しない無用の乗り物である」との認識から、奥方のお叱りを受ける。
(男らしさとダンディズムを旨とするN君も、奥方にはそうとう弱いと観る・・・)
7)その後N君は定年を迎え、今尚「このジープ」を手放さず大切に管理メンテは怠らず、現役時代に叶わなかった「行動:四国一周周遊」を、3年前に果たしたとの事。昨年は、九州を一周したという。
あらためて、計器類を観る。
なかなかのものである。
いかにも、頑丈且つ無骨である。
なるほど、もともと軍用車である。
助手席に同乗させてもらった感想として、一にも二にも、決して乗り心地良くない。 こんな車で四国一周九州半周?など、とんでもない。 宇品港から我家に送り届けて頂くだけでも「疲れ」果て? そろそろ腐熟しかけた我が脳味噌は、クッション悪きイタバネの反動にてかき混ぜられ、むしろ逆作用にて頭脳明快になったやも知れぬけれど、ここは判断基準なる物差しの持ち替え以外、何物も判明しないであろうぞ、、、。
今、想うに、
「これだけ揺られる方が、乗り物らしくてよいではないか!・・・」
自衛隊の将兵、このような無骨な乗り物で、日々、時々再々、兵隊さん的団体移動をなさっとられるのだ。 我輩、同じ体験をする。
陸上自衛官の皆様、ご苦労さんです。
そんなこんな、このジープとは?!
おおよそ、陸上自衛隊用に生産されたものか? 訳の解らぬ想像妄想を燻らしても埒はあかない。 これ以上の御託はうっちゃって於いて、そろそろ我輩愛読する「ウイキペディア百科事典」を開いて見た方がよさそうだ・・・
<第一回記事は、こちらから入れます)
<以下、添付資料>
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《三菱・ジープ》
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(こちらから入れます)
三菱ジープは、中日本重工業・東洋工機が生産、中日本重工業・新三菱重工業・三菱重工業・三菱自動車工業が販売していた自動車である。
目次
1 概要
2 歴史
3 生産拠点
4 外部リンク
概要
第二次世界大戦終了後、旧警察予備隊は四輪駆動車を必要しており、1953年ウイリス社との提携によりジープ(CJ3A)のノックダウン生産が始まった。初期モデルにはスリーダイヤが無かった。主な顧客は防衛庁で大きな変更も無く1998年まで製造されていた。
歴史
1953年:製造開始。当初は左ハンドルだったが、のちに通商産業省の指導で右ハンドル化される。
1973年:防衛庁の指示でジープをベースにした73式小型トラック登場。
1982年:パジェロ登場に伴い、グレードを大幅に整理。
1996年:防衛庁が長らくジープを採用していたが排ガス規制に適合させるためのエンジンが搭載できないためパジェロベースの新型73式小型トラックが登場する。
1998年:製造中止。
生産拠点
中日本重工業(分割された三菱重工の一つ、再合併して三菱重工業となった1967年まで)
東洋工機(現パジェロ製造、1967年から一貫生産)
(以上、ウイキペディア百科事典からの引用・終・・・)
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<注-1>:お勧め「三国志」は、、
まずは正調、吉川作品
三国志〈3〉講談社このアイテムの詳細を見る |
さらに、
これが面白い、、、
正史 三国志 全8巻セット筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
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<注-2>:三顧の礼のこと
* [goo辞書より]
さんこ 1 【三顧】
〔諸葛亮「前出師表」より。蜀(しよく)の劉備(りゆうび)が諸葛亮を軍師に迎えようとして、その庵(いおり)を三度訪れた故事による〕人に仕事を頼むのに、何度も訪問して礼を尽くすこと。
「―を尽くす」
「三顧の礼」
(ウイキペディア、「諸葛孔明」開設より抜粋・・)
曹操は200年に袁紹を打ち破って華北の覇権を手中にしており、後の諸葛亮の主君・劉備は袁紹の元から逃げ出した後、曹操に追い散らされて劉表を頼り、荊州の北部・新野(河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。有志の間では、北の曹操の強大化に伴い、これまで平和であった荊州も危険になるのではないかと話し合われていたが、頭領の劉表は高齢から病気がちになり、その後継も長男・劉と次男の劉との間で激しい争いが行われ、有志たちの失望を買っていた。
その中で諸葛亮は相変らずの晴耕雨読の生活を過ごしていたが、徐庶は劉備の元に出入りしており諸葛亮の事を劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に孔明を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言い、劉備は3度諸葛亮の家をたずねて、やっと会うことができた。これが有名な「三顧の礼」である。なお裴松之注に引く『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は臥龍と鳳雛と、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話を載せる。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話を載せている。ただしその後に裴松之自身の案語として「『出師表』には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実にわけの分らぬ話である」とある。
この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たる事を避けて荊州・益州を領有し、しかる後天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識にほれ込み、ついに諸葛亮は劉備に仕えた。
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『諸葛亮』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸葛亮(しょかつ りょう、ピンイン:Zhūge Liàng、181年 - 234年 8月23日)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍略家。字は孔明(こうめい)。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。
伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。
妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原(景春)らがいる。また『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称している。(・続く・・・)