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大亜細亜悲願之碑(2);東京軍事裁判、判事・パール博士のこと

2013-10-03 08:45:55 | 教養・文化・歴史
<添付画像>パール博士揮毫石碑
(撮影年月日)平成25年9月23日
(撮 影 者)トーマス青木

 石碑の文言によれば、パール博士は昭和27年に来広されている。
 その時分に、(在広島の?)某団体からのリクエストをお受けになって揮毫された、とある。
 書き写ししながら、碑文建立の趣旨や経緯について詳細を知りたくなった。
 もちろん過去に幾度か、パール博士碑文のお話しをお聞きし掛けたけれども、それを主題にする状況ではなかったので、しかと聞き及んではいない。
 こうなったら、いてもたってもおれなくなった。
 是非とも今月中旬迄にアポイントをとって、本照寺ご住職にお会いしたい。石碑の経緯を、あらためてお訊ねしてみる。
 戦時中のこと、先代住職(現在のご住職の御父上)が満州に渡り、布教に勤められた。終戦後(昭和20年)から数年経って引き上げ者として帰国された。新たに配属された寺が、原爆で被災した広島市内のお寺(現在の本照寺)になった、と聞いた。その時以来、本照寺が満蒙開拓団の引揚者達のアジトになり、先代住職を取り囲んで毎晩酒盛りが繰り広げられた、とも聞く。ここら辺りの武勇談や豪傑話は今のご住職がしっかり引き継いでおられるはず。 しかとお聞きして、パール博士の石碑との関連性を整理したい。
 したがって石碑もう一回、最終章を認めます。(トーマス青木)

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(以下、石碑本文の写し)

 ベンガル語の慰霊文は東京軍事裁判でただ一人

 心理と国際法に基づき 日本の無罪を主張し

 原爆投下の非人道性を指摘した インド代表判事パール博士が 

 昭和二七年の秋来広の際 期の碑文建立の趣旨に共感し 

 半日瞑想推敲して揮毫されたものである

 アジアの民族解放運動と戦禍にたおれた

 満蒙華印等動乱大陸の人々の面影偲び 浄石にその名 記し

 石窟内に奉安 有志恒友相倚り碑を建立した

 慰霊の式典をかさねこと三十三回

 昭和四十三年五月 恒友協力 浄域を整え再建す


    日 文 源田松三筆

    英訳文 エ・エム・ナイル

    碑 銘 大亜細亜 は 

    宮島詠士先生 遺墨に依る


             (以上、下記写し了)

   <…第3章に続く…>



* 前編『大亜細悲願の碑亜(1)』へ、こちらから戻れます・・・


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