「添付画像」本照寺の本堂(令和元年8月上旬、撮影)、、、
毎年8月5日になると、広島市中区小町本照寺にて盂蘭盆施餓鬼会の為、早朝からお参りに行く。当山(本照寺)には少なくとも年間4回の行事あり、本堂入り口の斜め前に位置するパール博士関連の石碑はその度に礼拝し、その存在には慣れ親しんでいるにもかかわらずこの数年間、境内に入る度に、気になって仕方のない「とある事柄」を思い出す。
それはトーマス青木自身のこと、あまりにも中途半端過ぎ(卑怯にも)忘れてしまおうとした事案を握ったままにしていることを思い出すからストレスが溜り続けていたのだ。
先週末、とある方に相談し、アドバイスを頂き、ようやく前に進む意欲がわいてきました。
たいへんありがとうございます。
そして、本日(令和元年8月21日)、関連ブログ記事を更新できました。
~~~~~~ 以下、<本日本文> ~~~~~~
あれから5年以上にもなるか、、、
連載投稿の執筆が途切れてしまったままになっている『大亜細亜悲願の碑(1)~(2)』副題(東京軍事裁判判事パール博士のこと)につき、当ブログに記事掲載したのは下記の通り、2013年10月3日付にて第2巻目を記事掲載してのち5年11ヶ月間も放り投げたまま中断しているのだから、みっともなさ過ぎる。
前編『大亜細悲願の碑(1)』へ、こちらから戻れます・・・)
続編『大亜細悲願の碑(2)』へ、こちらから入れます・・・)
放り投げていた理由は?
言い訳にも出来ない、かなり大きな「中断の理由」がニつあった。
第一に、投稿始めた年2013年の12月、我が実弟、急死する。以後数年間に亘り若干寺関係との問題あって我が人生の道すがら、予想外の多忙を極めたこと。
第二に、投稿の為、聞き取り調査をお願いしていた当時(2013年10月)の住職様が、急に(3年前?に)お亡くなりになってしまい、トーマスには十分な聞き取りが叶わず、作業中断していたこと。
さて、
こうして放り投げていた「本照寺における『パール博士碑』の建立されている経緯」に関し、トーマス青木自身と本照寺の関係から判明しいている基本情報と、この度聞取った断片新情報をかき集めてみれば、極僅か、以下のようになる。
本照寺境内に於けるパール博士石碑建立のきっかけは如何か。戦前(1945年以前)の独立国家だった満州国と、英国に対して独立を求めていたインドとの、政治運動風架け橋(橋渡し)的な絆を携えておられたキーパーソンが(今となっては先々代となられる)本照寺住職であったとの事が、石碑建立の理由である。と思われる。
1945年夏、先の大戦に於いて敗戦の憂き目に遭遇し、満州を追われた当時の日本人は全員引揚者として敗戦日本本土に帰還(引上げの途中、命を落した人々、大多数あり)。当時宗派組織大本山(本部)より、満州国布教を拝命される。(確か、昭和10年に)大陸に渡られた先々代住職が帰還され(昭和21年)配属された勤務先が、何と被爆後の広島本照寺(昭和23年)であったとのこと。戦後も、インド独立運動家と先々代住職との交流は継続し、そのアジトが広島市内の本照寺本堂であったと聞き及ぶ。
ともあれ先々代住職の存在が大きな要因にて、戦後1957年に建立されたパール博士碑は、日本の敗戦と広島の原子爆弾による被災、パール博士の理念と『東京裁判』のあれこれ、先々代住職の満州国におけるご活躍、等々の絆と絆を手繰り寄せて今日、本照寺境内にある。
お亡くなりになった先代住職の口述解説のみでは、あまりにも受け取る側トーマス自身の基礎知識が脆弱過ぎた。そのため、基礎知識拡充のため、数冊の書籍を紹介下さり、それを読み進めながら時間をかけてご解説下さる予定だった、と思える。
となれば、当時簡単に考えていた満州国の国際的背景に関しては、未知なことが多く、5年経った現在、そこはかとなく満数国関連の歴史を知りたく、未知の知識習得に欲が出てしまう。
広大なアジア諸国(戦前は独立していなかったからアジア地域)とヨーロッパ列強に米国と中国とロシアの政治的立ち位置の比較をフィールドワーク(書籍資料上にて)してみたく、もちろん日本敗戦後の東京軍事裁判の判決等にも、さらに一歩踏み込んで資料整理し、パール博士の周辺(インド独立運動など)にも踏み込んで資料調査し、研究したく思います。
当ブログの投稿シリーズ記事としては、現時点での結論を得るまでもなく、近未来への発展的思考に転換したく先駆けとして位置させ、この投稿(No.-3)の手仕舞をさせて頂きます。
〈追伸〉パール博士碑関連記事の続編を発表ます。その内容としては、中区の広島三井ガーデンホテルから中区小町本照寺迄約5分間の道のりを、写真画像で紹介させて頂きます。