旭川(後楽園真景及詳誌には曦川とあります)は全長三十余里で、源は美作の竜王の池に発して、吉備高原を嵌入蛇行して、岡山市街を貫き、そして、終には児島湾に流れ込んでいる大河です。
その旭川が岡山に入ると、すぐその西岸に烏鵠城の雄姿が高く天に聳えています。その北の流れを隔てた中洲に、一区を画して、東西南北竹林に囲まれた場所が目につきます。それが日本三公園の一つである、名高き岡山後楽園です。
この園は、今は昔、貞享三年(一六八六)備前岡山藩主 左少将池田綱政朝臣がその家臣 津田重次郎永忠(つだぢんぢろうながただ)に命じて造園の準備に入り、その翌年、貞享四年十二月から工事は始められました。
着工してから幾度か拡張のための工事も行われ、ついに、元禄三年(1700)三月に、現在のような大名庭園が出来上がったのです。
その総面積は27,013坪で、園の中央から計ると、東西200間(360m)、南北120間のある広大な庭園です。その中を蛇行して流れる曲水の長さは350間(640m)にも達しています。

この図は、明治初年の岡山後楽園の平面図です。
その旭川が岡山に入ると、すぐその西岸に烏鵠城の雄姿が高く天に聳えています。その北の流れを隔てた中洲に、一区を画して、東西南北竹林に囲まれた場所が目につきます。それが日本三公園の一つである、名高き岡山後楽園です。
この園は、今は昔、貞享三年(一六八六)備前岡山藩主 左少将池田綱政朝臣がその家臣 津田重次郎永忠(つだぢんぢろうながただ)に命じて造園の準備に入り、その翌年、貞享四年十二月から工事は始められました。
着工してから幾度か拡張のための工事も行われ、ついに、元禄三年(1700)三月に、現在のような大名庭園が出来上がったのです。
その総面積は27,013坪で、園の中央から計ると、東西200間(360m)、南北120間のある広大な庭園です。その中を蛇行して流れる曲水の長さは350間(640m)にも達しています。

この図は、明治初年の岡山後楽園の平面図です。