後楽園十勝の栄唱橋についてもう少しお話します。
この橋は、それまで随分久しく、原因やその時間のほどは不明ですが、とっぱられていてなかったのだそうです。それか、明治27年になって、昔そこに架かっていた橋が、そのまま元の通りに復元されたと言う事です。それが現在ある橋です。
そんなん事実を裏書するような一枚の絵が、「後楽園真景及詳誌」に載っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/56/7d76684e60589f9d213e17822d345417.jpg)
この本が出版されたのは明治24年ですから、その当時には、この絵からも分かるように、栄唱橋はなかったのです。
なお、この橋についても、藩主綱政侯が詠まれたお歌が残っています
花の香は むせぶ許りに たちこめて
霞ぞ渡る 谷のつぎはし
この綱政侯は、前にも説明したとおり、岡山藩主であるとともに、一角の歌詠みでもあったのです。
これも、蛇足ですが一言。
この橋が架かっている池の畔にある大立石の西側一帯にあるこんもりと茂っている森が「花葉の森」と呼ばれています。この森の北西隅に、いわゆる「チサの木」と呼ばれる珍しい木があると聞いているのですが、何回訪ねてみても、私には、まだ、見つけることは出来ません。念のために、此の木は、あの「伽羅先代萩」にも出で来る「こちの裏のちさの木に」の木なのだそうです。
なお、伽羅は「きゃら」でなく、「めいぼく」と読ませています。ちなみに、伽羅は香木で名木の別名を持っている木ですから、この場合、敢て「めいぼく」と読ませたのだそうです。
この橋は、それまで随分久しく、原因やその時間のほどは不明ですが、とっぱられていてなかったのだそうです。それか、明治27年になって、昔そこに架かっていた橋が、そのまま元の通りに復元されたと言う事です。それが現在ある橋です。
そんなん事実を裏書するような一枚の絵が、「後楽園真景及詳誌」に載っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/56/7d76684e60589f9d213e17822d345417.jpg)
この本が出版されたのは明治24年ですから、その当時には、この絵からも分かるように、栄唱橋はなかったのです。
なお、この橋についても、藩主綱政侯が詠まれたお歌が残っています
花の香は むせぶ許りに たちこめて
霞ぞ渡る 谷のつぎはし
この綱政侯は、前にも説明したとおり、岡山藩主であるとともに、一角の歌詠みでもあったのです。
これも、蛇足ですが一言。
この橋が架かっている池の畔にある大立石の西側一帯にあるこんもりと茂っている森が「花葉の森」と呼ばれています。この森の北西隅に、いわゆる「チサの木」と呼ばれる珍しい木があると聞いているのですが、何回訪ねてみても、私には、まだ、見つけることは出来ません。念のために、此の木は、あの「伽羅先代萩」にも出で来る「こちの裏のちさの木に」の木なのだそうです。
なお、伽羅は「きゃら」でなく、「めいぼく」と読ませています。ちなみに、伽羅は香木で名木の別名を持っている木ですから、この場合、敢て「めいぼく」と読ませたのだそうです。