しつこいようですが、再び、綱政侯の「魯に非ず」を、私なりに証明しておきたいと思います。
後楽園十勝の一つ暫軒風を詠んだ歌を先にあげましたが、その他、この綱政は多くの歌を詠んでいます。
その中に、岡山川口八景と題して、
高嶋秋月 月はなほ松の木ずへに高島の波の玉藻にかげをやどして
濱野夜雨 船かけていく夜かなれぬ雨の中はうきねの枕苫のしずくに
常山暮雪 夕されば汐風までも寒くしてまづつねやまにふれる白雪
上寺晩鐘 海越のひびきやいづこ夕風のたよりにつたう入相の鐘
平井落雁 見たれすのつらも霧間に見え初めて平井の潟に落ちるかりがね
網濱夕照 夕づく日なごりも遠くうつろふは汐や引くらん後のはまべに
湊村晴嵐 あまの住む里の外面にほす網をあへす吹きまく嵐はげしも
北浦帰帆 追かぜにかへる浦半のいざり船けふのしわざのかいもあればや
この八首を詠んでいます。
もしも、綱政侯が、徳川家の記録に残っているような魯鈍な藩主だったとすれば、決して、できなかったのではと思っています。
もう一つ紹介しておきます。
「御後園慈眼堂への御奉納御歌」として、次のような書きものとともに
普門品一軸は、むそじの冬思立て、二夜のともし火の下にて書き写し、慈眼堂に奉納、心願のあらましをここに記す。国家安泰・子孫繁栄に、ながくひさしく、綱政いやしくも吉備の国の司を補し、近衛の次将に任じ随身の士卒こちたく、おふぎねがはくば、我ともにこの障りなく、邪のわざわひをしりぞけ、人民快楽にまもり給へと、弘誓ひたのみたてまつるのみ也。
底ひなき ちひろの海に たとへつる
ひろきちかいの かげたのむなり
元禄十年王眸古辛月念日 左近衛権少将源
奉納しています。
なかなかの教養人でなかったら書けないと、思います。
なお、綱政も書き残している通り、当時は[後楽園」ではなく「後園」と呼ばれていていたことが分かります。後楽園と言うのは、あくまでも、明治以降の名称なのです。
後楽園十勝の一つ暫軒風を詠んだ歌を先にあげましたが、その他、この綱政は多くの歌を詠んでいます。
その中に、岡山川口八景と題して、
高嶋秋月 月はなほ松の木ずへに高島の波の玉藻にかげをやどして
濱野夜雨 船かけていく夜かなれぬ雨の中はうきねの枕苫のしずくに
常山暮雪 夕されば汐風までも寒くしてまづつねやまにふれる白雪
上寺晩鐘 海越のひびきやいづこ夕風のたよりにつたう入相の鐘
平井落雁 見たれすのつらも霧間に見え初めて平井の潟に落ちるかりがね
網濱夕照 夕づく日なごりも遠くうつろふは汐や引くらん後のはまべに
湊村晴嵐 あまの住む里の外面にほす網をあへす吹きまく嵐はげしも
北浦帰帆 追かぜにかへる浦半のいざり船けふのしわざのかいもあればや
この八首を詠んでいます。
もしも、綱政侯が、徳川家の記録に残っているような魯鈍な藩主だったとすれば、決して、できなかったのではと思っています。
もう一つ紹介しておきます。
「御後園慈眼堂への御奉納御歌」として、次のような書きものとともに
普門品一軸は、むそじの冬思立て、二夜のともし火の下にて書き写し、慈眼堂に奉納、心願のあらましをここに記す。国家安泰・子孫繁栄に、ながくひさしく、綱政いやしくも吉備の国の司を補し、近衛の次将に任じ随身の士卒こちたく、おふぎねがはくば、我ともにこの障りなく、邪のわざわひをしりぞけ、人民快楽にまもり給へと、弘誓ひたのみたてまつるのみ也。
底ひなき ちひろの海に たとへつる
ひろきちかいの かげたのむなり
元禄十年王眸古辛月念日 左近衛権少将源
奉納しています。
なかなかの教養人でなかったら書けないと、思います。
なお、綱政も書き残している通り、当時は[後楽園」ではなく「後園」と呼ばれていていたことが分かります。後楽園と言うのは、あくまでも、明治以降の名称なのです。