私の町 吉備津

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縄文のへんてこりんな土器についてー土と火のオブジェ展より

2009-10-25 09:38:33 | Weblog
 後楽園の県立博物館で、今、「土と火のオブジェ」と題する展覧会が開催されています。
 オブジェ。辞書によりますと、幻想的抽象的な芸術作品のことだそうです。

 博物館に入ると、館員さんから、2階の第一室から見るようにと指示がありました。その第1室です。
 まず、怪しげとしか表現ができないような形をしているガラスケースに入った火炎土器が目につきます。その他、ポスターにある通り、幻想的縄文土器の数々が、所狭しとこれ見よがしに、部屋の中や周りに迷路のように並べられてあり、それぞれに自分の縄文特有な光を投げかけていました。半分に壊れかけた黒光りする土偶の怪しげな三角の口から今にも何かを語りかけられるような錯覚に陥りますが、何も語ってはくれません。
 
 ここに展示されている縄文の土器の一つ一つは、その土偶の口と同じように、何にも昔を語ってはくれませんが、しかし、一万数千年という時間を飛び越えてその姿のみずみずしさをわれわれ現代人に見せてくれています、そして「我々縄文人の心を読んでみろ」と、遥かかなたから呼び掛けているようでもあります。
 
 そんな第一室から2・3・4室へと展示物は続いて、岡山県内から出土した土器も数多く展示されています。その最後を飾るのが備前焼でした。この展示の企画にも大変工夫がみられて、その素晴らしさにも感心しました。
  
 これら展示されている作品の一つずつ、どれを取り上げても、あまりの見事さです。特に、縄文の素晴らしさは私の感情を通り過ぎ、そのえもいわれない、何かしら怪しげとでも表現できそうな底深い幻想の世界に引き込まれるようでした。
 過去に、東京国立博物館などでも、断片的に1,2点の縄文の国宝指定の土器は見たことはあるのですが、これだけ一堂に種々な縄文土器を展示しているのは見たことがありません。だから、余計により幻想的に映ったのかもしれませんが。なるほど、これがオブっジェかと深く息を吸い込みます。
 
 それらの展示物に釣られたのではないのですが、館を後にする時、その図録まで、つい買ってしまっておりました。
 
 そして、この幻想の世界に入り込んだままで、小林先生の縄文の世界のお話を聞きました。
 お話の中で、日本文化の持つ、縄文もそうですが、直線でない曲線の素晴らしさを強く訴えられた先生が、我が吉備津神社のお屋根の曲線を見られたならば、何とおっしゃられるだろうかと思いながらハンドルを握りました。
 

 その図録の中より

    

 何と見事な幻想的な作品と言うか、何に使った入れ物でしょうか。まさか「呪い」用の土器でもあるまいしね。よく見ると、何かの霊魂のような感じがこれらの土器から伺う事が出来るように思われますが。

 更に不思議な土器もありました。
 
 これがその土器です。いったい何のために作ったのでしょうかね。何かの入れ物としてっ作ったとするならば、これほど使いにくいものはないと思います。半分ぐらいしか器としての用は足しません。でも、その模様と言い、形と言いオブジェ、そうです、幻想そのものです。
 抽象芸術などと言う高尚な思想は、当時の人には、なかったのは決まっています。とすると、行きつく先は、どうも魔物から、この中に入れてあるものを、多分肉などの腐りやすい食べ物だと思いますが、その食べ物を腐りから守るために、縄文人が工夫した跡ではなかったのでしょうか。
 在り余る食べ物ではありません。自分たちの生死の境を分けるものなのです。獣の肉だったかもしれません。冷蔵技術もありません。これらの物の保存は、唯、ひたすら何かにお祈りする以外には方法がありません。当時の人々が考え付いた食糧保存の一番の方法ではなかったと思います。器に神を取り込もうとしたのではと思います。それがこの形になったのではないでしょうか。

 弥生になると、コメの生産が始まります。貯蔵が簡単にできるようになりますから、物を腐らしてしまう魔物から入れ物の中身をを守る必要がなくなります。その為に、機能的に便利な土器が作られるようになったのです。単純に手早くできるだけ大量の土器の生産方法が考えられたのです。魔よけなどと言う「お呪い」用の複雑怪奇な土器は必要でなくなったのです。
 縄文のように、半分も不要な部分をくっつけたりせずに、丈夫で持ち運びに便利な軽い土器が作られるようになったのです。同じ形のものを大量に作る専門職人みたいな人も現れたようです。それが縄文と弥生の土器の違いです。だから、縄文のそれには魂をゆするような、その中に吸い込まれてしまうのではないかと思われるような不思議な感覚が生まれてくるのです。
 そんな時代が1万数千年の間続くのです。縄文とは大変興味深くて、変に面白い人間臭い時代なのです。

 ドラエモン的な発想が可能なら、私は縄文の世界を夢見ます。