今朝の山陽新聞「先人の風景」によりますと、池田綱政は
「生まれつき愚か者で、分別がない(生得魯にして、分別あたわず)」と幕府から思われたのだそうです。
何か可笑しいですね。新聞によると、更に
・かくのごとく不学文盲短才もまた珍し。
・昼夜酒宴・遊覧を心として、政道ににいろはず。
・女色を好む事、倫を超へたり。
などと、とんでもないことが書かれた書き物が残っているのだそうです。
まあ、当時の書き残された記録であることは間違いないことですが、それはそれでいいのですが、真実は、この後楽園を津田永忠に命じて造らせたことから考んがえても、そんな幕府の記録に残っているような愚か者で出来るわけもありません。相当の知恵者とみなければならないと思います。
当時は江戸の初期です。徳川氏が江戸に幕府を開いてまなしです。決して、安泰であるわけではありませんでした。対外様大名の対策を相当意識して考えていたことには間違いありません。「大名家のお取り潰し」などもあり、諸大名家でも自分の家を守るために必死であったことは確かです。池田家のお家安泰を図るための一つの政策だったのかもしれませんが、その真意は不明なのだそうです。
でも、池田綱政侯というお人は、残されている彼の和歌や書などの記録を見る限りでは、相当の教養人だったように思われます。
今日はちょっと後楽園から離れて、綱政侯のことについてちょっと触れてみました。
「生まれつき愚か者で、分別がない(生得魯にして、分別あたわず)」と幕府から思われたのだそうです。
何か可笑しいですね。新聞によると、更に
・かくのごとく不学文盲短才もまた珍し。
・昼夜酒宴・遊覧を心として、政道ににいろはず。
・女色を好む事、倫を超へたり。
などと、とんでもないことが書かれた書き物が残っているのだそうです。
まあ、当時の書き残された記録であることは間違いないことですが、それはそれでいいのですが、真実は、この後楽園を津田永忠に命じて造らせたことから考んがえても、そんな幕府の記録に残っているような愚か者で出来るわけもありません。相当の知恵者とみなければならないと思います。
当時は江戸の初期です。徳川氏が江戸に幕府を開いてまなしです。決して、安泰であるわけではありませんでした。対外様大名の対策を相当意識して考えていたことには間違いありません。「大名家のお取り潰し」などもあり、諸大名家でも自分の家を守るために必死であったことは確かです。池田家のお家安泰を図るための一つの政策だったのかもしれませんが、その真意は不明なのだそうです。
でも、池田綱政侯というお人は、残されている彼の和歌や書などの記録を見る限りでは、相当の教養人だったように思われます。
今日はちょっと後楽園から離れて、綱政侯のことについてちょっと触れてみました。