ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

「子どものために」もここまでくれば。

2006年10月25日 23時46分18秒 | Weblog
 高校の必修教科の未履修問題は10県65校・生徒数約12000人に達した。
 学校ではよく「子どものために」と言えば、水戸黄門の印籠のごとく、勤務時間も法や条例、肝心の子どもの健康もなんでもふきとばせるといった「文化」がある。
 例えば、県内の多くの学校では子どものために土日にスポーツ少年団や部活動の練習や対外試合をがんばっている。また様々な団体や教育委員会も参加者数が足りなければ、校長を通じて「動員」をかけたり、他の大会への参加ができなくさせるなど、何がなんでも子どもの土日を何かの形で拘束しようとする。それを俗に「青少年の健全育成」と呼んでいる。その結果、子どもたちの月曜日の表情は重たい。きつそうだ。特に土日にも宿題を大量に出されている学級の子どもの実態は悲惨だ。
 指摘すれば、他にも多くの事例がある。今回の高校の必修教科未履修問題はその延長上にあると思う。
 報道では「学習指導要領の遵守よりも大学進学の実績」「テストの基準がカリキュラムの基準」と分析しているが、それは学校側の問題だけに焦点化しすぎた一方的な分析であると思う。
 肝心の子どもたちはどうだったのか。そもそも履修していない教科に評価がついていることに疑問を持った子どもがいたことから発覚したなどと、子どもに非はないかのごとくの報道が多いが、高校によっては「生徒の強い希望があったため」そうしたというところもあった。理由がどうなのか、トータルの結果は分からないが、そうした実態を含めた分析が必要だと思う。
 とりあえず、個人的に思うのは、
 ① 現役生は卒業までに未履修教科の完全履修
 ② 未履修のまま卒業した子どもに対しては卒業単位を剥奪する。
   ※ 今後数年間以内に受講(全国どこの高校でも可)を完了すれば卒業は認定する。また、卒業を前提として入学した大学等については受講を完了しない者は退学させる)
 ③ 未履修教科の成績をもとに算定されている諸団体の奨学金の支給の扱いについては原則的には諸団体の判断とするが、奨学金の支給の継続は履修の完了を前提とさせることを条件にする。
 ④ 未履修にもかかわらず入学・就職した者のいる学校・企業については、その者の数の分を不合格者から補充・採用する。
 ⑤ 先生たちの責任については、未履修のまま卒業させた子ども・現役生に対する業務の完了を必ず行うこと(定年退職などの条件は考慮しない)は最低限のものとする。
 このくらいは言いたい。
 なぜなら、フェアーじゃないからだ。子どもも先生たちも。指導要領の基準を守り数教科の学習をした結果、不合格になった子どもたちは浮かばれない。全国の数千の高校の中でわずかに65校だけがこんなアンフェアーなことをしたわけだから、その報いは子どもも先生たちも受けるべきだ。「子どものために」「わたしたちのために」という文化はもうおしまいにしなくっちゃいけない。
 こんなのがいるから、教育界全体がおかしいとか「教育は死んだ」とかバカなことを言う者が出てくる。全体に迷惑をかけた責任は負ってもらいたい。
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先生は大変? 先生も大変? 明日は我が身

2006年10月25日 00時29分15秒 | Weblog
 教育基本法の「改正」がどうやら行われそうだ。
 マスコミや組合は「愛国心」の行く末だけを気にしているが、私の不安はそこにはあまり、というより、全くない。
 むしろ、教育委員会の任務は条件整備であるとした現行法第10条の意味が大きく変質させられることによって、国や文部科学省、教育行政が教育内容にまで介入を図ってくることの問題の方がずっと大きい。
 戦前の教育を受けた方やコント集団・ザ・ニュースペーパーが指摘しているが、習字で書く題材となる言葉、職場体験学習・集団宿泊学習などの内容に自衛隊などが露骨にリンクさせられてくるのではないかと思う。国語の「お手紙を書こう」ではイラクなどの紛争地帯にいる自衛隊員を励まそうという内容が盛り込まれるかもしれない。
 そうなると、「日の丸・君が代」の強制とか「愛国心」の強制といった次元を乗り越えた形で、国への忠誠心が植え付けられていくことになる。実際、戦前はそうだった。当時の「日の丸・君が代」は「国旗・国歌」ではなかったにもかかわらずである ・・・ もっと悪質な形で、悪質な内容が押しつけられてくるのではないかと思う。
 もう一つの問題。先生たちの勤務の成績を評価するのであれば、設置者である教育委員会は先生たちの精神的なストレスの蓄積をどう計るのか具体を示してほしい。国なり自治体が示した教育の目標の実現に向けて、手段である先生たちが疲弊していたら目標の実現どころではあるまい。病気になったり精神疾患になった先生たちを切って捨てるのは簡単だが、基本的に免許をもとにした仕事であるので、誰でもこの仕事ができるわけではない。 
 制度としては労働安全衛生法が義務制の学校にも適用されたが、衛生委員会を開催している学校は本当に数少ない。開催されたとしても学期1回が関の山であり、議論したとしても条件整備のための予算措置はない。先日、南さつま市の学校の各教室にPTAの資金で扇風機が設置されたという報道があったが、あれこそ公費で賄われるべきものであろうし、扇風機一つからして買えないこの自治体の教育委員会は、実に余計なプレッシャーを学校にかけ続けている。カネも出すが口も出すはよく言われるが、カネは出さずに口を出す、全くもってヤクザなことである(という自覚すらないのであろう。多分、当たり前程度の感覚なのでは?)。
 そんな中で保護者との関係・同僚との関係などで苦しんでいる教職員がどれだけたくさんいるのか。自殺者・年間3万人のペースはすっかり当たり前のことになってしまった。先日自殺したある先生は自宅に残したノートに「無責任な私をお許しください。全て私の無能さが原因です。家族のみんなごめんなさい」と書き残していた。痛ましい・・・
 言いたいことはもっともっとたくさんあるが、この程度でとどめておきたい。要は「明日は我が身」とならないように、人をけ落としてでも自分の学級・仕事だけはなんとかすることである。攻撃される前に攻撃しておく。ブッシュの手法に学んでおかないといけない。嫌なことだが、今やそれしかないと思うようになりつつある。

 
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