写真は楠元駅から川内側にある集落の入り口にある境界標です。
先日、つい立ち寄った時に見つけました。
さて、「おらが村の鉄道」を通すために人々が躍起になるのは、川内~宮之城間だけで収まるはずがありません。その先の大口までの区間においても同様だったであろうと推察されます。
以下、開通した区間ごとに継時的に、その区間距離、標高差、期間、一月当たりの延伸距離を示しました。
1924(大正13)年10月 川内~樋脇
13.4㎞・最大標高差20m
11か月で開通(1.2㎞/月)
1926(大正15)年 5月 樋脇~宮之城
15.9㎞・最大標高差60m
19か月で開通(0.8㎞/月)
1934(昭和 9)年 7月 宮之城~薩摩鶴田
7.6㎞・最大標高差30m
98か月で開通(0.08㎞/月)
1935(昭和10)年 6月 薩摩鶴田~薩摩永野
10.6㎞・最大標高差110m
11か月で開通(1.0㎞/月)
1937(昭和12)年12月 薩摩永野~薩摩大口
18.6㎞・最大標高差80m
30か月で開通(0.6㎞/月)
宮之城線は、川内から大口に向けて、一定の区間ごとに順次、開通していったのですが、その中で宮之城~薩摩鶴田間の開通に異様に時間を費やしている点は、私にとって謎でした。
一ヶ月当たりの延伸距離を見た時、宮之城~薩摩鶴田の区間が0.08㎞と異様に短いことが目を引きます。
もっと正確に言えば、一日当たり2.6m弱です。
しかも、ほとんど田園地帯の中を走るルートであり、工事の難所と思われる箇所はありません。
川宮鉄道の名の通り、そもそもは宮之城終点の事業でした。国有化により、終点を大口にされましたが、宮之城は藩政時代からも北薩地域の重要な拠点であり、ここをルートからはずすなんてことは考えられません。現代でも、3本の国道が市街地で交差する交通の要衝です。
鉄道が宮之城まで到達して事業が一段落し、関係者の気が抜けた・・・わけではありますまい。
むしろ、宮之城から大口までのルートをどうとるのか、予定沿線の関係自治体は期待に胸をふくらませて、猛烈な誘致合戦を繰り広げ、そのために、ルートの最終決定が遅れ、工事が一時中断されてしまったのではないかと推察しました。
その調整は政治的な決着によるしかありません。それに時間がかかったのではないかと想像しました。