今日の写真は、この「宮之城線」企画の発端となった船木駅の薩摩山崎駅側の工事の発見の記事(09年9月27日)で掲載した写真の場所の今日の様子です。
工事も終わり、センターライン付きの道路になってしまいました。
さて、鉄道事業が回復傾向を示した1933(昭和8)年は、宮之城線の歴史において極めて大きな1年になりました。
というのも、宮之城~大口間のルート案が示されたからです。
A案
宮之城~佐志~湯田~鶴田~求名~西太良~大口
B案
宮之城~佐志~大村~永野~西太良~大口
A案は実現したルートに近いものですが、永野には寄りません。一方、B案は鶴田には寄らず、いったん佐志から南下して旧祁答院町になる大村・黒木村・永野村を経由するものです。
B案には、祁答院地域の大村・黒木村の人々の強い危機感が感じられます。
というのは、祁答院地域と宮之城地域は間に急峻な山(高倉山・弥三郎ヶ岡・田原丘)が壁となり、両地域の交流を妨げていたからです。これがどれほどのものかは、以前も述べましたが、豊臣秀吉の島津征伐の際に宮之城領主が秀吉をだまして、この山中を通行・疲弊させたことから厳しく罰せられたことからも分かります。
直線距離では近いのに・・・という思いは、何度もトンネルを通して・・・という要望が出されて続けてきたことからも分かります。
1926(大正15)年に宮之城まで開通した際、祁答院地域の人々にとって物流の窓口は薩摩山崎駅でした。
山崎・大村間には乗合馬車が開通し、大村の産業組合が山崎駅に米穀倉庫を建設して馬車で運送していたことが「祁答院町史」に記されています。
しかるに、馬車に比べ、鉄道はその何十倍もの輸送力を持っていますから、高倉山・弥三郎ヶ岡・田原丘を北側から回り込んで大村まで線路を引きたいという思いは理解できます。
B案が実現しなければ、祁答院地域の大村・黒木村は、薩摩山崎駅と佐志駅という遠い駅が物流の窓口にしかならず、北薩の発展から自動的に取り残されるということを意味していました。
工事も終わり、センターライン付きの道路になってしまいました。
さて、鉄道事業が回復傾向を示した1933(昭和8)年は、宮之城線の歴史において極めて大きな1年になりました。
というのも、宮之城~大口間のルート案が示されたからです。
A案
宮之城~佐志~湯田~鶴田~求名~西太良~大口
B案
宮之城~佐志~大村~永野~西太良~大口
A案は実現したルートに近いものですが、永野には寄りません。一方、B案は鶴田には寄らず、いったん佐志から南下して旧祁答院町になる大村・黒木村・永野村を経由するものです。
B案には、祁答院地域の大村・黒木村の人々の強い危機感が感じられます。
というのは、祁答院地域と宮之城地域は間に急峻な山(高倉山・弥三郎ヶ岡・田原丘)が壁となり、両地域の交流を妨げていたからです。これがどれほどのものかは、以前も述べましたが、豊臣秀吉の島津征伐の際に宮之城領主が秀吉をだまして、この山中を通行・疲弊させたことから厳しく罰せられたことからも分かります。
直線距離では近いのに・・・という思いは、何度もトンネルを通して・・・という要望が出されて続けてきたことからも分かります。
1926(大正15)年に宮之城まで開通した際、祁答院地域の人々にとって物流の窓口は薩摩山崎駅でした。
山崎・大村間には乗合馬車が開通し、大村の産業組合が山崎駅に米穀倉庫を建設して馬車で運送していたことが「祁答院町史」に記されています。
しかるに、馬車に比べ、鉄道はその何十倍もの輸送力を持っていますから、高倉山・弥三郎ヶ岡・田原丘を北側から回り込んで大村まで線路を引きたいという思いは理解できます。
B案が実現しなければ、祁答院地域の大村・黒木村は、薩摩山崎駅と佐志駅という遠い駅が物流の窓口にしかならず、北薩の発展から自動的に取り残されるということを意味していました。