ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その18

2010年04月17日 22時14分24秒 | Weblog
  内田鉄道大臣が1933(昭和8)年に発表した宮之城~大口間の2つのルート案では、永野から西太良を目指す案と、薩摩求名から西太良を目指す案が示されていました。

 どちらにしても、西太良を目指すとなれば、その前に針持を通過しなければなりません。
 直線距離に直せば、針持まで薩摩求名からは7㎞、薩摩永野からは6㎞です。通常ならば、これだけ距離があれば途中に一つくらい駅があってもよさそうなものですが、どちらも駅を設置して旅客・貨物の取り扱いをするほどの集落はありません。それほどの山岳地帯です。

 まず、薩摩求名から針持へのアプローチを検討してみたいと思います。
 薩摩求名駅は標高80m台にあります。針持駅は標高200m台です。この120mの高低差をどう克服するのかが最大の課題です。

 一つのルートは現在の国道267号線をたどるものです。最高標高が求名小学校狩宿分校の近くの240m台です。単純計算で平均約31‰の勾配を駆け上がらなければなりません。これは線形にカーブを加えるなどして若干の調整で乗り切れる勾配でしょう。
 しかし、求名の中心部から狩宿までは、手の届くような狭い谷間をはじめは少しずつ登っていきますが、搦という集落の辺りから急激に上りにかかります。そこからの勾配は65‰と計算しました。
 
 もちろん、これを克服するために当時の建設技術で不可能ということではありません。
 求名川の南岸の急斜面を徐々に高度を上げていくために長さ200m程度のトンネルが2~3は必要でしょう。高さが30~50mで長さ200m級の長大な鉄橋が一つ。そして500m級のトンネルを1本。狩宿分校近くの地下を通す最後のトンネルによって若干勾配が緩和されるとしても平均勾配30‰の維持は必要です。

・・・ この案では、トンネル建設はもとより200m級の長大な鉄橋建設の方のコストがかなりあがりそうです。
 
 
 もう一つの案は、搦の辺りから国道とは分かれ、山の向こうの高塚・堂山集落に向かって直進するルートです。これだと200m級のトンネル5本と700m級のトンネル1本で事足りると思われます。
 国道沿いの案より現実的ですが、トンネル建設に当たっては急斜面途中に工事現場があるだけにコストがかかる点は見逃せません。

他に、求名小学校に西側から回り込むルートなど検討してみましたが、途中どうしても60‰の急勾配区間を設定せざるをえず、ルートの候補としては断念しました。


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国鉄・宮之城線の今  438

2010年04月17日 21時01分50秒 | Weblog
 もう1両は、「軌道モーターカー」と呼ばれる車両です。
 工事用の機器・材料の運搬に使われたそうです。
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国鉄・宮之城線の今  437

2010年04月17日 20時53分21秒 | Weblog
 2両のうち、プラットホーム側に残されていたのは「軌道自動自転車」と呼ばれる車両で、線路をガソリンエンジンで動き、線路の巡回や連絡に使っていたそうです。

 この車両の後ろには、バラストスイーパと呼ばれる車両が連結されていました。
 これは、道床バラストのつき固めをした後、ゴムホースの回転を利用して、枕木・バラストの清掃をしていたそうです。
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国鉄・宮之城線の今  436

2010年04月17日 20時50分13秒 | Weblog
 作業用の列車を正面から写しました。

 2両とも正面の風防のガラスは割れたのか、それとも安全上の配慮なのか分かりませんが、なくなっていました。
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国鉄・宮之城線の今  435

2010年04月17日 20時36分10秒 | Weblog
 プラットホームや駅舎の東側から西の方を振り返って見ました。

 プラットホームの右側は花壇になっていました。

 左側には屋根がつき、作業用の列車が残されていました。
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国鉄・宮之城線の今  434

2010年04月17日 20時26分54秒 | Weblog
 腕木式信号機のペンキははがれて往年の色はあせていますが、その姿は未だ健在です。

 登ってみたい心境にさせられます。
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国鉄・宮之城線の今 【薩摩永野のスイッチバックの謎】  その17

2010年04月17日 00時27分28秒 | Weblog
連載の方、しばしお休みしていましたが、いつの間にか終わってしまったのではなく、持ち帰りの仕事の処理もあったために後回しになってしまいました。

さて、薩摩永野駅がスイッチバックになったのは「政治的な配慮」によるものだと述べました。川内~宮之城間はもちろん、宮之城~大口間もその「沿線」になろうとした自治体が自分たちの村の中心部へ線路を引き込もうとしたがために、ルートがぐにゃぐにゃとなってしまったと。

 そして、最大の「引き込み」は永野村でした。金鉱山による産業発展は北薩地域随一でした。人口密度で言えば、当時の鹿児島県ではトップクラスだったはずです。
 谷間の村・永野に線路と駅を引き込んだがために、スイッチバックになりました。
 それは「ならざるをえなかった」という消極的な意味ではなく、「そうすべきだった」という積極的な意味においてスイッチバックになりました。


 ただ、もう一つここで述べておかなければならないことがあります。
 それは、勾配克服という課題があったことも同じぐらいに重要です。

 なぜなら、川内~宮之城~求名のあたりまでは標高100m以下の平坦な地域です。いわゆる川内平野の広がりのエリアに属します。
 ところが、大口を中心とした大口盆地は標高180mほどに広がっています。

 2つの地域の間には国見岳など300~600m級の山々をはさんで、約80mほどの標高差があるのです。
 この点をおさえておかないと、スイッチバックの意味を見失いかねません。

 
 宮之城~大口を結ぶ現在の大動脈は国道267号線です。
 さつま町求名から伊佐市針持の間の最も谷間となる区間を選んで谷底の求名から最も勾配の少ないルートを選択して針持に至っています。
 それでも、それは70‰という鉄道の限界を越えた区間であり、自動車にとっては平気で登っても鉄道にとっては絶望的な勾配です。

 この区間を当時の資金力・建設技術でどのようにつなぐのか。
 
 私は宮之城以北のルート選定が誘致合戦という政治力のぶつかりあいのために遅れたと申しましたが、それだけではなく、宮之城~大口を当時の資金力と建設技術の問題も深く絡んでいたと考えます。
 後日、この点について、持論を展開したいと思います。
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