薩摩湯田駅の跡以降は大きな変化はありません。
このまま薩摩大口駅跡まで続いてほしいと思っていました。
が、白木川を渡る橋梁跡地で愕然となりました。
1年前、写真中央に見えるように、立派な橋台はそのまま残っていました。
むしろ橋台の右側に護岸工事が成されていたことから、この橋台はもう半永久的に残るだろうと期待していたのですが、その期待はあっさり裏切られました。
kuo-taさんと一緒に対岸にやってきた私の眼前に広がったのは、跡形もなく破壊された姿でした。
「国鉄・宮之城線の今」を連載中でも触れましたが、2006年7月の大水害の対策事業として堤防の補強工事がここでも進んでいました。
橋台跡のすぐ下流はこんな感じです。
伊佐市側は本当に原型どころか完璧なまでにその姿が消されていきます。
最後に、この一枚。
川内川を渡ろうという場所から羽月側を写したものです。
ここでは、線路跡は堤防の真下より川沿いの場所になっていました。
ほんの数十㎝のことですが、宮之城線の線路跡の地図は「中途半端に」書き換えられてしまったのです。
こういう姿が本当に残念です。
なんとかならないものでしょうか。
線路跡の再開発は時代の要請として必要とされることでしょう。しかし、かつての生活の息吹は尊重してほしいと願うのです。
これは決して無理な要望だとは思いません。
こういうところに事業者のセンスが問われるんだと思います。
このまま薩摩大口駅跡まで続いてほしいと思っていました。
が、白木川を渡る橋梁跡地で愕然となりました。
1年前、写真中央に見えるように、立派な橋台はそのまま残っていました。
むしろ橋台の右側に護岸工事が成されていたことから、この橋台はもう半永久的に残るだろうと期待していたのですが、その期待はあっさり裏切られました。
kuo-taさんと一緒に対岸にやってきた私の眼前に広がったのは、跡形もなく破壊された姿でした。
「国鉄・宮之城線の今」を連載中でも触れましたが、2006年7月の大水害の対策事業として堤防の補強工事がここでも進んでいました。
橋台跡のすぐ下流はこんな感じです。
伊佐市側は本当に原型どころか完璧なまでにその姿が消されていきます。
最後に、この一枚。
川内川を渡ろうという場所から羽月側を写したものです。
ここでは、線路跡は堤防の真下より川沿いの場所になっていました。
ほんの数十㎝のことですが、宮之城線の線路跡の地図は「中途半端に」書き換えられてしまったのです。
こういう姿が本当に残念です。
なんとかならないものでしょうか。
線路跡の再開発は時代の要請として必要とされることでしょう。しかし、かつての生活の息吹は尊重してほしいと願うのです。
これは決して無理な要望だとは思いません。
こういうところに事業者のセンスが問われるんだと思います。