ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

時に元禄十五年十二月十四日・・・・ご存じ忠臣蔵、赤穂浪士の討ち入り

2021-12-14 04:20:16 | 草花
今から319年も前のことになりますが、あの事件は美談に仕立て上げられて、歌舞伎、芝居や映画、講談などで語り継がれて、事件の顛末を知っている人たちは数多いことだと思います。
だいぶ前の旅行業界では「信濃の善光寺詣り」の旅行団体募集企画は必ず当たり、この企画を密かに「忠臣蔵コース」と呼んでいたそうです。今でいえばテッパン(当たるのが固い)ということでしょうか。

この300有余年の間に、話に尾ひれはひれが付いて事実とは違ったことが語られてきた可能性もあります。
小生の住む三河には吉良上野介の領地があり、上野介は「吉良の殿様」と慕われていたそうです。(これも尾ひれはひれかもですが)
実際に領民のためになる治水事業などを手掛けた実績も遺っています。
その殿様が、播州の若い大名からこともあろうに江戸城内の公の場で斬りつけられて、手傷を追い、その翌年には雪中で首を刎(は)ねられるというような仕打ちに遭った、その原因は一体何だったのでしょうか。
吉良様は少なくとも賄賂の多寡で伊達と浅野を依怙贔屓するような、物欲に目のくらんだ人ではなかったようです。
すると人間関係の軋轢だったのか、ならばそれはどういうことであったのかその辺がさっぱりわからないままに、「美談」はどんどん着色されて「忠臣蔵」に育て上げられていきます。
尤も討ち入りに加わった面々にはそれなりの理由付けはあって、これを「本懐」として命を懸けた生き方を否定することはしませんが、加わらなかった人の数の方が圧倒的に多いはずですね。
その人達は藩が取りつぶしになった後にどういう生活を送っていたのか、さぞかし辛酸をなめたことでしょうね。
そして忠臣蔵の”美談”が喧伝されるや、今度は「敵前逃亡」した不忠義者のような風評で、それまで以上に肩身の狭い生活を送ったことでありましょう。

それにしても事件参加者全員が「切腹」という仕打ちも思い切ったものでしたね。

忠臣蔵とは関係ないところで記事を進めていきます。
チュンしんぐら? ↓

餌台を移設しましたが、考えがあり、再度もう少しだけ移動しました。
雀たちも始めは警戒していましたが、すぐに慣れたようです。



三河安城駅(新幹線の)改札口 ↓

ここで孫たち一家と待ち合わせして、この駅に停車するドクターイエローこだま号を撮ることにしています。



その前に客車のこだま車両 ↓




現在使われているこだま車両はN700Aのほかに、後から投入されたN700Sがあるそうですが、小生にはその区別点がよく判りません。
一番分りやすい点はドア入り口のこのマークだそうです。
青文字のN700A ↓


そして金色のN700S ↓

”S”の意味はsupreme(最高の、究極の)だったのでしたか。



ギャラリー ↓

この日は土曜日とあって、ギャラリーがたくさんいました。



そして千両役者登場 ↓

名古屋方面からゆっくりと上り列車としてホーム入りしてきます。
小生たちは人混みで動けないことを惧れ、下りのホームでこれを見ています。



後部車両 ↓

列車が止まったところで最後部を写します。

そして、先頭部まで下り線ホームを歩いていきます。停車時間が7分ありましたので、比較的余裕がありました。

先頭車両 ↓

たくさんのギャラリーとともに写しました。



駅を離れる ↓

やがて出発して闇の中に消えていきます。


この後三河安城駅のホームに居続けて、ISS(国際宇宙ステーション)がやってきて、空駆けるのを見るために待ちます。


その間に見た上弦の半月 ↓

真っ二つに見える月は上弦の半月で、この時の月齢は7.0でした。



月と惑星 ↓

この晩も月・木星・土星・金星がほぼ一列に並んでいます。(土星は木星と金星の間ですが、この画では殆ど見えていない。)



夜のとばり ↓

夕暮時が過ぎて、今は夜のとばりが降りる頃になっています。



ISSの航跡 ↓

ISSはビルの間を移動していきました。三脚を持たなかったので、手で保持し、そのためにカメラが動いてしまいました。
コメント (10)
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