生きてやろうじゃないの
「孤独を楽しめば、
自分自身を見つめ直すことができ、
「こうありたい」「これをしたい」と、新しい自分を芽生えさせることができると訴える。
精神的な自立であり、鎌田さんはそれを「ソロ立ち」と名づけている
自分自身を見つめ直すことができ、
「こうありたい」「これをしたい」と、新しい自分を芽生えさせることができると訴える。
精神的な自立であり、鎌田さんはそれを「ソロ立ち」と名づけている
『老後はひとり暮らしが幸せ』(辻川覚志著、水曜社)
著者は、大阪で耳鼻咽喉科のクリニックを開業している。
月刊「潮」の「希望・日本」という連載で、辻川先生と対談をした。
医師会の調査が半分。
あとの半分は、医師会の広報委員として電話で聞き取り調査を行ったもの。
老後、家族と同居するほうが幸せなのか、一人暮らしが幸せなのか調査したところ、
「一人暮らしは寂しい」という人が30%、「家族がいても寂しい」という人が15%。
家族といても、一人でも、不安はそう変わりはないことがわかった。
満足度について聞くと、驚きの結果になった。
一人暮らしのほうが満足度が高い、という結果になったのだ。
特に、心の整理をして、覚悟をしている人は、満足度が高い。
「初めから一人だから寂しくなんかない」という答えもあった
ぼくは、40数年、訪問診療をしてきて実感するのは、一人暮らしのほうが強いということだ。
一人暮らしで病気があると、不安で寂しくて辛いので、満足度も低いのではないか思いがちだが、
一人暮らしの人のほうが、自己決定をして生きていて、今に満足している。
「最期、ぼくの往診が間に合わなくてもかまわない。朝、来てくれて、死亡を確認してくれればいい」なんて、
平然と言う人たちが多かった。
納得だなぁ・・
毎日 電話や チャリンコ でも 5分かからないところに 娘が住んでいる
娘の おじいちゃん わたしの 父だけどね
実に 実に 優しい 娘で
今は 特養で お世話になっている 娘には おじいちゃんだけど
コロナ禍で 面会が できなくても 車で 20分位のところまで
週 1回は 尋ねて 駐車場のところから 特養の建物の中にいる 千クンに
「元気⁈ また 来るからねっ⁉」
と、 声を かけている
そんな娘は ダンナさまや 息子を そうそう・・ 家族を とても とても
大切にしている
わたしは・・・・・・・・・・・・・・・・・
大切とは 想っている。
なにか あったら 迷いは 全くなく
全力で チカラになると 想う。
けど
老後 ひとりで お気楽に 過ごし
まさに 朝 孤独死を したとしても
それは それで 仕方ないと 想って欲しい・・と。
最近
今 願いは 生きているあいだは
自分の 脚で 歩き 動き
そう ありたいし そのために ちょっと 努力している・・かな・・
忘れない限り
面倒であっても なんとか 股関節 回し 朝 20回 夜 20回
できれば 昼も 20回
なにしろ 股関節痛を 最近 経験して
その 痛みとは・・
ホント・・
どうしようもないほどの 激痛・・
さすがに すぐ 近くの 整形へ
今年か・・? 昨年か
近くの もう一つの 立派な整形 機器が あり
レントゲン設備も 最新で・・。
そこの医者に かかっていたけど 駅前だから 病院の家賃が めっちゃ 高いと
噂で 聞いていて
先生も いいのだけど すぐ 「注射」だし
毎回 行っても 毎回 注射・・
両ひざに 注射 2本、 腰に1本 血管に1本と
4本も 注射・・
週に 4回 行けば そのたびに 2本 膝は 週1回 2本
もぉ・・ イヤだったわぁ・・・・
今 診ていただいている 先生には 20年前に アキレス断絶を 治していただき
両手 親指の バネ指を 治していただき
だけど
電気リハビリを やって ・・・・・
まだ 40代か 50代の初めのころだったか・・
今の わたしくらいの おばぁちゃんや おじいちゃんが お菓子を 食べながらの
リハビリ姿に ・・・・・・
それで もう そこには 行かなかった・・。
で・・ この3ヶ月位まえから
また 注射が イヤだったから その古い整形に 通うようになった
先生は わたしよりも お年が上のようで
でも 間違いなく 名医
今どき パソコンを 見ずに 手書きで カルテ
しっかり 患者のわたしを みながら
お話をしていただける。
股関節は 先生からの お薬を 服用しながら
多分 1番は 股関節体操が効果ありだとは 想うけど・・ね
あぁ・・
なんだか 訳わからなくなっちゃった・・わぁ・・
今 わたしは 心 ウキウキが ないからかなぁ・・
だから 太極拳で 名前も知らないけど
全く ウキウキのキモチも ないけど
わたしと 同年齢くらいの おじいちゃまが
気がつくと 後ろに いらっしゃり ニコニコされている
だからと いって 話したことは
1度も ない
ワクワク感は 全く かけらも ないけど
でもね
なんとか それでも キモチをさせたいのが
わたしの 本音。
かかわりあいに なりたいなんて 微塵も 想わないし
絶対に ないと おもうけど
そんなことを キッカケでもしないと
わたしは このままでは わたしが 「女」という存在だということを
忘れてしまうと 想われ
コロナ禍で 化粧も もう 1年以上していないけど
太極拳の日だけは
ファンデーションを 塗り アイラインなんぞ 引いて
まぁ・・ マスクするから
口紅は 引かないけどね・
あはは ただ ファンデーションを 塗ることを
想いだす程度だけど
それでも わたしには 貴重なキッカケの土曜日だね
ところが・・
気がついたら その おじいちゃんもしかすると わたしよりも 年下かな・・??
もう 参加していなかったわぁ
その方が 参加されていないと 最近 気がついたわぁ・・
要は
その方というか 何か キッカケを せめて 週1回でも
わたしは 女性だよって 自覚したかったのかなl
35年 以上の付き合いというか
25年間は 夕方位に わたしの家に来て
お酒を飲み 夕飯を食べて 寝て
わたしは 彼の朝食を お弁当にして キッチンに置いておく。
彼は とっても 早起きなので
朝 その弁当を持って 自分のマンションへ 帰る・・
そんな 生活が 20年くらい
それから 彼は 私の家の 目の前に
マンションを 購入した。
彼は わたしの好きにしていいと 言い
すべて わたし好みの 部屋にした
ただ それでも わたしは 夕飯を食べると
そのころ 一緒に 暮らしていた ももを 連れて 目の前の
わたしの 家に 帰って行った・・。
雨が降ろうが 嵐が来ようが・・
彼が マンションに 居るときは
必ず わたしの家へと 帰っていった
それは ももが 亡くなるまで そういう 生活をしていた。
けど ももは 2年近く 痴呆になり 昼、夜もない 生活をしていて
1日中 家の中を 徘徊
6帖 一間を ももの部屋として 家具も すべて 置かず
危ないものが ないようにとした・・。
サークルも 監督兼 キャプテンをしていたけど
休んでいた。
1度 ももを 置いて 試合にでたときに
家に帰ってきたら 転んで 起きようとして 肘を ひどく ケガをしてしまった。
それからは わたしは ほとんど 1時間とか 置いておくことはなかったなぁ・・。
2年間 本当に 介護をしたと 想う・・。
先生に 安楽死のことも 話をしたっけ・・。
もも、も つらいなんて 勝手に いいように 想い
ホントは わたしが イヤだった・・。
逃げたかった・・。
でも 先生は
『ワンちゃんは いいですよね。 おじいさんになっても
おばあさんになっても あまり 様子が 変わらないから』
そう 言われて
わたしは とても わたしという 『人間』が 恥ずかしいと・・。
そう 想った・・。
大変は 大変だった・・けど
それでも 最期の最期まで 看取っることが できた。
最期 亡くなる寸前
ももは ひとことも それまで 声を だすことは なかったのに
亡くなる 一瞬 声を 何カ月?ぶりに 声をしぼりだすような・・
声を 出した・・
たぶん
ありがとう・・ さようなら
って
言ったのか・・と。
母も 亡くなる 寸前に
昏睡状態で 話すことも 声をだすことも
1週間くらいなかったのに
亡くなる 寸前
言葉にならない 声を出した・・
ありがとう・・ さようなら・・って
言ったのかな・・
それから
わたしの 両親が わたしの住んでいるところへと
越してきた。
狭いことともあり
わたしは 目の前の 彼のマンションへ
25年間は 夕方位に わたしの家に来て
お酒を飲み 夕飯を食べて 寝て
わたしは 彼の朝食を お弁当にして キッチンに置いておく。
彼は とっても 早起きなので
朝 その弁当を持って 自分のマンションへ 帰る・・
そんな 生活が 20年くらい
それから 彼は 私の家の 目の前に
マンションを 購入した。
彼は わたしの好きにしていいと 言い
すべて わたし好みの 部屋にした
ただ それでも わたしは 夕飯を食べると
そのころ 一緒に 暮らしていた ももを 連れて 目の前の
わたしの 家に 帰って行った・・。
雨が降ろうが 嵐が来ようが・・
彼が マンションに 居るときは
必ず わたしの家へと 帰っていった
それは ももが 亡くなるまで そういう 生活をしていた。
けど ももは 2年近く 痴呆になり 昼、夜もない 生活をしていて
1日中 家の中を 徘徊
6帖 一間を ももの部屋として 家具も すべて 置かず
危ないものが ないようにとした・・。
サークルも 監督兼 キャプテンをしていたけど
休んでいた。
1度 ももを 置いて 試合にでたときに
家に帰ってきたら 転んで 起きようとして 肘を ひどく ケガをしてしまった。
それからは わたしは ほとんど 1時間とか 置いておくことはなかったなぁ・・。
2年間 本当に 介護をしたと 想う・・。
先生に 安楽死のことも 話をしたっけ・・。
もも、も つらいなんて 勝手に いいように 想い
ホントは わたしが イヤだった・・。
逃げたかった・・。
でも 先生は
『ワンちゃんは いいですよね。 おじいさんになっても
おばあさんになっても あまり 様子が 変わらないから』
そう 言われて
わたしは とても わたしという 『人間』が 恥ずかしいと・・。
そう 想った・・。
大変は 大変だった・・けど
それでも 最期の最期まで 看取っることが できた。
最期 亡くなる寸前
ももは ひとことも それまで 声を だすことは なかったのに
亡くなる 一瞬 声を 何カ月?ぶりに 声をしぼりだすような・・
声を 出した・・
たぶん
ありがとう・・ さようなら
って
言ったのか・・と。
母も 亡くなる 寸前に
昏睡状態で 話すことも 声をだすことも
1週間くらいなかったのに
亡くなる 寸前
言葉にならない 声を出した・・
ありがとう・・ さようなら・・って
言ったのかな・・
それから
わたしの 両親が わたしの住んでいるところへと
越してきた。
狭いことともあり
わたしは 目の前の 彼のマンションへ
わたしの尊敬している 先生の
鎌田實先生。
とても 忙しいと想うのに 本を読み
映画も観ていらっしゃる
わたしよりも すこし 年上の先生
だから わたしも
わたしに 負けないように・・・って。
うんうん。
鎌田實先生。
とても 忙しいと想うのに 本を読み
映画も観ていらっしゃる
わたしよりも すこし 年上の先生
だから わたしも
わたしに 負けないように・・・って。
うんうん。