久々の楽書き
ぐりぐり。
なんとなく、今日は、コレを描きたい気分だったのだわよ。
京都にね、いらっしゃる仏師で
松本明慶さんのドキュメントをちょっと前に見たの。
夜中に見たので再放送だわね。
運慶・快慶の流れを組む、慶派の仏師でいらっしゃるのだ。
寄木で大仏を創られる。その行程が面白かった。なるほろなるほろ~~~
と思いながら見た。
先ずね、小さい升目の入った角材で小さい寄木の仏像を創り、ボンドを湯銭で溶かして木をバラし、升目を拡大して大きな寄木にして大仏を創る・・・のだ。
寄木なので、それぞれの木の縮みなんかも違うので、出来上がってからも仏像は変化をしていく。明慶さんは納めた仏像を確認しながら、新たな仏像創りに取り組まれているとか・・・。
その明慶さんの記事が先日パラパラ~っと見た雑誌に載っていた。何だか、ご縁があるのだわ。などと思って、記事を読ませていただいたのだ。
その記事には、大仏だけでなく小さなかわいらしいお顔の仏様もいらして、なんだかこちらの顔も自然とほっこり。
弟さんを亡くされてから、仏像を創られるようになった明慶さん。
その仏様のお顔には、厳しく厳粛なお顔と、柔和な悟りのお顔と、はらりと零れ落ちるような慈しみのお顔とが感じられる。気がする。
いやいや、仏様とは本来そういったお顔をお持ちなのだろうなぁ。などと。
先日、六波羅で出会った夢見地蔵様も、凛とした厳しいお顔の中に慈悲があった。自然と手を合わさずにはいられなかったお顔。
教会でも、自然と見上げて胸に手を当てる瞬間がるもんね。
自然の風景の中にも、言葉の出ないそんな瞬間がある。
きっとそんな瞬間には、キラキラの散華が舞っているに違いない。
その花びらを感じたひとは、自然に黙し、その光を感じるんだろうなぁ、などと。
たかが楽書きから、ウダウダぐりぐり考えを捻り出してみた(笑)