最終回 アートな京大を目指して 京大おもろトーク 「芸術と毒の微妙な関係」
パネリスト:山極壽一総長 内丸幸喜さん 小松和彦先生 松尾惠さん 吉岡洋教授
〆の挨拶:土佐尚子教授
モデレーター:吉川左紀子教授
幕間演奏:Duo Nagai Weitzel
第一回目の「垣根を越えてみまひょか」から2年で7回目が最終回でした。
オイラは第一回目と最終回のみの聴講。
以下覚書。(興味のある方のみ読んでね~^^)
【第一部】 山極総長と文化庁文化部長の内丸さんの対談。
デザインは、何回も繰り返すことができるもの。
アートは、1回限りのもの。山極総長はメッセージととらえている。
ジャガーの毛皮やクロコや蛇革の財布など、動物学的には「怖い」「うわ!」っとなる生き物でも、見方(立場)が変われば「ええもん」になる。価値が変化する。
文化芸術振興基本法が定められている。
文化芸術が創造され享受したものを社会に還元するための法案(?オイラの解釈、ちょっと違う?)。国としての文化芸術振興の基本理念を定め責務を明らかにしている。
絵画や音楽には、もともと題名がついていないことが多かった。
アートとして世に売り出すために名前を付け整理した。
アートとは、自然に境界線を引くことである。
個々が接する自然はそれぞれの感覚であり、互いに共有していない。その自然に境界線を引くことで共有するメッセージを持たせるのがアートではないか。
文化庁の方向として。古いものの保存だけでなく、今、生まれている文化芸術の成果をより多くの人に知らせ、未来の人々へ保存していくことが必要では。文化芸術の活用。
サイエンスは過去からの積み重ね。一方向。
アートは、今・未来だけでなく過去に向かっても開いているもの。
サイエンスとアートの共通点は、どちらも目に見えないものを見せる点。
理系同士の対談のためか、オイラの頭ではなかなかついていけない内容でお話が進んでました^^;
聞いてて思った事。
昔は国だったり王族だったり貴族だったり宗教だったり・・・ともかくパトロンがいて、その莫大なお金と膨大な労力と可能な限りの技術と依頼された人の天性だったり努力だったりで磨かれた感性が融合して、お城だったり天井画だったり彫刻だったり絵画だったり・・・が造られた。そして今現在まで残って初めて評価されていると思うのです。まぁ、ないものは評価できませんからね。
信仰であったり権力欲であったり純粋に好きだと思う思いであったり・・・色々な理由はあれども、長い年月「誰かの手で守られてきた」という事実が、芸術となりうる一つの側面なのかなと。
第二部は、いろんな先生の講演。
■小松和彦先生■国際日本文化センター所長
芸術と毒と聞いて、ものぐさ太郎→鬼→シャーマン・・と連想されたそう。
シャーマンとは、人類最古の宗教と言われる人。
呪術的であったり、歌やダンス、時には薬草などを用いてエクスタシーへと達し、人にとって必要な物語を語ったり歌ったり踊ったりする。また人にとって禍となるものの排除へと導く。
ある種の精神状態(幻覚)になるため、毒や薬を用いた。
日常と違う意識値におくことが芸術=宗教やシャーマン
共同体における悪い部分を排除するのが祭=追儺
鬼=もものけや悪霊であり、個人の身体を犯すもの、共同体を犯すもの。
しかし、鬼は穢を一手に引受け、追儺とともに持ち去る福でもある。
毒(鬼)と薬(福)は一つでもある。
薬局のことを「ファムシィ」と言う。語源は古代ギリシャ語の「ファルマコン」「ファルマコス」で、薬であり毒のことである。
古代ギリシャにおいて「生贄」は動物ではなく人であった。
「生贄」は共同体における毒を持ち出す器である。
体の中に入ってくるものに、メタファーとしてファルマコンと言った。
カタルマ(シャーマンが言う体に入ってくる悪いもの)=ファルマコン
‖
カタルシス
‖
浄化を図るために使われる物語。
追儺によって共同体から排出される日本の鬼は、ギリシャにおけるファルマコン(生贄)やカタルマだったのではないか。
人が個で抱えているどうしようもないもの(毒)を解消してくれるものを形として表したものが芸術なのかもしれない。
薬⇔芸術⇔毒
と言った関係。
ものぐさ太郎は始め、働かず村人に養ってもらうだけの嫌われた面倒な存在だった。=毒
都に召し出す対象として、日頃役に立たない養うだけだった太郎を選んだ。=スケープゴートとしてのファルマコン。つまり村人を都へと召し出さないための薬。
この図式が追儺と重なり、先生の中で鬼へと連想させたのだそうです。
「毒にも薬にもならない」の言葉通り、薬は毒であり薬でもある、二つの効果を持っているから作用を起こすのです。
扉座の「新羅生門」での綱のセリフ。「悪がないと正義もない。鬼退治とは、鬼を殺すことではない。闇から引きずり出すことだ。」(要約してますが)
どちらか一方だけでは存在しない、鬼と正義の関係は毒と薬の関係に似ていると思った。
■松尾恵さん■ヴォイスギャラリー代表
同時代を生きてい人の芸術を現代美術と捉えていらっしゃる。
芸術=自己主張。一歩間違えるとわがままになりかねない、その見極めが大切。
自己主張である芸術を後世に残していかなければいけいない。
ギャラリーはケーキの箱のようなもの。空間。
アトリエから出て、その空間全体を使って芸術家は作品を作る。
主張したい作家の欲を表現するためにギャラリーという箱がある。
芸術家の作品を世に晒すための場所でもある。
作り手(芸術家)→送り手(メディア)→見る人 ただ作っているだけでは芸術は成り立たない。
芸術家は別の世界にあるものを越境して今の世界に何かを生み出す人。遠いところから何かを持ってくる人。
(小松先生のお話を受けて)巫女であるといっても良い。
■吉岡洋先生■こころの未来研究センター特定教授
美学とは哲学と似たもの。
想い考え経験などを積み重ねて、それをひも解き考えてくのが美学である。
ファルマコンのお話、しようと思ってらしたのに小松先生とかぶったそうです(苦笑)
Phrmaceintical =毒/薬
若返りの泉 fountain of youth ルカス・クラーナハの作品で、老女が泉に浸ると若い乙女になるとゆー絵画。聖書の一節なんだそう。
どの時代にも、老死への恐れ苦しみはある。
毒娘(Visha Kanya) インド、マウリア朝時代のお話。
赤ちゃんの時から、薄めた毒を飲むことで体液が猛毒となる、人間兵器として育った娘の話。善/悪、薬/毒、、、どちらかだけの存在はない。といった両義性のお話でした。
善悪の彼岸/ニーチェ
怪物(ウーゲホィ)と闘う者はそれによって自分も怪物とならないように用心せよ。
お前が底なしの淵を覗き込む時は、その深淵もまたお前を見返しているのだ。
【質問コーナー】
最後に全てのパネリストへの質問コーナーと、一言コメントがありました。
●文化とアートの違い
文化→計画性
アート→見えないもの
●シャーマンとリーダー
シャーマンは異なる世界をつなぐ存在。メディエーターで媒介者。
現代におけるリーダーを目指す作業(場所)への媒介者と捉えるならばそのカリスマに、共通性はある。
しかしあくまでもシャーマンには意識の変換が必要で、その変換によって別の世界を覗き伝える媒介者である。
リーダーとシャーマンの違いは霊的意識変換を媒介しているか否かである。
●いじめと生贄
緩んだ社会を引き締めるとき、また、社会を作るときに生贄の歴史は繰り返されている。
【オイラの結論】
それぞれの先生によって芸術・アートの切り口が違い、それは精神的な部分から実際に社会で体験・還元できるかどうかまで様々。
サイエンスでは全てを言葉で説明していくが、アートではとにかく感じるところから始まる。。。とおっしゃっていたように、同じ対象に対する考え方のプロセスが違うんですね。
アートへの価値観の違いも、ザラっとした感じではありまが感じられました。
一番最後に土佐先生が仰った内容が個人的には一番フィットしたのですが、先生の細かい言葉はメモし忘れました^^;
多分芸術は、対峙する人によって価値や存在意義が変わるもの。同じである場合もあるし違う場合もある。その社会で認められれば(文化財のように)世界共通の揺るぎない価値のものとなるが、それはそれを世に送り出した人の意思ではどうにもならない、そんなある意味、「見る」なり「聞く」なり「感じる誰か」がいて初めて社会の価値が生まれるのが芸術なのではないかと思いました。
創造者以外の誰かが「感じた」その瞬間に、アートとして息吹をあげるのかもしれない。
それは数年で終わるかも知れないし数百年続くかも知れない。もしかするとその一瞬で終わるかも知れない。
そんなかなーと思ったのでありました。
一回目にも思いましたが、あまりに難しくって頭沸いてます^^;
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パネリスト:山極壽一総長 内丸幸喜さん 小松和彦先生 松尾惠さん 吉岡洋教授
〆の挨拶:土佐尚子教授
モデレーター:吉川左紀子教授
幕間演奏:Duo Nagai Weitzel
第一回目の「垣根を越えてみまひょか」から2年で7回目が最終回でした。
オイラは第一回目と最終回のみの聴講。
以下覚書。(興味のある方のみ読んでね~^^)
【第一部】 山極総長と文化庁文化部長の内丸さんの対談。
デザインは、何回も繰り返すことができるもの。
アートは、1回限りのもの。山極総長はメッセージととらえている。
ジャガーの毛皮やクロコや蛇革の財布など、動物学的には「怖い」「うわ!」っとなる生き物でも、見方(立場)が変われば「ええもん」になる。価値が変化する。
文化芸術振興基本法が定められている。
文化芸術が創造され享受したものを社会に還元するための法案(?オイラの解釈、ちょっと違う?)。国としての文化芸術振興の基本理念を定め責務を明らかにしている。
絵画や音楽には、もともと題名がついていないことが多かった。
アートとして世に売り出すために名前を付け整理した。
アートとは、自然に境界線を引くことである。
個々が接する自然はそれぞれの感覚であり、互いに共有していない。その自然に境界線を引くことで共有するメッセージを持たせるのがアートではないか。
文化庁の方向として。古いものの保存だけでなく、今、生まれている文化芸術の成果をより多くの人に知らせ、未来の人々へ保存していくことが必要では。文化芸術の活用。
サイエンスは過去からの積み重ね。一方向。
アートは、今・未来だけでなく過去に向かっても開いているもの。
サイエンスとアートの共通点は、どちらも目に見えないものを見せる点。
理系同士の対談のためか、オイラの頭ではなかなかついていけない内容でお話が進んでました^^;
聞いてて思った事。
昔は国だったり王族だったり貴族だったり宗教だったり・・・ともかくパトロンがいて、その莫大なお金と膨大な労力と可能な限りの技術と依頼された人の天性だったり努力だったりで磨かれた感性が融合して、お城だったり天井画だったり彫刻だったり絵画だったり・・・が造られた。そして今現在まで残って初めて評価されていると思うのです。まぁ、ないものは評価できませんからね。
信仰であったり権力欲であったり純粋に好きだと思う思いであったり・・・色々な理由はあれども、長い年月「誰かの手で守られてきた」という事実が、芸術となりうる一つの側面なのかなと。
第二部は、いろんな先生の講演。
■小松和彦先生■国際日本文化センター所長
芸術と毒と聞いて、ものぐさ太郎→鬼→シャーマン・・と連想されたそう。
シャーマンとは、人類最古の宗教と言われる人。
呪術的であったり、歌やダンス、時には薬草などを用いてエクスタシーへと達し、人にとって必要な物語を語ったり歌ったり踊ったりする。また人にとって禍となるものの排除へと導く。
ある種の精神状態(幻覚)になるため、毒や薬を用いた。
日常と違う意識値におくことが芸術=宗教やシャーマン
共同体における悪い部分を排除するのが祭=追儺
鬼=もものけや悪霊であり、個人の身体を犯すもの、共同体を犯すもの。
しかし、鬼は穢を一手に引受け、追儺とともに持ち去る福でもある。
毒(鬼)と薬(福)は一つでもある。
薬局のことを「ファムシィ」と言う。語源は古代ギリシャ語の「ファルマコン」「ファルマコス」で、薬であり毒のことである。
古代ギリシャにおいて「生贄」は動物ではなく人であった。
「生贄」は共同体における毒を持ち出す器である。
体の中に入ってくるものに、メタファーとしてファルマコンと言った。
カタルマ(シャーマンが言う体に入ってくる悪いもの)=ファルマコン
‖
カタルシス
‖
浄化を図るために使われる物語。
追儺によって共同体から排出される日本の鬼は、ギリシャにおけるファルマコン(生贄)やカタルマだったのではないか。
人が個で抱えているどうしようもないもの(毒)を解消してくれるものを形として表したものが芸術なのかもしれない。
薬⇔芸術⇔毒
と言った関係。
ものぐさ太郎は始め、働かず村人に養ってもらうだけの嫌われた面倒な存在だった。=毒
都に召し出す対象として、日頃役に立たない養うだけだった太郎を選んだ。=スケープゴートとしてのファルマコン。つまり村人を都へと召し出さないための薬。
この図式が追儺と重なり、先生の中で鬼へと連想させたのだそうです。
「毒にも薬にもならない」の言葉通り、薬は毒であり薬でもある、二つの効果を持っているから作用を起こすのです。
扉座の「新羅生門」での綱のセリフ。「悪がないと正義もない。鬼退治とは、鬼を殺すことではない。闇から引きずり出すことだ。」(要約してますが)
どちらか一方だけでは存在しない、鬼と正義の関係は毒と薬の関係に似ていると思った。
■松尾恵さん■ヴォイスギャラリー代表
同時代を生きてい人の芸術を現代美術と捉えていらっしゃる。
芸術=自己主張。一歩間違えるとわがままになりかねない、その見極めが大切。
自己主張である芸術を後世に残していかなければいけいない。
ギャラリーはケーキの箱のようなもの。空間。
アトリエから出て、その空間全体を使って芸術家は作品を作る。
主張したい作家の欲を表現するためにギャラリーという箱がある。
芸術家の作品を世に晒すための場所でもある。
作り手(芸術家)→送り手(メディア)→見る人 ただ作っているだけでは芸術は成り立たない。
芸術家は別の世界にあるものを越境して今の世界に何かを生み出す人。遠いところから何かを持ってくる人。
(小松先生のお話を受けて)巫女であるといっても良い。
■吉岡洋先生■こころの未来研究センター特定教授
美学とは哲学と似たもの。
想い考え経験などを積み重ねて、それをひも解き考えてくのが美学である。
ファルマコンのお話、しようと思ってらしたのに小松先生とかぶったそうです(苦笑)
Phrmaceintical =毒/薬
若返りの泉 fountain of youth ルカス・クラーナハの作品で、老女が泉に浸ると若い乙女になるとゆー絵画。聖書の一節なんだそう。
どの時代にも、老死への恐れ苦しみはある。
毒娘(Visha Kanya) インド、マウリア朝時代のお話。
赤ちゃんの時から、薄めた毒を飲むことで体液が猛毒となる、人間兵器として育った娘の話。善/悪、薬/毒、、、どちらかだけの存在はない。といった両義性のお話でした。
善悪の彼岸/ニーチェ
怪物(ウーゲホィ)と闘う者はそれによって自分も怪物とならないように用心せよ。
お前が底なしの淵を覗き込む時は、その深淵もまたお前を見返しているのだ。
【質問コーナー】
最後に全てのパネリストへの質問コーナーと、一言コメントがありました。
●文化とアートの違い
文化→計画性
アート→見えないもの
●シャーマンとリーダー
シャーマンは異なる世界をつなぐ存在。メディエーターで媒介者。
現代におけるリーダーを目指す作業(場所)への媒介者と捉えるならばそのカリスマに、共通性はある。
しかしあくまでもシャーマンには意識の変換が必要で、その変換によって別の世界を覗き伝える媒介者である。
リーダーとシャーマンの違いは霊的意識変換を媒介しているか否かである。
●いじめと生贄
緩んだ社会を引き締めるとき、また、社会を作るときに生贄の歴史は繰り返されている。
【オイラの結論】
それぞれの先生によって芸術・アートの切り口が違い、それは精神的な部分から実際に社会で体験・還元できるかどうかまで様々。
サイエンスでは全てを言葉で説明していくが、アートではとにかく感じるところから始まる。。。とおっしゃっていたように、同じ対象に対する考え方のプロセスが違うんですね。
アートへの価値観の違いも、ザラっとした感じではありまが感じられました。
一番最後に土佐先生が仰った内容が個人的には一番フィットしたのですが、先生の細かい言葉はメモし忘れました^^;
多分芸術は、対峙する人によって価値や存在意義が変わるもの。同じである場合もあるし違う場合もある。その社会で認められれば(文化財のように)世界共通の揺るぎない価値のものとなるが、それはそれを世に送り出した人の意思ではどうにもならない、そんなある意味、「見る」なり「聞く」なり「感じる誰か」がいて初めて社会の価値が生まれるのが芸術なのではないかと思いました。
創造者以外の誰かが「感じた」その瞬間に、アートとして息吹をあげるのかもしれない。
それは数年で終わるかも知れないし数百年続くかも知れない。もしかするとその一瞬で終わるかも知れない。
そんなかなーと思ったのでありました。
一回目にも思いましたが、あまりに難しくって頭沸いてます^^;
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