日本茶道・中国茶芸・韓国茶礼における点茶点前の融合
日本では、「点前というと、茶道を連想する人が多くいると思います。
茶道の歴史を見ると、昔の儀礼を重んじ、特別な道具を用いた御殿での茶の湯から、身近な道具を用い、煩雑な点前をやめ、「茶道」(侘び茶)として、創造されてきました。
ここでの点前の在り方は、心の成長を導く行動として、文化的に注視するべきものがあります。
点前は、精神を鍛える意識を内在しながら、格や式法に偏らない、現実的な所作を追及するようになっていったのです。
この創成期による点前の変化は、秀吉も認めるほど、その意義は大きく、文化を深める分岐点でもありました。
『茶話指月集』という古書に利休と秀吉の話があります。
「豊臣秀吉公が、初めて千利休に台子の茶の湯の点前をするようにと言われた。秀吉公はその点前を見た後、「利休の点前は、その格に合わない所がある」と咎めました。利休は、「古流はいろいろと道具も多く、扱いも煩雑で良くないので、略していたしましたと」と言いました。秀吉公は、古流の習いを知った上での事であればと、褒められ、この後、茶の湯をする人は、利休を見習うべきだと感心された。」(意訳)
とあります。利休も、古を知り、新しい茶を作り出したのです。決まり事と思いこんでいる作法でさえ、変革し、新しいものを生んでいく。その変革のためには、ひとつひとつの所作の真の意味を知り、そこから深めていくことになります。
茶の湯文化を楽しむという事は、この話のような絶え間ない追求であり、現代の茶人も心がけて進化を実行し、後の世代に伝えることなのです。
今日まで、日本独自で深められてきた茶道ですが、いよいよ茶を世界の文化として捉えることになりました。
日本茶道・中国茶芸・韓国茶礼における点茶点前の融合は、日本の茶道創成以来、革新的な無限の可能性を予感させる大きな改革の一歩として歩みを始められるきっかけとなればと考えております。
日本茶道塾 吉野白雲
*『茶話指月集』利休の孫・宗旦が、高弟・藤村庸軒に伝えた逸話を、庸軒の女婿の久須見疎安が筆録、編集。元禄14年(1701)板行。
日本では、「点前というと、茶道を連想する人が多くいると思います。
茶道の歴史を見ると、昔の儀礼を重んじ、特別な道具を用いた御殿での茶の湯から、身近な道具を用い、煩雑な点前をやめ、「茶道」(侘び茶)として、創造されてきました。
ここでの点前の在り方は、心の成長を導く行動として、文化的に注視するべきものがあります。
点前は、精神を鍛える意識を内在しながら、格や式法に偏らない、現実的な所作を追及するようになっていったのです。
この創成期による点前の変化は、秀吉も認めるほど、その意義は大きく、文化を深める分岐点でもありました。
『茶話指月集』という古書に利休と秀吉の話があります。
「豊臣秀吉公が、初めて千利休に台子の茶の湯の点前をするようにと言われた。秀吉公はその点前を見た後、「利休の点前は、その格に合わない所がある」と咎めました。利休は、「古流はいろいろと道具も多く、扱いも煩雑で良くないので、略していたしましたと」と言いました。秀吉公は、古流の習いを知った上での事であればと、褒められ、この後、茶の湯をする人は、利休を見習うべきだと感心された。」(意訳)
とあります。利休も、古を知り、新しい茶を作り出したのです。決まり事と思いこんでいる作法でさえ、変革し、新しいものを生んでいく。その変革のためには、ひとつひとつの所作の真の意味を知り、そこから深めていくことになります。
茶の湯文化を楽しむという事は、この話のような絶え間ない追求であり、現代の茶人も心がけて進化を実行し、後の世代に伝えることなのです。
今日まで、日本独自で深められてきた茶道ですが、いよいよ茶を世界の文化として捉えることになりました。
日本茶道・中国茶芸・韓国茶礼における点茶点前の融合は、日本の茶道創成以来、革新的な無限の可能性を予感させる大きな改革の一歩として歩みを始められるきっかけとなればと考えております。
日本茶道塾 吉野白雲
*『茶話指月集』利休の孫・宗旦が、高弟・藤村庸軒に伝えた逸話を、庸軒の女婿の久須見疎安が筆録、編集。元禄14年(1701)板行。