日本茶道塾 ブログ

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韓国、中国、日本 茶道融合点前について

2010年03月01日 | 茶の話
日本茶道・中国茶芸・韓国茶礼における点茶点前の融合
日本では、「点前というと、茶道を連想する人が多くいると思います。
茶道の歴史を見ると、昔の儀礼を重んじ、特別な道具を用いた御殿での茶の湯から、身近な道具を用い、煩雑な点前をやめ、「茶道」(侘び茶)として、創造されてきました。
ここでの点前の在り方は、心の成長を導く行動として、文化的に注視するべきものがあります。
点前は、精神を鍛える意識を内在しながら、格や式法に偏らない、現実的な所作を追及するようになっていったのです。

この創成期による点前の変化は、秀吉も認めるほど、その意義は大きく、文化を深める分岐点でもありました。
『茶話指月集』という古書に利休と秀吉の話があります。

「豊臣秀吉公が、初めて千利休に台子の茶の湯の点前をするようにと言われた。秀吉公はその点前を見た後、「利休の点前は、その格に合わない所がある」と咎めました。利休は、「古流はいろいろと道具も多く、扱いも煩雑で良くないので、略していたしましたと」と言いました。秀吉公は、古流の習いを知った上での事であればと、褒められ、この後、茶の湯をする人は、利休を見習うべきだと感心された。」(意訳)

とあります。利休も、古を知り、新しい茶を作り出したのです。決まり事と思いこんでいる作法でさえ、変革し、新しいものを生んでいく。その変革のためには、ひとつひとつの所作の真の意味を知り、そこから深めていくことになります。
茶の湯文化を楽しむという事は、この話のような絶え間ない追求であり、現代の茶人も心がけて進化を実行し、後の世代に伝えることなのです。

今日まで、日本独自で深められてきた茶道ですが、いよいよ茶を世界の文化として捉えることになりました。
日本茶道・中国茶芸・韓国茶礼における点茶点前の融合は、日本の茶道創成以来、革新的な無限の可能性を予感させる大きな改革の一歩として歩みを始められるきっかけとなればと考えております。

日本茶道塾 吉野白雲

*『茶話指月集』利休の孫・宗旦が、高弟・藤村庸軒に伝えた逸話を、庸軒の女婿の久須見疎安が筆録、編集。元禄14年(1701)板行。

茶之十徳

2010年01月09日 | 茶の話
塾長が、今年の書き初めに、墨余り、襖にも「茶の十徳」書いてくださいましたので、写真撮りました。

皆さまにお送りします。

一、諸天(佛)加護      
二、無病息災
三、父母考養
四、朋友和合
五、悪魔降伏
六、正心修身
七、睡眠自除
八、煩悩消滅
九、五臓調和
十、不惑不乱(臨終不乱)


新年の茶碗で一服

2009年12月31日 | 茶の話
新年の茶碗、焼成いたしました。

四睡図
豊干、寒山、拾得と虎

中国唐代の豊干禅師は天台宗の大本山、国清寺に住し、その高い境地に猛獣の虎さえもなついた、と言われています。

寒山詩で有名な寒山と拾得もこの豊干禅師が見込み、国清寺に住まわせました。

合わせて「三聖」と呼ばれており、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てる者もいます。

このような逸話が残されています。

ある僧が豊干を尊崇し、他にも会うに足る人物がいるかと聞くと、豊干は「寒山と拾得」と答えます。

行ってみると、拾得は皿洗い、寒山はその皿についた残飯をもらって、ようやくしのいでいる者でしかなく、二人とも立派な衣どころかボロボロの着物を身にまとっている。。。

しかし、あの豊干が言うのだから、よほど偉いのだろうと思い、僧がうやうやしく一礼すると、

大笑いし、「豊干がしゃべったな」と言って、寺から去っていってしまったという。

正月釜はこちらで一服どうぞ。


五感の話

2009年05月25日 | 茶の話
佗の茶は、茶室を狭くし暗くすることで、視覚に無駄な情報を与えないようにしました。入口は人が入れるほどの広さにし、壁で囲った部屋の中では、釜の煮え音や茶筅を振る音しか聞かせません。触れることができるのは、茶の入れものである茶碗と、茶の器である茶器など、限られたものになります。茶の味や香りを保持する努力は、茶葉の選定や、茶壺や保存方法の工夫に見ることができ、食事としての懐石は、淡い味付けにしてあります。それは、茶の香りに触らないようにとの心遣いであり、炭の香りにも心を配り香を焚くほどです。茶室・炭手前・懐石・茶道具・所作などすべてを必要最小限にしていくことで、それぞれの本質を知ろうとしたのです。わび茶は、可能な限り、余分というものを排除していくことにより、五感の働きを最小限に制御し、茶道の本質を浮び上がらせようとする実践なのであります。

「日々是好日」

2009年05月16日 | 茶の話
碧巖録の第六則の、「挙雲門垂語云十五日已前不問汝十五日已後道将一句来自代云日々是好日」からの語です。中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の語。雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって「十五日以前のことはさておき、これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」と問います。誰も返えられずにいると、雲門が「日々是好日」といいます。十五日以後と問われれば、十五日後のことはわからないとか、十五日後に答えればと思うかもしれません。雲門は十五日といいながら、日時にとらわれてはいません。茶道の修行も、今までは出来てなかったとか、明日やればよいという思いに落ち込むのではなく、そう思った時、今日、今こそ点前修行に打ち込むべきなのです。今日を生き切れば、意図せずとも、それはよい過去となり、素晴らしい未来につながるようになるのです。平々凡々の穏やかな日々を「日々是好日」というのではなく、周りの事柄や自分の感情に翻弄されることなく、自主的に今を生き抜こうとすることが、「日々是好日」というものなのです。

真如

2009年03月08日 | 茶の話
およその文献には、茶道は心を習うものとか、仏法を習うとかという書き出しがあります。しかし、流派に拘泥した茶ではその現実は難しいものになってしまいます。自分の心が生かしきれない、自分の心が表しにくい他人の茶法のまねは、基礎は学べてたとしても、永遠に自分の茶にはなりません。茶道による、心の成長は、自己を学びさらに自己の解放をすることです。点前を学ぶという事は、所作の隅々にまで合理性や、調和を求めたものでなくてはいけないのです。点前とは、こうしなければいけないという、束縛を学ぶのではなく、動きの根本原理を知り、そこからの無限の可能性を予感させるような、自由を学ぶものなのです。

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