港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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『4月12日』

2019-04-11 16:01:42 | 明日は誰の日

【誕生日】
☆ハーディ・クリューガー Hardy Krüger (1928.4.12~ )



元ドイツ軍人の経験を生かして国際的に活躍した映画俳優です。
ヒットラーが台頭し始めた頃にエンジニアの息子としてベルリンに生まれ、1941年に両親の指示でアドルフヒトラー学校の
エリート寄宿学校に入り将来の指導的地位のための教育を受けました。大戦中の1944年にはアルフレッド・ワデンマン
監督のナチスのプロパガンダ映画『ヤング・イーグルス』に出演、その後もドイツ兵として激戦地で戦いに参加したものの
ヒットラーが起こした戦争に疑問を感じ、陰に回ってユダヤ人の脱出を助け、また米軍との銃撃戦を拒否して死刑を宣告
されました。しかし、自軍の将校に逃がしてもらって一命をとりとめたというエピソードが残っています。この戦争体験が
後に俳優として大いに活かされることになりました。
大戦後は西ドイツ映画で俳優として数本の出演を果たして国内で人気も出ていたのですが、1957年にイギリスに渡って
ロイ・ウォード・ベイカー 監督の『脱走四万キロ』でイギリスの田舎に不時着して捕虜となったドイツ空軍の大尉の役を
好演し、1961年にはフランスのドニス・ド・ラ・パテリエール 監督の『地獄の決死隊』でフランス兵士と友情を交わす
捕虜のドイツ将校という難しい役柄をこなせたのも大戦中の実体験があってこそだと称賛されました。
これらの成功により国際俳優としての足場を固めて、1961年のハリウッド映画『ハタリ!』、そして彼にとって代表作となる
1962年のフランス映画『シベールの日曜日』で大きく開花し、その後も国際俳優として活躍する一方で、1980年代には
母国でTVにも進出してシリーズの監督もこなす多才ぶりを発揮したようです。

【主要出演作品】
1957年『脱走四万キロ』The One That Got Away

1961年『地獄の決死隊』Un taxi pour Tobrouk

1961年『ハタリ!』Hatari!

1962年『シベールの日曜日』Les dimanches de Ville d'Avray

1965年『太陽が目にしみる』Los Pianos mecánicos
1965年『飛べ!フェニックス』The Flight of the Phoenix
1967年『太陽のサレーヌ』La Grande sauterelle

1969年『ネレトバの戦い』Bitka na Neretvi
1970年『赤いテント』Krasnaya palatka


☆パトリシア・ゴッジ Patricia Gozzi (1950.4.12~ )



映画『シベールの日曜日』の子役として注目されたフランスの女優です。
芸術愛好家の両親(イタリア人の父とフランス人の母)のもとに北イタリアで生まれました。やがて一家がパリに移った時に
彼女の姉のシャンタルがルネ・クレマン監督の『居酒屋』の子役として出演したのをきっかけにパトリシアもスクリーン・
テストを受けて合格し、数本の作品に子役として出演しました。大きな瞳の笑顔中にも陰りのある表情が気に入られて
1962年にセルジュ・ブールギニョン監督の『シベールの日曜日』の主役に抜擢され、薄幸で大人の女性の心を持つ少女を
熱演して一気に注目を集めました。次いで1965年には『かもめの城』に思春期で大人になった少女役を演じましたが、
『シベールの日曜日』のイメージを大切にされている方にはお勧めできません。
その後も数本の作品に出演していましたが、1970年に20歳で結婚し映画界を引退しました。現在、彼女はパリでイギリスの
会社のマネージャーとして働いているそうです。

【主要出演作品】
1962年『シベールの日曜日』Les dimanches de Ville d'Avray

1965年『かもめの城』Rapture



☆ビリー・ヴォーン Billy Vaughn (1919.4.12~1991.9.26)



サックスをフィーチャーした独特のサウンドで1950~60年代に人気を博したビリー・ヴォーン楽団の指揮者です。
ケンタッキー州グラスゴー生まれで、3歳で既にマンドリンを演奏していたそうです。1941年第二次大戦で入隊、終戦後に
音楽家になる決意を持ち作曲の勉強目的でウエスタン・ケンタッキー大学に入り、そこで知り合った学生仲間四人と共に
ヴォーカル・グループ「ヒルトッパーズ」を結成してピアニスト兼バリトンを担当しました。この「ヒルトッパーズ」は
1952年にビリー自身が作曲した「Trying」で米国7位になっています。しかし1954年に脱退してビリー・ヴォーン楽団を結成、
『愛のメロディー(Melody Of Lov)』が1955年に全米2位となって一躍人気楽団になりました。
彼の楽団が世界的に認められたのは1958年の『浪路はるかに』で、既存曲をツイン・サックス・サウンドにアレンジ、
初のミリオン・ヒットに輝きました。
『愛のメロディー』もそうであったように、その後も『港の灯』『白い夜霧のブルース』などかなり古い曲のアレンジ、
『峠の幌馬車』『花のメキシコ娘』『サファリの夕陽』などのヒット曲のカヴァーによって原曲を凌ぐサウンドを武器
にしてヒット・メーカーとして活動を続けました。自前の曲が殆どないのが特徴なのかもしれません。

【主要演奏作品】
1954年『愛のメロディー』Melody Of Love  視聴
1958年『浪路はるかに』The One That Got Away 

1960年『星を求めて』Look For A Star

1960年『港の灯』Harbor Lights  視聴
1961年『日曜はダメよ』Never On Sunday  視聴
1961年『峠の幌馬車』Wheels  視聴
1961年『白い夜霧のブルース』It’s a Lonesome Old Town

1961年『九月になれば』Come September  視聴
1961年『花のメキシコ娘』México  視聴
1961年『ベルリンの街角で』Berlin Melody  視聴
1962年『サファリの夕陽』A Swingin' Safari  視聴
1963年『白い渚のブルース』Stranger on the Shore  視聴
1965年『真珠貝の歌』Pearly Shells

1965年『メキシカンパール』Mexican Pearls  視聴
1965年『夜のストレンジャー』Strangers in the night  視聴
1965年『ブルー・レディーに紅いバラ』Red roses for a blue lady  視聴
1970年『ある愛の詩』Love Story  視聴