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『4月29日』

2019-04-28 14:43:33 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆フレッド・ジンネマン Fred Zinnemann (1907.4.29~1997.3.14)



信念を貫く人物を描く作品で本領を発揮し、自身もハリウッドの中で信念を押し通した映画監督です。
代々医師のユダヤ系ドイツ人の家系にウィーンで生まれました。幼児期にヴァイオリンを習っていたこともあって音楽家を
目指していましたが、ウィーン大学では法科を学びました。その在学中に観たシュトロハイム監督の『グリード』に刺激され
映画界に入ることを決意し、1927年にパリに創立された映画撮影技術学校の一期生となりそこで映画作りの基礎を学びました。
その後、カメラマン助手や助監督を務めていましたが、映画がトーキー時代に入ったことで1929年にハリウッドに渡りました。
以前に助手をしていたロバート・フラハティ監督から学んだドキュメンタリーの技術を活かして1938年に漁師の生活を描いた
セミ・ドキュメンタリー短編映画 "Redes" を監督、1941年には『Kid Glove Killer』で長編監督の仲間入りを果たしました。
第二次大戦が終わり1948年に戦後の瓦礫の中の飢えた孤児を描いたドキュメンタリータッチの『山河遥かなり』など以降の
作品にもその技術が大いに取り入れられていて、特に1952年の『真昼の決闘』では映画進行と上映時間をシンクロさせる
手法で撮ることによりリアリズムと相まって更なる緊張感をもたらすという演出効果を上げることに成功しました。
ただ、この『真昼の決闘』のラストで主人公が保安官バッチを地面に投げ捨てるシーンに対してこれは国辱行為だとの批判を
受けました。折しもレッド・パージが暴威を振るっていた時期でもあり、脚本を書いたカール・フォアマンは赤のレッテルを
貼られてハリウッドから追放され、ジンネマン自身も疑惑をかけられて窮地に追い込まれました。
その後も『地上より永遠に』『尼僧物語』『わが命つきるとも』などの力作を提供してくれましたが、ジンネマンは常に
ハリウッドの商業主義に対する批判を述べています。それはあくまで形式上であって、本心はハリウッドに対する根深い
不信感があるように思えてなりません。

【主要監督作品】
1948年『山河遥かなり』 The Search

1948年『暴力行為』 Act of Violence
1952年『真昼の決闘』 High Noon

1953年『地上より永遠に』 From Here to Eternity 

1957年『夜を逃れて』 A Hatful of Rain 
1959年『尼僧物語』 The Nun's Story

1960年『サンダウナーズ』 The Sundowners

1964年『日曜日には鼠を殺せ』 Behold a Pale Horse
1966年『わが命つきるとも』 A Man for All Seasons



☆ティノ・ロッシ Tino Rossi (1907.4.29~1983.9.26)



囁くようでセンチメンタルな歌唱法が「魅惑のシャンソン」と称されて人気を博したフランスのシャンソン歌手です。
コルシカ島に生まれ、若い頃から故郷でギターを弾いて唄っていましたが、20歳前にシャンソンで身を立てようと決意して
本土に渡り、マルセイユやリビエラのリゾートクラブで演奏するようになりました。
 1930年代初頭にパリに出てコロンビアレコードと契約を交わし、1935年には映画『マリネラ』(Marinella)に出演、同名の
主題歌が大ヒットとなり、女性ファンを惹きつける魅惑の歌声で一躍トップ歌手になりました。
その後も感傷的なシャンソンのレコーディングを続け、一方で25本以上の映画に出演するなど、75歳で引退するまで一線級の
歌手として活躍を続けました。
代表的な歌唱曲としては『マリネラ』『小雨降る径』『アマポーラ』『夜のヴァイオリン』などがあり、数多くの映画に出演
してはいるのですが、日本では1934年の『モスコウの一夜』の一本が公開されたにとどまっています。

↓はティノ・ロッシの『マリネラ』 【YOUTUBEより】


↓はティノ・ロッシの『小雨降る径』 【YOUTUBEより】



☆デューク・エリントン Duke Ellington (1899.4.29~1974.5.24)



ジャズ作曲家、編曲家、ピアニスト、バンドリーダーとして20世紀を代表するアメリカの音楽家の一人です。
ワシントンDC生まれのアフリカ系米国人で、父親が著名な白人医師ミドルトン・カスバートの執事であったため、子供の
頃から作法教育を受けてきちんとした身だしなみをしていたことから「Duke(公爵)」の愛称で呼ばれていました。
7歳からピアノを習い始めハイスクールでは作曲を学び、1916年にニューヨークに移住して翌年からナイト・クラブなどで
プロ・ピアニストとして活動を始めました。
1918年には自己のバンドを結成し、1927年にハーレム地区の高級クラブ「コットン・クラブ」の専属バンドとして活躍、
1932年から欧州など世界ツアーを開始して国際的にも認められるビッグ・バンドとなりました。その間、『A列車で行こう』
『キャラヴァン』『サテン・ドール』などのビッグ・ヒットを飛ばし、死の直前まで第一線で活躍しました。

↓はデューク・エリントン楽団の『A列車で行こう』 【YOUTUBEより】


↓はデューク・エリントン楽団の『キャラヴァン』 【YOUTUBEより】



【ご命日】



★アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock (1899.8.13~1980.4.29)
高度な映画技法によるスリラーを得意とし、サスペンス映画の神様と称されたイギリス及アメリカの映画監督。
主な監督作品として『暗殺者の家』『三十九夜』『断崖』『疑惑の影』『汚名』『裏窓』などがある。