港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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シネマ・ポップス…ときどきイラスト

『4月16日』その1

2019-04-15 13:56:48 | 明日は誰の日

【誕生日】

☆チャールズ・チャップリン Charles Chaplin (1889.4.16~1977.12.25)



圧制・不正義・不平等を真っ向から糾弾し自由と愛と平和を訴え続けた偉大な喜劇役者・映画監督です。
ミュージックホールのタレントの両親の元にロンドンの場末に生まれました。1890年に両親が離婚し母に連れられて劇場に
出入りしているうちに舞台に立つようになりました。5歳の時、貧困の中で母が発狂して兄のシドニーとともに孤児院に
送られそこで学校教育を受けました。10歳になった頃劇団エイト・ランカシア・ラッズに入所してパントマイム芸で舞台に
立ち、1917年にはフレッド・カルノーの一座で花形コメディアンになったことによってアメリカ行きのチャンスを掴み、
ニューヨークのアメリカン・ミュージックホールに出演していた時にマック・セネットに見出されて、スラップスティック
全盛の1913年にキーストン社と契約、1914年に第一作の『成功争ひ』に出演して映画界での活動を開始しました。次いで
第二作目の『ベニスのベビーカー競争』の時に山高帽に背広、片手にステッキ、ダブダブズボンにチョビ髭という独特の
いでたちで登場、哀れな紳士の中に抱腹絶倒のマイム芸と痛烈なナンセンス精神によるチャップリンスタイルが形成さました。
1916年にはミーチュアル社、1917年にはファースト・ナショナル社と渡り歩いてハリウッドのサンセット通りにに自前の
スタジオを建て、そこで従来の一発本番ではなく同じシーンを何度も取り直すというシステムを創り上げ、さらにアクション
一辺倒の喜劇に心理描写を取り入れて表現の幅を大きく広げ、1917年までに100本を超える短編に出演を果たしました。
映画初期のスラップスティック喜劇の第一人者として人気者であったチャップリンは、この頃からユーモアの中で徐々に
鋭い社会諷刺を加えるようになり、下町に生きる庶民の哀愁や怒りを代弁する「心優しき放浪者」へと変貌、1917年の
『移民』、1918年『犬の生活』あたりからその傾向が顕著に表れはじめ、官憲やブルジョワを小馬鹿にすることによって
歪んだ社会を糾弾するスタイルが定着していきます。社会の底辺に身を置く観客にとって官憲やブルジョワを小馬鹿に
することがこの上ない痛快を誘い庶民からさらなる支持を受けていきました。
1923年にユナイテッド・アーチスト社と契約して、同年の『偽牧師』で痛烈な悪徳への指弾をする一方で、1923年の
『巴里の女性』では監督に徹して笑い抜きのシリアスなドラマで運命の悪戯と必然を凝視、1925年の『黄金狂時代』で
さすらう孤独と飢えた人生のすべてを笑いに変えました。1928年に苦い涙の『サーカス』を撮った後に映画史の大革命と
なるトーキーの波が押し寄せてきます。1928年にはサイレントで企画した『街の灯』着手していたのですがトーキー誕生
にもかかわらず一部サウンドのサイレント作品として押切り、逆にロマンチックな音楽で捕捉することによって情緒的な
仕上がりに成功、圧制・不正義・不平等という現実社会を激しく風刺しながら人間の真心の大切さを訴えてました。
続いて1936年の『モダン・タイムス』においては文明社会で人間が機械に奴隷化されるという世の中に対する矛盾や不正義
に打ち勝って人間らしく明日を生き抜こうという強い意志で、現代社会の矛盾に対する憤りは思想的な文明批判にまで達
することになりました。
また、以前にも軍国主義を正面切って嘲笑した『担へ銃』があったのですが、1937年にアレキサンダー・コルダの依頼で
ヒットラーを皮肉った『独裁者』の映画化を提案されました。丸二年がかりで構想を練り、内外からの圧力に屈すること
なく、エンディングでは「兵士たちよ、君たちを肉弾にしようと動物のように連れ去っていく人でなしどもに命を捧げては
ならない」という映画史に残る演説で独裁者を手厳しく糾弾しています。
しかし、1947年『殺人狂時代』では戦争による大量殺人は許されるのに保険金殺人はどうして罪になるのかという皮肉を
込めたテーマを提示して公開禁止・中止の憂き目にあい、さらに1952年には芳醇な人間愛の映画詩『ライムライト』を
撮り終えたのですが、当時ハリウッドに吹き荒れたレッドパージ(赤狩り)により作風が共産主義的であるとの理由によって
完成直後に既にアメリカから追放されていました。
レッド・パージによって自由の国と信じていたアメリカから自由を奪われて追い出され、イギリスで沈黙を保っていた
チャップリンは1957年にロンドンで制作した『ニューヨークの王様』においてアメリカ文明に対する皮肉を込めて抵抗を
みせましたが、この反骨精神が認められるのに長い年月を要することになります。

常に社会的弱者の側に立ち、社会の矛盾に憤り、圧制・不正義・不平等を真っ向から糾弾し、社会悪への挑戦をし続け、
自由と愛と平和を訴え、不正義に打ち勝って人間らしく力強く明日を生き抜こうと慰めと励ましを語り続けたチャップリン。
その偉業は後世まで語り継がれることでしょう。

1914年『成功争ひ』Making a Living

1914年『タンゴがもつれる』Tango Tangles
1914年『恋の二十分』Twenty Minutes of Love
1914年『メーベルの結婚生活』Mabel's Married Life
1914年『笑ひガス』Laughing Gas
1914年『彼の逢引きの場所』His Trysting Place

1914年『醜女の深情』Tillie's Punctured Romance
1915年『拳闘』The Champion
1915年『アルコール先生海水浴の巻』By the Sea
1915年『珍カルメン』Burlesque on Carmen
1916年『伯爵』The Count

1916年『番頭』The Pawnshop
1917年『移民』The Immigrant

1918年『犬の生活』A Dog's Life

1918年『担へ銃』Shoulder Arms

1919年『サニーサイド』Sunnyside
1921年『キッド』The Kid

1923年『偽牧師』The Pilgrim
1923年『巴里の女性』A Woman of Paris(監督のみ)
1925年『黄金狂時代』The Gold Rush

1928年『サーカス』The Circus

1931年『街の灯』City Lights

1936年『モダン・タイムス』Modern Times

1940年『独裁者』The Great Dictator

1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux

1952年『ライムライト』Limelight

1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong(監督のみ)


最後に、『モダン・タイムス』から『ティティナ』を付け加えておきます。【YOUTUBEより】



『4月16日』その2

2019-04-15 13:31:14 | 明日は誰の日

【誕生日】


☆ヘンリー・マンシーニ Henry Mancini (1924.4.16~1994.6.14)



ピアニスト、作曲編曲家、オーケストラ指揮者でアメリカを代表する映画音楽作曲家の一人です。
オハイオ州クリーヴランド生まれペンシルヴァニア州育ちのイタリア系アメリカ人で、幼い頃よりフルート奏者の父親から
フルートとピッコロの英才教育を受けました。ハイスクールを卒業後、カーネギー音楽学校、ジュリアード音楽院を卒業し
第二次大戦中は軍楽隊勤務をつとめ、退役後はテックス・ベネキーが指揮するニュー・グレン・ミラー楽団にも所属して
1954年の映画『グレン・ミラー物語』の音楽スタッフとしてアレンジを担当しています。この頃に親交があった映画監督の
ブレイク・エドワーズから誘いを受けてエドワーズのTV映画の音楽監督として映画音楽家の第一歩を踏み出しました。
そして1961年に映画音楽家としての一大転機となるブレイク・エドワーズ監督の映画『ティファニーで朝食を』の音楽を
任され『ムーン・リバー』を作曲、映画音楽界のエポック・メーキング的存在となりました。
続いて『子象の行進』『酒とバラの日々』『シャレード』『ピンクパンサーのテーマ』などでヒット曲を飛ばし、1970年
には彼の音楽人生の集大成となる『ひまわり』で一時代を築き上げました。

【主要映画音楽作品】
1961年『ティファニーで朝食を』 Breakfast at Tiffany's

1961年『ハタリ! 』 Hatari!

1962年『酒とバラの日々』 Days of Wine and Roses

1963年『シャレード』 Charade

1963年『ピンクの豹』 The Pink Panther
1965年『グレートレース』 The Great Race
1966年『アラベスク』 Arabesque
1967年『いつも2人で』 Two for the Road
1967年『暗くなるまで待って』 Wait Until Dark
1970年『ひまわり』 I Girasoli


いずれも見事な作品群ですが、個人的には映画『ピンクの豹』の挿入歌となった『今宵を楽しく』がお気に入りです。
↓はフラン・ジェフリーズの『今宵を楽しく』【YOUTUBEより】



☆ボビー・ヴィントン Bobby Vinton (1935.4.16~ )



ミスター・ブルーと呼ばれて大ヒット曲を連発したアメリカの青春ポップ・シンガーです。
父親が地方のバンドリーダーであったことから幼いころからいろんな楽器演奏に関心を持ちハイスクールでバンドを結成、
地元クラブなどで演奏活動を始め、大学卒業、兵役終了後の1960年にエピックレコードと契約します。しかし、これと
いったヒットを飛ばせずに解雇寸前となりましたが、1962年に『涙の紅バラ』をレコーディング、自らプロモートして
4週連続で全米No.1という奇跡を起こしてエピック・レコード社に最初のミリオン・セラーをもたらしました。
続く1963年には『ブルー・ヴェルヴェット』、1964年には『ミスター・ロンリー』がともに全米No.1に輝き、アメリカの
ポップス界に一時代を築きました。
その後もエンターテイナーとして活動を続け2015年7月の公演を最後にツアーから撤退したようです。

↓はボビー・ヴィントンの『涙の紅バラ』【YOUTUBEより】


↓はボビー・ヴィントンの『ブルー・ヴェルヴェット』【YOUTUBEより】


↓はボビー・ヴィントンの『ミスター・ロンリー』【YOUTUBEより】



☆ダスティ・スプリングフィールド Dusty Springfield (1939.4.16~1999.3.02)



カンツォーネのカバー曲『この胸のときめきを』がヒットしたイギリス出身の女性シンガー。
ロンドンに生まれ、幼い頃から音楽が大好きで、1960年に兄2人とザ・スプリングフィールズを結成して音楽活動を始め
デビュー曲の “Dear John” がヒットしてアメリカでも注目を集めました。やがて1963年にはソロ歌手として独立し、
「二人だけのデート」で再デビュー、1966年にサン-レモ音楽祭入賞曲の『この胸のときめきを』の英語カヴァー盤が
大ヒットし、その後も米チャートの常連となり世界的な成功を収めています。
その一方で、彼女は非常に気難しい完璧主義者だったと言われており、時にはミュージシャンやエンジニアを怒鳴り
散らすことも多々あったようで、制作現場ではトラブルが絶えず、そのためかドラッグやアルコール依存するようになり
長期のスランプに陥ったまま急速に消え去ってしまいました。

↓はダスティ・スプリングフィールドの『この胸のときめきを』【YOUTUBEより】


↓はダスティ・スプリングフィールドの『行かないで』【YOUTUBEより】



【ご命日】

★デヴィッド・リーン David Lean (1908.3.25~1991.4.16)



第二次大戦後にキャロル・リードと共に衰退していた英国映画界を復活させたイギリスの映画監督。
主な監督作品として『逢びき』『超音ジェット機』『旅情』『アラビアのロレンス』などがある。


★モリス・ストロフ Morris Stoloff (1898.8.01~1980.4.16)



クラシック畑から映画界に転向し数多くの作品を残したアメリカの映画音楽作曲家。
主な映画作品として『愛情物語』『ピクニック 』『夜の豹』『ファニー』などがある。