聖書:ヨハネの福音書19章:23節~30節、38節~42節
主イエスはユダヤ人指導者捕えられ、総督ピラトのもとへ連れて行かれて裁判にかけられます。ピラトはイエスを釈放しようとしますが、群衆の「十字架につけろ!」という叫びに屈してイエスを十字架刑に引き渡してしまいます。イエスは自分で重い十字架を背負い「どくろの場所」と呼ばれる場所で十字架につけられました。十字架のもとには、母のマリアも含め4人の女性たちがいました。この時、ヨハネ以外の男の弟子たちは逃げてしまいそこにはいませんでした。彼女らは主を愛する心から、悲しみながらも恐れることなく、イエス様のおそばに寄り添っていました。その時、主は十字架の上から母マリアと愛する弟子のヨハネを見て、母マリアに「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。」また、その愛する弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われ、母マリアを弟子に託しました。ご自身が苦しみにあっているにもかかわらず、ご自分が亡くなった後の母マリアのことを気遣い心配されました。
それから主イエスはすべてが完了したことを知ると、「わたしは渇く」と言われました。兵士たちは酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけてイエスの口元に差し出しました。するとイエスはそのぶどう酒を口につけると、「完了した」と言われ、頭を垂れて霊をお渡しになりました。「完了した」とは、すべて終わったことですが、それは救いの御業が完了したということです。神の救いのご計画が成し遂げられたことを表しています。私たちが犯してきた罪は払いきれない負債のようなものです。良い行いをしたからといって罪がなくなるわけではありません。少しぐらい犠牲を払ったから罪が帳消しにされるわけでもありません。「完了した」ということばは、もともと商業用語で「支払い完了」という意味があります。主イエス様は十字架の上でご自分のいのちを差し出し、私たちの罪の負債を完全に支払い済みにしてくださいました。自ら進んで、全人類の罪をご自分の身に負われ、十字架にかかり死んでくださいました。私たちの側で何かしたのではなく、神の側ですべてを成し遂げてくださったのです。
主は十字架上で息を引き取り、その後、ユダヤ人の指導者であるアリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの遺体を引き取りました。アリマタヤのヨセフはここにしか登場しない人物です。有力な議員でした。ヨセフはこれまでユダヤ人を恐れてイエスの弟子であることを隠していました。しかしこの時は、人目をはばからず、イエスの体を埋葬することをピラトに申し出ました。いったい彼のうちに何が起こったのでしょうか?十字架を目の前にしたときに彼の心に迫るものがあったのでしょう。私のような罪深い者のために死んでくだり、赦してくださる主の愛に触れた時に、彼はピラトの前に出ることができたのだと思います。生きた神の臨在、十字架のキリストの愛に触れる時に、私たちの内に変革が起こってきます。十字架には力があります。私たちを変える力があります。日々、主の十字架を仰ぎつつ、主と共に歩んでまいりましょう。
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