マタイ17:1~13「神であり人であるイエス」
Ⅰ:栄光に輝くイエス
(1)「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」
この山というのは、ガリラヤ湖から南西20キロほどにあるタボル山とも、ピリポ・カイザリヤの北にある海抜2800m近いヘルモン山とも言われています。特定することはできません。主は弟子たちの中でこの3人だけを連れて山に登られました。この三人は弟子の中でも特別だったようです。また、この三人だけに示したことは、この事柄が重大なことであることを表しています。
(2)「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」
イエス様の姿が変わりました。この輝きは、イエスの復活のからだ、昇天して神の右の座に着座されるときの栄光の姿を示しています。キリストの再臨の時のかたちはまさにこのような姿でしょう。神の子なるイエス様の本来の姿を表されたのです。弟子たちは姿変わりしたイエス様を見て本当に驚いたことでしょう。並行箇所では(マルコ9:6)「彼らは恐怖に打たれたのであった」と説明しています。「姿が変わり」(メタモルフォオマイ)ということばは、一つの状態からもう一つの状態に変わることを意味します。青虫を見たことがあるでしょう。気持ち悪いと思う人もいるかもしれません。しかし、青虫は、さなぎになり、青虫からは想像もつかないきれいな蝶になります。姿が変わるとは、このように全く別の姿に変わることです。主イエスは、神の神々しさ、光り輝く栄光の姿に変わられました。
(3)「しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」
モーセとエリヤが現われてイエスと一緒に話し合っていました。二人とも旧約を代表する人物です。モーセは旧約の律法を代表する人物であり、エリヤは旧約の預言者を代表する人物です。イエス様はこの旧約の約束の成就として来られたメシヤです。彼らは何を話し合っていたのでしょうか。ルカの福音書9:31によれば、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後、受難(死)について話していました。旧約の律法と預言者とが、イエスにより完成し、成就したことを示しています。
どうして、光り輝く神の栄光の姿を弟子たちに見せられたのでしょうか?
イエスの死は近づいていました。そのため、これまでイエスは、ペテロの信仰告白(16:16)「あなたは、生ける神の御子キリストです。」からこの時に至るまで、ご自身がキリストであることと、十字架の死が自分の使命であることを弟子たちに伝えてきました。しかし、弟子たちはメシヤであるイエスが、十字架にかかられることなど想像もしていなかったのです。ですから、彼らが後につまずくことがないようにと、あらかじめ栄光の姿を示されたのです。ご自身の栄光に輝く姿を見せることによって、又モーセとエリヤとの話し合う姿を表すことによって、イエスが旧約聖書全体で証言されているキリストであり、そして十字架の死が神の御心であること、自分の使命であることを、弟子たちに示そうとされたのです。
Ⅱ:受難のしもべイエス
(4)「すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』」
ペテロはこのような出来事を目の当たりにし、この状態がいつまでも続いてほしいと思ったことでしょう。しかし驚き動転し、自分で何を言っているのかよくわからなかったようです。
ペテロは三人のために、幕をはりめぐらした住むための小屋を造ると言いました。モーセもエリヤも栄光の体をもって現われているので、住むための小屋を必要としません。また、彼は三人を同等に見ていました。モーセとエリヤは旧約時代の偉人でしたが、イエスと対等ではありません。イエスは彼らの主です。そして最も大きな過ちは、彼が立ち去ろうとするモーセとエリヤを引き留めようとしたことです。「私たちがここにいることは、すばらしいことです。」というのは、言いかえれば、もう山を降りて行かず、この天国のような所に居続けたいということに他なりません。それは、イエスが十字架にかからないで、ここにずっと栄光のまま留まらせることになるからです。ペテロは依然として、イエスがメシヤ(救い主)であること、十字架にかかり復活されるメシヤだと理解することができませんでした。するとペテロが話し終えないうちに、間違いを正すかのように、雲の中から声が聞こえてきました。
(5)「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」
輝く雲は神様の臨在を表わしています。イエス様がバプテスマを受けた時と同じことばが天から告げられました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」このことばは、王としてのメシヤ像と、苦難のしもべとしてのメシヤ像とを結び合わせたことばです。旧約において預言された、「王」と「しもべ」という全く対照的なメシヤの姿がここで一つに結び合わされています。
しかも、ここでは、「彼の言うことを聞きなさい」ということばが付け加えられています。ペテロたちに、このメシヤにこそ聞き従わなければならないと言われたのです。受難も十字架もなしのメシヤではありません。受難と十字架の後に栄光に入るメシヤこそ、私たちが聞き従うメシヤであり、そのようなメシヤを神もまた「わたしの愛する子、わたしは喜ぶ」と言われるのです。
先日、説教黙想セミナーに参加しましたが、裾野にありますマリヤ修道院という場所で行われました。富士山の裾野で、茶畑があり、豊かな自然の中にその施設はありました。その広大な敷地の中に、「十字架の道行(みちゆき)」という、人となられたイエス・キリストの死刑宣告から始まり、受難と死、埋葬、復活までをたどることができるように、道が15カ所(留)ありました。時間が限られていたので少ししか歩くことはできませんでしたが、キリストの歩まれた道を黙想しながら実際歩くことができるようになっていました。神であるお方が人となり受難の道を歩まれました。この受難節の時、イエス様が歩まれた十字架の道を黙想し心に留めてまいりましょう。
Ⅲ:なぜ神が人となられたのか(9~13)
弟子たちは、この声を聞くと、非常にこわがり、顔を地面につけてひれ伏しました。
(7~8)「すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない。』と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
目を上げて見ると、元の姿に戻ったイエスさまお一人だけで、他の二人はいませんでした。そしてイエスは恐れる弟子たちに手を置いて「起きなさい。こわがることはない。」とやさしく語りかけました。イエスのみことばと御手は、私たちを起こし、恐れを取り除かれます。イエスが弟子たちに手を置いた例は他にはありません。この箇所だけです。イエスは私たちにも手を置いて励ましてくださるのです。十字架の道を進んでいかれる、人となられたお方が、恐れて地にひれ伏す者に、「起きなさい。こわがることはない。」と語られ、そして再び立たせてくだるのです。
イエスは栄光の姿にとどまるのではなく、山を降りて十字架への道へと歩まれました。イエス様は山の上で栄光の姿を現し、その本来の姿でい続けることもできたはずです。しかしイエス様はそうはしませんでした。山を降りて、人の姿をとり、十字架の道へと進まれたのです。
なぜ、神が人となられたのでしょうか?それは、私たち救いのためです。罪から救われ、天国へと招き入れるためです。山から降りずに、栄光の姿を通してご自身を表すこともできたことでしょう。しかしイエスは山から降りて、罪人である私たちの所まで降りてくださったのです。神は私たちを愛し、人々を救うために、一人子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。神は私たちから遠く離れて、遠くから見ているお方ではありません。私たちと同じ人の姿をとられ、私たちと共に歩んでくださるのです。
(へブル4:15)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
イエス様は私たちと同じ所まで降りてくださり、人が経験する悲しみ、苦しみや恐れなどを同じように経験されました。それゆえ、イエス様は私たちの悲しみを見て涙を流し、悩み、苦しみを理解してくださいます。そのようなお方が私たちと共にいてくだいます。人の姿に戻り、十字架の苦難の道を進むイエス様は、地面に顔を伏している者に手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と語り、再び起こしてくださるのです。
Ⅰ:栄光に輝くイエス
(1)「それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。」
この山というのは、ガリラヤ湖から南西20キロほどにあるタボル山とも、ピリポ・カイザリヤの北にある海抜2800m近いヘルモン山とも言われています。特定することはできません。主は弟子たちの中でこの3人だけを連れて山に登られました。この三人は弟子の中でも特別だったようです。また、この三人だけに示したことは、この事柄が重大なことであることを表しています。
(2)「そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。」
イエス様の姿が変わりました。この輝きは、イエスの復活のからだ、昇天して神の右の座に着座されるときの栄光の姿を示しています。キリストの再臨の時のかたちはまさにこのような姿でしょう。神の子なるイエス様の本来の姿を表されたのです。弟子たちは姿変わりしたイエス様を見て本当に驚いたことでしょう。並行箇所では(マルコ9:6)「彼らは恐怖に打たれたのであった」と説明しています。「姿が変わり」(メタモルフォオマイ)ということばは、一つの状態からもう一つの状態に変わることを意味します。青虫を見たことがあるでしょう。気持ち悪いと思う人もいるかもしれません。しかし、青虫は、さなぎになり、青虫からは想像もつかないきれいな蝶になります。姿が変わるとは、このように全く別の姿に変わることです。主イエスは、神の神々しさ、光り輝く栄光の姿に変わられました。
(3)「しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。」
モーセとエリヤが現われてイエスと一緒に話し合っていました。二人とも旧約を代表する人物です。モーセは旧約の律法を代表する人物であり、エリヤは旧約の預言者を代表する人物です。イエス様はこの旧約の約束の成就として来られたメシヤです。彼らは何を話し合っていたのでしょうか。ルカの福音書9:31によれば、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後、受難(死)について話していました。旧約の律法と預言者とが、イエスにより完成し、成就したことを示しています。
どうして、光り輝く神の栄光の姿を弟子たちに見せられたのでしょうか?
イエスの死は近づいていました。そのため、これまでイエスは、ペテロの信仰告白(16:16)「あなたは、生ける神の御子キリストです。」からこの時に至るまで、ご自身がキリストであることと、十字架の死が自分の使命であることを弟子たちに伝えてきました。しかし、弟子たちはメシヤであるイエスが、十字架にかかられることなど想像もしていなかったのです。ですから、彼らが後につまずくことがないようにと、あらかじめ栄光の姿を示されたのです。ご自身の栄光に輝く姿を見せることによって、又モーセとエリヤとの話し合う姿を表すことによって、イエスが旧約聖書全体で証言されているキリストであり、そして十字架の死が神の御心であること、自分の使命であることを、弟子たちに示そうとされたのです。
Ⅱ:受難のしもべイエス
(4)「すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、よろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。』」
ペテロはこのような出来事を目の当たりにし、この状態がいつまでも続いてほしいと思ったことでしょう。しかし驚き動転し、自分で何を言っているのかよくわからなかったようです。
ペテロは三人のために、幕をはりめぐらした住むための小屋を造ると言いました。モーセもエリヤも栄光の体をもって現われているので、住むための小屋を必要としません。また、彼は三人を同等に見ていました。モーセとエリヤは旧約時代の偉人でしたが、イエスと対等ではありません。イエスは彼らの主です。そして最も大きな過ちは、彼が立ち去ろうとするモーセとエリヤを引き留めようとしたことです。「私たちがここにいることは、すばらしいことです。」というのは、言いかえれば、もう山を降りて行かず、この天国のような所に居続けたいということに他なりません。それは、イエスが十字架にかからないで、ここにずっと栄光のまま留まらせることになるからです。ペテロは依然として、イエスがメシヤ(救い主)であること、十字架にかかり復活されるメシヤだと理解することができませんでした。するとペテロが話し終えないうちに、間違いを正すかのように、雲の中から声が聞こえてきました。
(5)「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。」
輝く雲は神様の臨在を表わしています。イエス様がバプテスマを受けた時と同じことばが天から告げられました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」このことばは、王としてのメシヤ像と、苦難のしもべとしてのメシヤ像とを結び合わせたことばです。旧約において預言された、「王」と「しもべ」という全く対照的なメシヤの姿がここで一つに結び合わされています。
しかも、ここでは、「彼の言うことを聞きなさい」ということばが付け加えられています。ペテロたちに、このメシヤにこそ聞き従わなければならないと言われたのです。受難も十字架もなしのメシヤではありません。受難と十字架の後に栄光に入るメシヤこそ、私たちが聞き従うメシヤであり、そのようなメシヤを神もまた「わたしの愛する子、わたしは喜ぶ」と言われるのです。
先日、説教黙想セミナーに参加しましたが、裾野にありますマリヤ修道院という場所で行われました。富士山の裾野で、茶畑があり、豊かな自然の中にその施設はありました。その広大な敷地の中に、「十字架の道行(みちゆき)」という、人となられたイエス・キリストの死刑宣告から始まり、受難と死、埋葬、復活までをたどることができるように、道が15カ所(留)ありました。時間が限られていたので少ししか歩くことはできませんでしたが、キリストの歩まれた道を黙想しながら実際歩くことができるようになっていました。神であるお方が人となり受難の道を歩まれました。この受難節の時、イエス様が歩まれた十字架の道を黙想し心に留めてまいりましょう。
Ⅲ:なぜ神が人となられたのか(9~13)
弟子たちは、この声を聞くと、非常にこわがり、顔を地面につけてひれ伏しました。
(7~8)「すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、『起きなさい。こわがることはない。』と言われた。それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」
目を上げて見ると、元の姿に戻ったイエスさまお一人だけで、他の二人はいませんでした。そしてイエスは恐れる弟子たちに手を置いて「起きなさい。こわがることはない。」とやさしく語りかけました。イエスのみことばと御手は、私たちを起こし、恐れを取り除かれます。イエスが弟子たちに手を置いた例は他にはありません。この箇所だけです。イエスは私たちにも手を置いて励ましてくださるのです。十字架の道を進んでいかれる、人となられたお方が、恐れて地にひれ伏す者に、「起きなさい。こわがることはない。」と語られ、そして再び立たせてくだるのです。
イエスは栄光の姿にとどまるのではなく、山を降りて十字架への道へと歩まれました。イエス様は山の上で栄光の姿を現し、その本来の姿でい続けることもできたはずです。しかしイエス様はそうはしませんでした。山を降りて、人の姿をとり、十字架の道へと進まれたのです。
なぜ、神が人となられたのでしょうか?それは、私たち救いのためです。罪から救われ、天国へと招き入れるためです。山から降りずに、栄光の姿を通してご自身を表すこともできたことでしょう。しかしイエスは山から降りて、罪人である私たちの所まで降りてくださったのです。神は私たちを愛し、人々を救うために、一人子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。神は私たちから遠く離れて、遠くから見ているお方ではありません。私たちと同じ人の姿をとられ、私たちと共に歩んでくださるのです。
(へブル4:15)「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」
イエス様は私たちと同じ所まで降りてくださり、人が経験する悲しみ、苦しみや恐れなどを同じように経験されました。それゆえ、イエス様は私たちの悲しみを見て涙を流し、悩み、苦しみを理解してくださいます。そのようなお方が私たちと共にいてくだいます。人の姿に戻り、十字架の苦難の道を進むイエス様は、地面に顔を伏している者に手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と語り、再び起こしてくださるのです。
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