“子ども”を取り巻く諸問題

育児・親子・家族・発達障害・・・気になる情報を書き留めました(本棚4)。

「親子という病」by 香山リカ

2010年03月18日 16時52分47秒 | 家族
講談社現代新書(2008年発行)

前回に続き、もう1冊香山さんの著作を読んでみました。
タイトルからしてちょっと引いてしまいますね。
内容も「親子という関係自体が既に病的である」という設定で展開していき、ちょっとやりきれない気分になりました。

最近の親子に関係したできごとに焦点を当て、それを学説に当てはめるという「ガクモン」的手法。
取り上げられた事例は・・・

・「家族の愛」ブーム:「家族は恋人」「生んでくれてありがとう」など、家族間の愛を歌うCDが売れている。

・家族内殺人事件・無差別殺傷事件:近年多発しています。少年・少女が加害者になった例を、彼・彼女のコメントと共に例示します。

■ 森安秀光九段殺害事件(1993年、加害者である息子は12歳)
「パパが死んだのはぼくのせいやない。学校を休んだことでガチャガチャ言うからこうなったんや。あんなに叱られては僕の立場がない。逃げ場がないんや!」

■ 管理人室爆発事件(2005年、両親を刺殺した加害者である息子は15歳)
「父親が僕を馬鹿にしたので殺してやろうと思った。父親に頭を押さえつけられ、『頭が悪い』と言われていた。ゲーム機を壊された。母はいつもハードな仕事をしていてかわいそうだった。母が死にたいと言っていたので殺した。」

■ 京都府警巡査部長殺害事件(2007年、加害者である次女は16歳)
「父親の異性関係が許せなかった。数年前から殺そうと計画していた。」

■ 製薬会社員殺害事件(2008年、加害者である長女は15歳)
 近所では仲の良い家族と評判だったそうですが・・・。
「父とは『勉強しなさい』『はい』という会話しかなかった。」

■ 秋葉原無差別殺傷事件(2008年、20代男性が公道で不特定多数の他人に切りつけた)
「親が周りに自分の息子を自慢したいから、完璧に仕上げたわけだ。俺が書いた作文とかは全部親の検閲が入ってたっけ。中学のなった頃には捨てられた。より優秀な弟に両親は鞍替えした。」

→ このコメントに対して香山氏は「若干の問題は認められるが、どこの家庭でにも見られる範囲もの」と記しています。

 私はこの意見に同意できません。
 親が自分の人生で達成できなかったことを子どもに託して実現しようとする・・・その不条理な期待が子どもを追い詰めていることが全ての問題の根っこだと考えるからです。
 香山氏の学説をこねくり回す推論よりも、相田みつを氏・佐々木正人先生共著の『育てたように子は育つ』という本の中に真実があるように思います。そこには以下のような言葉がちりばめられています;

「愛らしい子どもは、愛されているから愛らしい」
「かわいい子どもは、可愛がられているからかわいい」
「子どもらしい子は、子どもらしく扱われているから・・・」
「命を大切にする子どもは、命を大切にされてきたから・・・」

 親の背中を見て子どもは育つ、とは云い古された言葉ですが、その真意は「言葉ではなく行動で教える」ことです。子どもは大人の真似をして成長していきます。決して「こうしなさい」「ああしなさい」「これはダメ!」という言葉では動きません。親がそのような言葉を口にするのは、自分がそれをできていないことの裏返しのことが多いと思います(自分を含めて)。

 殺人事件の加害者となった子ども達は「命の大切さ」を教えられていない、つまり「命を大切にされてこなかった」ということです。殺人事件を起こせば自分の人生もそこで終わりと薄々わかっていてもそれさえブレーキにはならないレベルまで追い詰められていたと思われます。
 思春期に非行へ走る少年少女に「自分を大切にしなさい」と安易に諭す場面がドラマでよく登場しますが、ずっと大切にされてこなかったからそうなったのです。アドバイスひとつで解決するはずがありません。

 「命の大切さを教えない」方法は物理的な虐待だけではありません。これが誤解の元です。
 子どもに過剰な期待をして縛り付けて自由を奪うことが、人間としての自立を妨げていることをもっと強調し啓蒙すべきでしょう。

 拒食症も命に関わる病です。その病気の女児が「食べないことはお母さんへの復讐」とつぶやいた、という手記を読んだことがあります。その根底は「私の命を大切にしてくれなかった」と感じていた幼児期があるのでしょう。

 香山氏の論説は、事件・現象を後付けの理論で分析する傾向があります。
 問題の源流に対する詰めが甘いと感じました。
 解決方法に辿り着くには、もっと多く乳幼児を診る必要があると思います。

■ 八王子無差別殺傷事件(2008年、33歳の男性が加害者)
「仕事のことで相談に乗ってもらおうと思ったが、両親から相手にしてもらえなかった。親を困らせようと思って事件を思いついた。」
 つまり彼は捨て身の方法で、母親に「これでも愛してくれるのか」と試したのだ。

・・・幼児がダダをこねるのと同じ理由ですね。人前でいたづらしたり大泣きして親を困らせますが、「僕に優しくするのはウソじゃないよね? こんなことしても怒らないで僕を愛してくれる?」という投げかけです。


さて、いくつかの学説・概念が出てきますので、整理がてら列挙してみます;

■ エディプス・コンプレックス
 フロイトが用い始めた精神分析の中核的な概念のひとつ。
「異性の親に対する愛着、同性の親への敵意およびそのために処罰されるのではないかという不安(去勢不安)の3点を中心として発展した観念複合体のこと。とくに男児の場合に限ってエディプス・コンプレックスと呼ぶことがある。」

■ ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)
 親が顔をしかめるような黒ずくめの服を着て、ドクロやサソリなどのアクセサリーをぶら下げたゴスロリ・ファッションで街を闊歩する少女たち・・・。
 「ある種の憧憬、あるいは意識のあり方なので、それを定義することは困難ですが、多くの場合そこに共通するのは、死・病・苦痛・恐怖・残酷・怪奇・野蛮・暗黒・退廃・異端・耽美等々への志向です。それを裏返してみるならば、失われた純血と無垢への愛、あるいは歪んだナルシシズムと云えなくもありません。そしてその根底には、精神と肉体の間の果てしない葛藤があります。」
 常に完璧なゴスロリ・ファッションを身にまとう作家の雨宮処凜(かりん)氏は「ゴスロリは自分にとって武装だ」と語った。

■ アダルト・チルドレン
 1990年代にブームになりました。第一人者である原宿カウンセリングセンター所長の信田さよ子氏による定義は;
「現在の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」
 香山氏の記述;信田氏自身は当時、自分の生きづらさの原因や責任が自分自身にではなく親にあることに気づいた人が、本当に必要な「自分の負うべき責任」に目覚められるために、という目的で積極的にこの概念を広げようとしたのだそうだ。ところが、信田氏の目論見に反して「私が悪いんじゃない、親が悪いんだ」と自分を棚に上げて親を責めるところでストップする人が続出し、またマスコミもそのような例ばかりを取り上げた。

■ あなた(親)を選んで生まれてきました
 なぜこの世に生まれてきたのか・・・答えのない永遠の疑問。ひねりを加えた回答が「あなた自身が選んだから」です。
「親が愛してくれているかいないかにかかわらず、自分で親を選んだ責任上、親を愛し感謝しなければならない」という論法。
 親との関係に悩み、出生の問題にまで立ち返っても親の愛が証明できずに苦しむくらいなら、いっそのこと、自分が親を選んで生まれたと思った方が納得がいくのでしょう。

■ 阿闍世コンプレックス
 日本の精神分析の祖と云われる古沢平作氏が創唱し、小此木啓吾氏が広く流布させた概念。
「インド王子の物語にみられる、母の完全な愛に対する期待と、それが裏切られたときの怒り、そして許しの感情」

■ 母性愛神話のウソ
 「太古の昔から親となった女性は母性愛で溢れている」などという考えは、近代以降、家制度を存続させるためにねつ造された概念である」と多くの社会学者が主張している。

・・・そうなんですか。ちょっと悲しい主張ですね。
 私は小児科医なので、日々病気の子どもを抱えたお母さんと対峙していますが、お母さんと子どもが一体化した「母子オーラ」を時々感じます。笑う子ども・泣く子どもを可愛くて仕方ない・心配で仕方ないと抱きしめるお母さん・・・幸せがこちらにもおすそ分けされたような感覚になるのです。
 「母性愛は幻想」とやっきになって否定することはないと思うのですが・・・。

■ 親子という病?
 香山氏の結論;「結局のところ、完全に健全な親子関係などありえないのだ。もっと云えば、あらゆる親子関係は病的なのだ。しかもそれは、子が生まれたときから始まり、永遠に治療不可能な病なのである。」

・・・繰り返しますが、悲しい結論です。

 動物の親子も「病」なのでしょうか?
 そこにヒントが隠されていると思います。
 哺乳類レベルの動物の親子は、子どもが生まれて独り立ちするまではしっかり面倒を見て、自活できるようになると送り出し、その後は一切関与せず、というパターンが多いと思われます。
 人間はこの自然なこと・本能的なことができなくなってしまいました。

 子どもを支配し自立を阻んでしまう親。
 幼児期に「安心」を与えずに「不安」を植え付けてしまう現代社会。
 そういう意味では「病的」かもしれませんね。

 解決策はあるでしょうか?
 現状ではますます悪い方へ向かっているような気がします。


「ニッポンの母の肖像」by 香山リカ

2010年03月11日 06時48分20秒 | 母親・女性学
NHK-TV 知る楽シリーズ、2009年12月~2010年1月の火曜日コース「歴史は眠らない」のひとつ。
番組は見てませんが、タイトルが気になり本を購入して読みました。

筆者(演者)は精神科医師であり、著作も多い売れっ子作家でもあります。
1960年生まれというと、私の3つ年上・・・あまり変わらないんですね。
現在の肩書きは「立教大学現代心理学部映像身体学科教授」だそうです。

目次を見ると大体の内容がわかります;
前書き:子育ては母親の仕事でしょうか?
第一回:大江戸子育て事情
第二回:”良妻賢母”の光と影
第三回:孤立する教育ママ
第四回:”3歳児神話”の呪縛

というわけで「子育てを母親に押しつけないで!」という論調です。
この手の文章は最近よく見かけますが、「では理想の子育てとは?」との問いに答えを用意しているモノはほとんどありません。

香山さんの答えは・・・以下のような文章を見つけました;
「母と子が『それぞれが個として生きる』というのはかなり困難なことなのかもしれません。しかし、結局はそこにしか答えを見いだすことはできないようです。」
なるほど。

日本の子育ての責任が母親にのしかかってきたのは明治以降で、それまでは父親が責任を持っていたと分析しています。
ここでちょっと「?」
子どもに「安心感」や「生きていることの充実感」を与える子育てと、「教育」する子育てがごっちゃになっています・・・残念。

今不足しているのは「生きるって素晴らしい」と自分に自信を持たせる子育てであり、社会のルールを教える子育てではありません。
簡単に云うと「母の柔らかい胸に抱かれた安心感」・・・そう、マリア像ですね。

香山さんは歴史上事実、あるいは学説を交えながら「子育てを母親がする必要はない」と論説しています。

通読して、個々の内容は納得できることばかりでした。
ただ、気になったのは「女性から」「母親から」の視線で話が進められていること。

「子どもから」の視線が乏しいのです。

もちろん、母親が女性として充実した人生を送ることは育児上とても良いことです。楽しそうな母親の表情を見ていると、側で見ている子どももうれしくなることでしょう。
でも、母親が家の外で充実した仕事をしていても、疲れて帰ってきて子どもと喜びを分かち合えないのが悲しい現実。

明治以降、父親は殖産興業・富国強兵目的で労働力として家庭から奪われてしまいました。
間違いの始まりはココです。
母親は子育ての重責を担うに至り、さらに核家族化が進んで孤立し、耐えきれなくなってきました。

何とかせねばなりません。

母親の社会進出も時代の流れだとは思いますが、置き去りにされた子どもはどうすればよいのでしょう。
満たされない、寂しい心を一生抱えながら人生を送ることになります。
するといろんな精神的ストレスにもろく、幼少期から青年期に発生する諸問題と深く関わってきます。
現代社会の抱える大きな問題です。

母親の社会進出と平行して、子育ての担い手を家庭に用意する周到な準備が必要です。
他人に委託するのはいろんな意味で危険。
方向としては、周囲を巻き込む方法を模索した方が安全と思われます。

当然、父親も子育てを担う必要があります。
しかし、私には父親が母親の代わりをできるとは思えません。残念ながらマリア像の安心感を子どもに与えることは無理です(経験上)。
父親の役回りは、母親が笑顔でいられるようサポートすることではないでしょうか。
お母さんに抱かれて、それをお父さんが見守って・・・というのは理想論?

いずれにしても、父親を家庭に取り戻す努力が必要です。
準備として、残業禁止、夜間も働くなら交代制を義務づける、などの国としての配慮がなければ進みません。
そんな政策を打ち出した政府が今まであったでしょうか?
手詰まりです。