日々雑感

読んだ本やネット記事の感想、頭に浮かんでは消える物事をつらつら綴りました(本棚7)。

「SF魂」by 小松左京

2011-07-31 20:18:46 | エッセイ
 2006年、新潮社発行。

 2011年7月26日、SF小説家の小松左京氏が亡くなりました。まさに「知の巨星、落つ」です。
 小松左京は筒井康隆眉村卓とともに「御三家」と呼ばれたSF作家。「日本沈没」「さよならジュピター」「復活の日」は映画化されましたのでご存じの方が多いと思われますが、一方、大阪万博や花博のプロデュースも手がけた多彩な才能の持ち主です。
 SF少年だった私は高校生時代に彼の作品を読み耽りましたが、作品のスケールの大きさは随一で「この人の頭の中はどうなっているんだろう?」と驚かされてばかりいました。

 一番記憶に残っているのが「廃墟の彼方」(おぼろげな記憶ですが)という小品。
 「友達と遊んでいてふと迷い込んだトンネルのから抜け出ると、そこには赤茶けた廃墟が一面に広がっていた」・・・この展開に背筋がゾクゾクするほど興奮しました。人の脳のヒダに隠れている琴線を狙い撃ちするようなアイディア群に脱帽することしきり。

 さて、表題の本は小松左京の自伝的エッセイです。
 京都大学出身ですが、彼のキャリアは同門の先輩・同輩・後輩達との縁が強く、京都大学の「知」の特徴を文系とか理系といった二分法では括りきれない「学際的な知」「総合的な知」と表現しています。専門分野を持ちながらも混じり合って複合的な成果を残す・・・よい例が生物生態学が専門の梅沢忠夫さんが文化人類学を内包して国立民族博物館を設立したことが挙げられます。

 小松左京自身、専攻はイタリア文学ですが、その読書量は半端でなく、入学前から新潮社の世界文学全集や名だたる海外の書籍を読破していたのでした。
 彼が生業としてSF作家を選んだのは、日本の戦争の終わり方がどうにも腑に落ちず、自分の中で総括して表現するにはSFという手法を借りるのが一番合っていたからと説明しています。
 沖縄戦、原爆投下で終わった太平洋戦争・・・しかし本土決戦になったらどうなっていただろう・・・それをシミュレーションして描けるのは科学論文ではなく、純文学でもなく、思考実験が可能なSF小説のみだった、と。

 また、各作品が生まれた背景が記されていて興味深く読みました。また、親交のあった同時代のSF作家達との意外なエピソードも楽しく読ませていただきました。

 彼の本質は「思想家」であったと感じます。SF作家としての顔は、その一面に過ぎません。ある評論家が「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と表現したそうですが、言い得て妙。彼は宇宙の中の生命・人類とは何かを思想し続け、かつそのベクトルは常に未来を向いていました。

<メモ>
 ・・・目にとまった文言を写しておきます。

■ 少年ながらに痛感したのが、科学技術の進歩と恐ろしさ。1903年にライト兄弟が飛行機で飛び、1905年にアインシュタインが相対性理論を発表し、そのわずか40年後には日本に原子爆弾が落とされた。これは大変なことになった。科学は何を造り出すかわからない。科学を制御できなければ人類は滅びてしまうぞ、と。そういう思いがあったから「復活の日」も書いたのだと思う。

■ 中学3年生の時、軽音楽部をつくって学校でジャズ演奏をした。後に俳優になる高島忠夫と「レッド・キャッツ」というジャズバンドを組んだ。高島がギター、僕はバイオリンを担当した。

■ 影響を受けた書物:ダンテの「神曲」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー全集は2ヶ月で読破)、サルトルの「嘔吐」、エドムント・ラッサールの「純粋現象学」、花田清輝の「復興期の精神」、埴谷雄高の「死霊」(高橋和巳と徹夜で議論)
 つまらないと思った書物:志賀直哉の「暗夜行路」

■ (京都大学の同期生である高橋和巳との親交)
 この頃に高橋と知り合っていたのは、僕にとっても救いだった。政治や党派性の波にもまれて、戦争の時のように「自分」というものがまた抹殺されそうになり、そこから抜け出すためにはどうしても文学が必要だった。
 「悲の器」という高橋の作品は彼の愚痴みたいなものだと思ったが、「邪宗門」(1966年)は小説としてよくまとまっている。これは僕の「日本アパッチ族」(1964年)の方法を意識しているのは間違いない。「アパッチのやり方をパクったな」と言ったら「ばれたか」と笑っていた。

■ 実は京都大学の学生時代にモリ・ミノルというペンネームで、すでにマンガの単行本を3冊出していた。「僕らの地球」「イワンの馬鹿」「大地底海」という漫画で、いずれも大阪の貸本屋系の版元から出したもの。

 ・・・モリ・ミノルのファンの一人に松本零時さんがいました。

■ 早川書房の「SFマガジン」での第一回SFコンテスト(1960年)で努力賞を受賞(安部公房さんが評価してくれたのがうれしかった)。その時は入選なし、佳作が3人で、その中に眉村卓と豊田有恒がいた。翌第二回では「お茶漬けの味」で入選した。

■ 自ら生み出した文明によって翻弄される人類。その認識を持つことからしか、理性やモラルの回復は始まらないという思いが僕にはあった。原子爆弾の造られ方、使われ方を見ても、科学は常に「悪魔の科学」になる危険性をはらむ。我々人類は、常にその縁に立っていることを自覚しなければならない。

■ (1963年「日本SF作家クラブ」結成に際して)
 僕にとってのSF作家クラブは、SFを語り合ったり、バカ話のできる仲間に会える場であり、楽しくて仕方がなかった。特に星新一さんの存在は大きくて、世の中にこんなにおかしな人がいるのかと思ったくらいだ。
 有名なエピソードは東海村の日本原子力研究所に視察に行ったときの話。係の人が出てきて「何からお見せしましょうか」というと、星さんが「まず原子というものを見せてください。この目で見ないと信用できない。」みんなで大受け。星さんの不思議な存在感が、初期の日本SF界の雰囲気を作っていったような気がする。

■ (1970年、日本で行われた「国際SFシンポジウム」に際して)
 イギリスからブライアン・オールディスアーサー・C・クラーク、米国からフレデリック・ホール。アイザック・アシモフにも声をかけたのだが、アシモフは飛行機にも舟にも乗れないということで断られた(「ロボット三原則」作成者の意外な一面!)。アーサー・C・クラーク氏は冗談ばかり言って、SF作家はどこの国でも同じような人たちなんだと感心した。

 ・・・アーサー・C・クラーク氏は「2001年宇宙の旅」の原作者です。

■ 政治家達も「日本沈没」を結構読んでいた。福田赳夫氏が早くから読んでくれていたらしい。当時首相だった田中角栄氏も、ホテル・ニューオータニですれ違ったら「あ、小松君か」と向こうから声をかけてきた。「君とはいっぺんゆっくり話したい。今度時間を作ってくれ。」と。そんなことを言っているうちに、田中首相は翌年、金脈問題で失脚してしまったが。


・・・そして最後に、彼の人類に対する遺言とさえ聞こえる文章を;

 「今の世界を見ていると、宗教とか民族とか、それぞれの歴史的なアイデンティティに搦め捕られすぎているように思う。それは世界のどの地域でも必ずあるけれども、内包しながら超えていく方法を見つけなければいけない。つまり各自のアイデンティティを建てたまま乗り越えていく、それを支えるような学問のフレームが必要なのだと思う。
 それが何かと言えば、やはりナチュラル・ヒストリー、生物の発生から始まる地球史であり、それをバックグラウンドにした人類社会史、情報進化史といったものなのではないか。それぞれの人間が「地球に発生した生物の一固体」という認識に立って知性を結集していかない限り、戦争も環境問題も貧困も飢饉も何一つ解決できないであろう。」


 天国で待っている星新一さんと、またバカ話を楽しんでください。
 ー合掌ー


「75歳のエベレスト」by 三浦雄一郎

2011-06-07 06:48:49 | エッセイ
 2008年発行、日経プレミアシリーズ。

 ご存じ、プロスキーヤー&冒険家の三浦雄一郎さんのエッセイ集です。
 この本を読むきっかけは、某TV番組で三浦さんが私と同じ不整脈という病気を抱えている事実を知ったこと。
 私が発作の不安に萎縮して生活している時、三浦さんはなんと75歳という年齢でエベレスト盗聴に成功したのでした。その勇気にあやかりたい・・・と考え手にとった次第です。

 彼の破天荒な人生がぎゅっと詰まったエッセイ集でした。
 社会の組織に収まらず(はみ出した?)、我が道を行く三浦さん。
 学校という枠さえ嫌で、自然の中で駆け回る事の方が大好きだった少年時代。
 大人になって成し遂げた冒険スキーの数々。
 一言で云えば誰もマネができない”武勇伝”ですね。

 70歳と75歳でエベレスト登頂を果たした偉業は言わずもがなですが、それより驚いたのは1970年のスキーによるエベレスト滑降。高度差1000m、平均斜度45度(!?)を滑り降りたというのですから命知らずにも程があります。ふつう、斜度30度でも直角に降りるような感触出るから、45度って・・・真下に落ちていく感じ?

 それから、青森県に住んでいた頃のエピソードも楽しく読ませていただきました。
 青森市と弘前市の学生の気質の違い(港町のやんちゃとおっとり気質)、酸ヶ湯温泉の混浴風呂などなど。

 気になった病気の記述を抜き出しておきます。

■ (75歳のエベレストチャレンジの際)・・・高度4000mあたりでは心臓の不整脈や高山病でひどい目にあったが、上に行くほど不思議に元気になった・・・僕は6000mで心房細動が慢性化し、もはや薬物治療では対応できず、7000mで断念した。
 2人の主治医の意見は「心臓に不整脈があっても血液凝固を防ぐワーファリンとバイアスピリンを服用すれば運動も可能だ」ただし、ヒマラヤのような高所に登るという例は今までない。
 一方、別の専門医には「もう山登りもスキーもやめなさい。そうすれば長生きできる。三浦さん、心房細動の手術をしても治る可能性は少ない」と引退を勧められた。


■ (土浦協同病院でのカテーテル・アブレーションについて)2006年12月、手術を行った。心臓に特殊なカテーテルを入れて高周波を流し、カテーテル先端の温度をコントロールして心臓内の電気が漏電している場所を見つけて、いわゆる”低温やけど”をつくることにより不整脈を根治する、という説明を受けた。
 普通はカテーテルと心臓との接触温度は50~70℃で焼いている。ところが「土浦方式」は48~55℃で焼く。48℃というのは人間の筋肉のタンパク質がちょうど変性するかしないかのところで、うまくいくと心臓の周りにある肺や食道にやけどの傷を全くつけることなく間然し漏電箇所から絶縁することができる。ただし、完全にタンパク質が変性しないとまた心臓に電気が漏れ出すという。
 術後の経過が好調であった2007年4月、自信を持ってヒマラヤのアイランドピークに遠征した。しかし、4000m付近で突然不整脈が始まった。
 1回手術しても、まだいくつか心臓内に漏電している。しかし、ドクターには「やっぱりあそこに残っていた。ここもだ。」と問題の部分がわかる。心房細動に関係する電気の漏電部位を見つけて、その部分にだけ電気を流せば心房細動は根治できる。二度目は同然やるものだと先生方も言う(2007年6月再手術)


 ・・・その後もトレーニング中に不整脈が出ており、結局2回手術しても心房細動は消えなかったようですね。でも、「不整脈もなんのその」という不屈の精神には頭が下がります。

 一つ難を言わせてもらえば「文章がわかりにくい」。
 主語が省略されており、かつ場面や人物がいつの間にか入れ替わるので、話が見えない。特に前半は三浦さん本人とお父さんとおじさんと息子のエピソードが入れ替わり立ち替わり出てくるので混乱しました。
 まあ、物書きではないからこんなものですか・・・。

「なにも願わない 手を合わせる」by 藤原新也

2011-01-29 07:16:47 | エッセイ

(ネット上で見つけた「深浦の垂乳根銀杏」)

文春文庫、2006年発行

~解説文より~
 肉親が他界するたびに四国巡りをする。そんな著者が壮絶な兄の最期に立ち会い、波立つ心を抱えて訪れた三度目の四国への旅は…。薬王寺の境内に立つ地蔵菩薩に兄の顔が重なり、三十六番札所の青龍寺で祈る幼女の姿に「無心」の境地をみる。愛する者の死をどう受け入れるか、いかに祈るのか。足取りを記した四国巡礼地図付き。
 「メメント・モリ」から20年。これまであらゆる祈りを拒否し続けてきた著者が、愛するものの死をへてたどりついたもの。それは、なにも願わない。ただ、手を合わせる。人の死と別れを描いた写文集。



 エキセントリックな印象のある藤原新也さん。私には、どうも歌舞伎で云う「外連(ケレン)」のイメージがつきまとい、遠ざけていた作家の一人です。

 でも、四国巡礼に関するエッセイ中心のこの本は違いました。
 まず、表紙の苔生したお地蔵さんの顔が何とも云えず微笑ましい。
 世界中を旅していろんなことを経験した後、家族の死に直面してやはりこの人も自分の足元にある「日本」に落ち着いたんだな、と感じた次第です。

 それでも「何か読者にインパクトを与えたい」という作家根性が見え隠れし、肩に力の入った文章が多いですね。ちょっと疲れます。

以下、印象に残った箇所を抜粋します;

「まなざしの聖杯」
 ・・・私はブラウン管の中で迷子の少女に遭遇した。彼女は拒食症のために痩せこけ病院のベッドに臥せっていた。少女は母親が病室に入ってくると、その痩せた体のどこから出るのかと思うような野獣のような金切り声で母親に出て行けと叫び散らす。
 ああ、この子もまた「まなざしの聖杯」を受けていない子なんだなと私は思う。聖杯としてのまなざし、つまり掛け値のない無償の愛のまなざしというものはかつて本来母親が子に与えるべきものでもあった。子どもとは母親のまなざしの聖杯によって自己同一性の安寧を得つつ生長するものなのだ。そしてそのまなざしの聖杯を受けることによって子どもは家庭の外に置ける荒波にも耐えることができるのである。
 しかし不幸なことに現代社会においては多くの母親は”聖杯としてのまなざし”を喪失している。・・・ときにはそのまなざしとは対照的に世間の価値を押しつけるまなざしを子どもに投げかけることによって逆に子どもを追いつめ、子どもの居場所を奪ってさえいる。
 母親の子どもに対するまなざしは、このとき無償の愛のまなざしでありえることはなく、それは管理のまなざしへと変化している。そして、その管理のまなざしを多くの母親は愛情であると錯覚しているのである。


 ・・・私がよく読む子育て関係の本にも同じ内容のことが記述されていますが、それを飾り言葉で脚色しわかりづらくしたような文章ですね(苦笑)。

「営みの花」
 ・・・そのことは今昔の母親の子どもの育て方の変質に似ていなくもない。つまり私が子どもだった頃の母親には子どもを「育てる」という自意識が今日のように過剰には働いていなかった。「育てる」というより「育つ」のを観ていたように思うのである。
 しかし高度成長の過程で多くの人が中流意識を持ち、横並びになるとともに母親と子どもとのスタンスは徐々に変容する。子どもは他人様に自分の作品として「見せる」、あるいは見せても恥ずかしくないように育てる存在になったのだ。子どもの生活や身体や服装など、頭のてっぺんから足のつま先まで完全管理しようとする子育てが増えたのはそういった競争社会の現れでもある。


「垂乳根」
 ・・・青森県の西海岸に面した「深浦」という土地に日本一の銀杏の巨木があるという。樹齢千数百年、幹まわり20m、高さ40mというその木を見に行った(写真はネット上で見つけたモノです)。
 木の出自は一説によると七世紀半ばに古代武将阿倍野比羅夫が蝦夷成敗に来た折りに、この地に寺院を建て植えた、と云われるが正確にはわかっていないらしい。
 この木の特徴はなんと云っても方々から鍾乳洞のように垂れたその”気根”にある。この木が「垂乳根の木」と呼ばれる所以もそこにある。「垂乳根」とは乳を垂らす女、あるいは満ち足りた女、の意らしいが、土地の人々はその気根を女の乳房になぞらえたのである。そして乳幼児を持ちながら乳の出ない母親が昔からこの木のもとを訪れ、願掛けをしていった。「御神木」のいわれである。来訪者は二つの気根に袋に入れた少量の米を結びつけお祈りする。それを一週間放置してのち持ち帰り、お粥にして一度に食す。そのような儀式を三回やって乳に恵まれなかったら諦めねばならない。土地の老女に尋ねてみると半数くらいの人が乳が出たという。


・・・銀杏の老木は”気根”といって枝の根元が下方に垂れ下がってきます。これを女性の乳房になぞらえてお乳のでない母親達の信仰の対象になっている現象が全国各地で見受けられます。


 写文集なので当然、写真もあります。こちらは何か大きなテーマを持つ類ではなく、瞬間を切り取った写真が解説文もなく無造作に並んでいるだけ。
 ピントをあえてぼかしているモノも多く、私には”夢の断片”あるいは”デジャブ”を感じさせてくれました。

「裸のサル」の幸福論

2010-08-12 20:08:15 | エッセイ
デスモンド・モリス著、横田一久訳、新潮社(2005年発行)

動物行動学者であり、世界的ベストセラーになった「裸のサル」の著者でもあるモリス氏が著した幸福論です。
感情を廃し、あくまでも動物行動学者として分析・記述しているのが小気味よいですね。
ヒトの幸福を17種類に分類して解説していますが、意外な発想に目からウロコが何度も落ちました。
中でも、人間がその基本を忘れつつある”生殖”や”親子関係”に関する箇所では「なるほど!」と唸らせられました。本能を見失った人間は、振り返って動物に見習うべきこともありそうですね。

気になった箇所をメモしておきます;

基本は「狩り」
モリス氏はヒトが生き延びることに有利に働くことが「幸福」の源と考え、そこから思索を広げています。
サルが樹上生活を捨て、草原に立ったとき、生きる糧は「狩猟」で得るよう大きな変化がありました。
自分より大きな獣を捕らえるためにあえてリスクを負い、仲間と「協力」することが必要になり、獣を捕らえる「捕獲」にこの上のない満足感を得るよう進化してきました。

今でもイギリスでは狩猟が盛んであり、闘牛は疑似狩猟であり、スポーツも「危険をかいくぐって目標を達成する」という天では『象徴的狩猟』の要素が大きいと分析しています。


「恋すること」は遺伝的にプログラムされている
 長き狩猟生活の段階において、人間はペアの結びつきを強めていきました。言い換えるなら、我々の先祖は恋に落ちるようにプログラムされるようになったのです。これは、他の種に比べて発達の遅い人間の子どもを守る上で、決定的なステップでした。
 サルの子どもは通常、母親によってのみ育てられますが、人類の場合は母親と父親の両方によって育てられます。男達は狩りのために長く家を離れますが、女達に強く結びつけられていなければ、家に戻って家族に食を与えたり、子どもの世話をしなくなるでしょう。
 愛とセックスは密接に関連したものですが、愛の喜びと性の喜びは二つの別のものです。セックスしないで恋に落ちることは可能ですし、恋に落ちないままでセックスすることも可能です。しかし、愛とセックスが結びついたとき、感情の強さは爆発的なものとなり、人間に知られた最も幸福な瞬間を生み出しえるのです。


子どもを産む間隔は何年が適切か?
 他の霊長類に比べ圧倒的に長い人類の寿命は、部分的には「祖父母によるサポートの仕組み」として生じてきたように思います。
 人間の女だけが前の子どもが未成熟なままで続けて子どもを産んでいるのです。他の霊長類のメスは一匹の子を産むと、その子が独立するまで育て、次にまた別の子を産むというサイクルを繰り返します。これは子ども時代が短いからこそ可能なのです。
 もし、人間の女が、初めての子どもが独立するのを待って次の子を作るようになったら、人類の再生産サイクルは劇的に遅くなるでしょう。


狩猟本能を充足させない文明生活
 狩りに出て獲物を仕留めるという基本的衝動の満足。現代的に言い換えれば、変化と挑戦に満ちた創造的生活を営み、努力を向けることのできる明確な目標を持っていること・・・これを達成している人々は幸せです。
 しかし、農業革命が人類に暗い影を投げかけました。果てしなく繰り返される退屈な野良仕事・・・これは目標追求型の、創造的な人類に相応しいものではありません。
 産業革命の結果、状況はさらに悪くなりました。工場労働者は日々単純作業を繰り返し、労働の喜びを失っています。彼らにとって、幸福の瞬間は労働時間以外の余暇などに求められるようになりました。人生の主活動と幸福が分離されてしまったのです。これは大きな悲劇と云わざるを得ません。


「競争の幸福」と「協力の幸福」
 「勝ちたい」というやむにやまれぬ欲求だけでなく、私たちにはそれと同じく「助け合いたい」という本能的欲求があります。人助けは幸福をもたらします。それは善意の人々が道徳上の教えを施したからではなく、他人を助けることで自分も助けてもらえるように、生物としてプログラムされているからなのです。

官能の幸福
 どんな種であれ、再生産の決定的瞬間にオーガズムという「褒賞」がなければ存続していけません。サルの場合はオーガズムはオスに限定されていますが、人間の場合は女性にも同様に起こりえます。
 サルは発情期があり、その期間だけメスが性的に興奮して性器が隆起し、オスがマウントして交尾します。それ以外では交尾はありません。
 人間の場合、新しい交尾のシステムを進化させました。女性はサルのように性器の隆起などを起こさず、排卵期にあることを知らせるサインを出しません。奇妙なことに、彼女たちはこの決定的瞬間を男達に隠しているのです。さらに彼女たちは常に性的に魅力的であり、排卵期でなくても強い性的欲求を保ち続けているのです。
 人類の進化の過程で、どうやら女性の性はカップルを形成するプロセスの一部として取り込まれたようなのです。性的活動が延長されたことがいわば感情面での接着剤となって、カップルを一つに結びつけておく手助けになっているわけです。
 人間の男性には、女性が排卵していなくてもセックスすることができるという褒美が与えられましたが、一方の女性には、男性と同様に性的絶頂を経験することができるという褒美が与えられました。

リズムの幸福
 我々の生命はリズムによってコントロールされています。つまり、心拍と呼吸です。
 赤ん坊の時には、我々は揺りかごや両親の腕の中で揺さぶられると安心させられます。ということは、大人になってから体を同じように動かし始めると、我々は何かしら真に原初的なものを感知しているのだと思います。
 このタイプの幸福に応ずることは、エンドルフィンの分泌の増加を伴う肉体の生理的反応なのです。エンドルフィンは肉体が自然に備える鎮痛剤で、化学的にはモルヒネと関連しており(エンドルフィンという言葉は「体の自然なモルヒネ」を意味する endogenous morphine を短縮したもの)、幸福感を作り出す効果があります。肉体がリズム表現の最高の状態に到達したとき、エンドルフィンは劇的に活性化します(例:ランナーズハイ)。


■ 痛みの幸福(マゾヒズム)~タリバンの思考回路・自爆テロの快楽
 タリバンのメンバーは、日々の幸福の源泉である音楽やテレビ、ダンス、映画すら、悉く禁止してしまいました。他人に悲惨さを強いることに使命感を燃やすのは、一見サディズムのように思われるかもしれませんが、違います。自分たちが喜びとするようになったマゾヒズム的幸福を、他人にも感染させてやろうという意志なのです。彼らはこの自己否定の快楽を、他のみんなと共有したいのです。
 悲しいことですが、今日の「痛みの幸福」の究極の形の一つが、テロリストの「自殺の幸福」です。テロ行為は至福の状態でなされます。ボタンを押す瞬間には、想像を絶するような幸福感に到達しているはずです。なぜなら、洗脳された自爆者達は、このように死んでいくことは聖なる殉教への道であって、それは来世における永遠の幸福を保証するものと信じているからです。


静寂の幸福
 これは狩猟の幸福と対極にあります。自分の内面に目を向けることにより幸福は得られるのでしょうか。
 実は仏陀の教えに上手くまとめられています。
 彼の哲学の鍵は「中庸」であって、次のように要約されます;「自らの欲望を否定する人たちの自己破壊と、欲望に従うままになっている人たちの惨めさに気づいて、仏陀は『欲望それ自体をなくす』という中庸の道があることに気づいた」。別の言葉で云えば仏陀は、自己否定のマゾヒズムも、果てしなき快楽の追求につきものの失望も退け、この両極の真ん中ゾーンに集中しました。
 彼が「中庸」において目指したのは欲望の適度な表現ではなく、全ての欲望の消失でした。完全な禁止から完全な放出まで、欲望の範囲を程度によって計るのではなく、両方を対立する極端であると位置づけ、その両者の間には完全に中庸なところがあり、そこでは欲望それ自体が存在しない、と考えたのでした。


献身の幸福~信仰者・神の子ども
 親交深い人々は、最も敬虔なる瞬間を体験したとき、ある種特別な精神的幸福を感じると云います。こういう場合に起こっているのは、長らく失われていた子供時代の安心感の蘇りです。全能の親の優しい抱擁の中で、子ども達が感じる大きな幸福感。我々はこれを、成長するにつれて知らず知らずに失っていきますが、無意識のうちに全生涯にわたって求め続けています。成熟したエゴと大人としての責任感ゆえ、我々は親の助けを求めて泣き叫んだりしたい欲望は抑えつけています。しかし、もし象徴的な「超・親」を見つけられたら、その時我々はもう一度、少し違った形ではあっても、子どもの役割を演じる喜びを味わうのです。
 一時的に理性を棚上げにして、超自然的な「超・親」にすがれる人なら誰しも、こうした子ども時代の蘇りに大きな幸福を感じるでしょう。自分の親に全ての信頼を置いておいて、何か問題が生じたときにはすぐに親の元に駆けていったあの頃に。


化学的幸福~麻薬服用者
 化学的幸福は現実からの逃避です。その問題を要約すると、短期的な幸福を求めて長期的な悲惨という代償を払う生活には何の利点もない、ということに尽きます。

■ ファンタジーの幸福~空想家
 「化学的幸福」の場合と同じように、ファンタジーの幸福も現実からの逃避です。しかし、身体への直接的害がないところが異なります。あまりにも安全で害がない故に、現代の文明社会においては、ファンタジーは主要な幸福の源泉となりました。

幸福のセットポイント~個人差は育児環境の影響あり
 幸福のレベルの違いは、個々人のパーソナリティの違いと深い関係があるように思えます。仮に幸福への性向を1から10までのレベルで登録してみれば、自分の環境がどうであれ「8」や「9」を付ける人はいるでしょう。一方、人生が全て順調にいっているように見えるのに「2」か「3」しか付けられない人もいます。
 前者は快活で運任せで楽天家、外向的でどんな状況でも隠れた喜びを見つけてしまう人です。後者は陰気でしょげた悲観論者、内向的でどんな状況でも最悪の状態を見てしまう人です。
 この二つのタイプはどうして生じるのでしょうか。
 この答えは、しばしば子ども時代に見つけることができます。快活な大人は恐らく、いつも「イエス」と答える両親を持ち、陰気な大人は恐らく、いつも「ノー」と答える両親を持っていたのでしょう



「エンピツ画のすすめ」

2009-12-20 12:35:20 | エッセイ
風間 完 著、朝日新聞社(1987年発行)

もう一つ、鉛筆画の本を読んでみました。
著者は大正生まれの画家で、絵にとどまらず小説の挿絵など多数手がけた方です。
美人画の表情が素敵です。
「あ、この絵!」とたぶん、誰もが一度は目にしているのはないでしょうか。
最近もどこかで見かけたなあ・・・と思って検索したら、TVドラマ「高校教師」で有名になった森田童子のCDジャケット(ベスト盤)でした。
http://www.gogorocket.jp/doji/h/m-cd1.html

前回の永沢まことさんの本は肩の力が抜けていましたが、こちらは大正生まれの頑固親父系ですね。
絵画論にとどまらず、世間一般の文化・文明論までカバーし・・・時にお説教を聞いているような雰囲気になってきます(苦笑)。

■ 「何事もモノにするには時間がかかる」「素人の絵は自由でいい、プロになると厳しい世界」
など、ホントに勧めているの?と疑いたくなるような表現もあります。

■ 「描いたら、人の目にさらすこと」
という、永沢さんと同じことも書いています。
自分の世界だけでは独りよがりになりがちなので、他人の目にさらして批評されることにより進歩・成長するとのこと。

■ 「写真を参考にするのも可」
私は素人ですが、この意見には不賛同です。
前出の永沢さんは、
「モノを描くときは、それを初めて見た宇宙人になったつもりであんぐりと口を開けて見つめることが必要」
と書いています。ウ~ン、こちらの方が頷ける。
紙の上に絵を描くということは、三次元の空間を自分なりの方法で二次元に変換させるということ。
この翻訳作業に皆苦労し、また技術の粋を集中させるのだと思います。
既に三次元→二次元の翻訳が済んでいる写真を模写しても、その人らしさは出てこないのではないでしょうか。

まだ描いてもいないのに生意気なことを書いてしまいました。失礼。


「絵が描きたくてたまらない」

2009-12-13 07:44:44 | エッセイ
永沢まこと著、講談社+α文庫、2006年発行

身を削る仕事をつづけていると、何かを造る仕事に憧れます。
仕事は変えられないけど、日々の生活の中で「何かを造りたい」と思うようになりました。
いろいろ探してみて、手軽に始められるのは「絵」ということに気づきました。
それもシンプルな鉛筆画。
「鉛筆」と「紙」があれば準備OKですからね。

そんなタイミングでこの本に出会いました。
デッサンの教則本はやはりちょっと敷居が高い。
イラストレーター(?)の著者は「もっと自由に、日常生活の延長で絵を描きましょう」と提案しています。

私たちは毎日「字」を書いています。
その特徴は十人十色。
絵画では「俳画」という分野がありますが、これは絵と字で一つの作品になっています。
シャープな絵には切れのある字。
やわらかい絵には丸っこい字。
・・・「字」も作品のうちなんですね。
これを「書画一体」と呼び、東洋的な考え方です。
そう指摘されて、なるほどなあ、と思うことしきり。

さて、永沢さん提唱の「絵が上手くなるための三つの法則」;
その1:何を描くときでも「実物」を見て描くこと 
その2:何を描くときでも「線」でかたちをとること
その3:「色」を塗るときは理性を捨て、心を開くこと

特徴は、「ペンで描くこと」。
つまり、「下書きなし」&「消しゴムで消せない」のです。
そのためには実物をじ~っと穴の開くほど見つめて頭の中にイメージを造り「空描き」し、そして紙に思い切って線を描く!
勇気がいる方法ですが、慣れるとできるようになるそうです。
コツは先入観を捨て「ポカンと口を開けて宇宙人になったつもりでしげしげと眺める」こと。

いわゆる「デッサン」は光と影を面で捉えます。
でも著者は線で捉えることにこだわります。
レオナルド・ダ・ヴィンチは「物体には、線など存在しない」といったそうですが、永沢さんは「しかし、線表現によって二次元上に翻訳することは可能である」と主張しています。

また、ペン書きの利点として
1.太さ細さが表せる
2.スピードが表せる
3.重さが表せる
などを挙げ、実例を示してわかりやすく説明しています。

次に色塗り。
「線」に「色」を施すことによって「線」がより美しく輝き、線と色とが分かちがたく一体化する、というのが線と色とが作り出すもっともよい関係とのこと。
色は実物の正確な再現でなくてもよく、自分がイメージする最高の色をめざしましょう、とも。
ウ~ン、深いですね。

あとはひたすら描いてセンスを磨くこと。
同じテーマで30~50枚を描いてみよう(5~10枚ではダメ)!


私は自然の写真を撮るのが好きです。
「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」でたくさん撮影してそのうち何枚かよいものがあれば満足。
でもヒット率が低いことが悩みです。

ある時、ターシャ・テューダーという絵本画家のスケッチを書店で見つけました。
動物たちの「あっ、この表情!」というかわいらしい瞬間が見事に捉えられているのです。
そうか、自分で見つけて描いて残せばいいのか・・・。

小学生の頃は写生が好きでした。
コンクールに入賞したこともあったような・・・。
この本はペン画&水彩画ですが、私はモノクロの鉛筆のみで描き始めてみようと思いました。

「軽井沢ミカド珈琲物語」

2009-08-22 21:15:40 | エッセイ
副題 ーエピソードはアロマがいっぱいー
井上紀明著、文芸社、2003年発行

2009年の夏休み旅行は軽井沢方面。
本棚にあったこの本をボストンバッグに詰め込んで出発しました。

「ミカド珈琲」って聞いたことがありますか?
私はおぼろげに何となく・・・程度でした。
この本を読むと、軽井沢文化の一端を担い、また「食べるコーヒー」としてコーヒーゼリーを開発した店とのこと。
ヒット商品の「モカソフト」はコーヒー味のソフトクリームで、それを舐めながら軽井沢の街を散歩するのが一時流行スタイルとなった・・・などの伝説もあるようです。

著者は長年軽井沢のミカド珈琲店で働いた社員で、本の内容はその間のエピソードをまとめたものです。

モカソフトやコーヒーゼリーの大ヒットの裏話、
近隣のお店とのやりとり、
トイレの苦労話、
著名人の来店(ジョン・レノン&ヨーコ・オノ夫妻、八神純子、小澤征爾、橋本&細川元首相等々)ほか、
思わずニヤッ、クスッとなるエピソードが満載されています。

今回、我が家族は軽井沢プリンス・イーストのコテージに宿泊しました。
ショッピングプラザ・イーストは歩いて数分の距離で、その西隣に「味の街」があり、「ミカド珈琲」(2000年開業の2号店)も軒を連ねています。
子ども達はモカソフトのファンになり、連日頬張っていました。
バイトのお姉さんが高速でソフトクリームを巻く様子に見入っていました。
一口もらいましたが、大人の苦味にまろやかな甘さが加わって至福の味。

私はコーヒー豆を買い求めました。
現在の天皇夫妻(当時はプリンス&プリンセス)別邸に納めた「コンチネンタルブレンド」(現在は「旧軽通りブレンド」)、
5年もののオールドクロップからなる「オールドビーンズ」、
そして品のある酸味が忘れられない「グァテマラ」の3種類。

本の中でコーヒーの入れ方のコツにも触れています。
ベテランカウンターマンの古川浩さんによると・・・

1.よく蒸した後は、お湯を注ぐのではなく、乗せるように、置くようにして淹れていく。
2.粉(コーヒー)を浮かせない、泳がせない。
3.密度のある粉の層には、あまり空間を作らないようにする。つまり、上の層と下の層の粉が入れ替わらないように慎重に丁寧にお湯を乗せる。ポットを上下左右に急激に動かしてお湯を注ぐとコーヒーの刺激味が出てしまう。

フムフム、とにかく少量ずつゆっくり淹れるのですね。
いつも使用している「土井コーヒー」の豆で早速やってみました・・・うん、薫り高くコクが出た感じがします。
ああ、オールドビーンズはどんな味がするのか楽しみです。

来年軽井沢へ行ったら、著者お勧めのコーヒーフロート(ブラックコーヒーにモカソフトが乗った品)を是非食べてみたいものです。


「そうか、もう君はいないのか」

2008-09-08 01:36:17 | エッセイ
城山三郎、2008年、新潮社発行.

甦る面影、声にならぬ悲しみ。最期まで天真爛漫だった君よ……。亡き妻との人生の日々を綴った、凛として純真な愛あふれる「妻との半生記」。感涙の絶筆(Amazonの解説より).

城山三郎さんの本を読むのは初めてです.
出会いから死別まで、夫婦で過ごした半生がわかりやすい文体で綴られています.
読んでいて「喪失」という言葉が思い浮かびました.
悲しみの原点.
その人の人生に占める存在が大きければ大きい程、失った時の「喪失感」=「悲しみ」も大きい.
城山さんにとって、奥様が如何に大きな存在だったのかが全ての文章からにじみ出ています.
お二人とも幸せだったのですね.

体力の衰えは感じるものの、私はまだ自分と妻の「死」を身近に感じられない年齢です.
あと30年先、どんな人生を送っているだろう.