(ネット上で見つけた「深浦の垂乳根銀杏」)
文春文庫、2006年発行
~解説文より~
肉親が他界するたびに四国巡りをする。そんな著者が壮絶な兄の最期に立ち会い、波立つ心を抱えて訪れた三度目の四国への旅は…。薬王寺の境内に立つ地蔵菩薩に兄の顔が重なり、三十六番札所の青龍寺で祈る幼女の姿に「無心」の境地をみる。愛する者の死をどう受け入れるか、いかに祈るのか。足取りを記した四国巡礼地図付き。
「メメント・モリ」から20年。これまであらゆる祈りを拒否し続けてきた著者が、愛するものの死をへてたどりついたもの。それは、なにも願わない。ただ、手を合わせる。人の死と別れを描いた写文集。
エキセントリックな印象のある藤原新也さん。私には、どうも歌舞伎で云う「外連(ケレン)」のイメージがつきまとい、遠ざけていた作家の一人です。
でも、四国巡礼に関するエッセイ中心のこの本は違いました。
まず、表紙の苔生したお地蔵さんの顔が何とも云えず微笑ましい。
世界中を旅していろんなことを経験した後、家族の死に直面してやはりこの人も自分の足元にある「日本」に落ち着いたんだな、と感じた次第です。
それでも「何か読者にインパクトを与えたい」という作家根性が見え隠れし、肩に力の入った文章が多いですね。ちょっと疲れます。
以下、印象に残った箇所を抜粋します;
■ 「まなざしの聖杯」
・・・私はブラウン管の中で迷子の少女に遭遇した。彼女は拒食症のために痩せこけ病院のベッドに臥せっていた。少女は母親が病室に入ってくると、その痩せた体のどこから出るのかと思うような野獣のような金切り声で母親に出て行けと叫び散らす。
ああ、この子もまた「まなざしの聖杯」を受けていない子なんだなと私は思う。聖杯としてのまなざし、つまり掛け値のない無償の愛のまなざしというものはかつて本来母親が子に与えるべきものでもあった。子どもとは母親のまなざしの聖杯によって自己同一性の安寧を得つつ生長するものなのだ。そしてそのまなざしの聖杯を受けることによって子どもは家庭の外に置ける荒波にも耐えることができるのである。
しかし不幸なことに現代社会においては多くの母親は”聖杯としてのまなざし”を喪失している。・・・ときにはそのまなざしとは対照的に世間の価値を押しつけるまなざしを子どもに投げかけることによって逆に子どもを追いつめ、子どもの居場所を奪ってさえいる。
母親の子どもに対するまなざしは、このとき無償の愛のまなざしでありえることはなく、それは管理のまなざしへと変化している。そして、その管理のまなざしを多くの母親は愛情であると錯覚しているのである。
・・・私がよく読む子育て関係の本にも同じ内容のことが記述されていますが、それを飾り言葉で脚色しわかりづらくしたような文章ですね(苦笑)。
■ 「営みの花」
・・・そのことは今昔の母親の子どもの育て方の変質に似ていなくもない。つまり私が子どもだった頃の母親には子どもを「育てる」という自意識が今日のように過剰には働いていなかった。「育てる」というより「育つ」のを観ていたように思うのである。
しかし高度成長の過程で多くの人が中流意識を持ち、横並びになるとともに母親と子どもとのスタンスは徐々に変容する。子どもは他人様に自分の作品として「見せる」、あるいは見せても恥ずかしくないように育てる存在になったのだ。子どもの生活や身体や服装など、頭のてっぺんから足のつま先まで完全管理しようとする子育てが増えたのはそういった競争社会の現れでもある。
■ 「垂乳根」
・・・青森県の西海岸に面した「深浦」という土地に日本一の銀杏の巨木があるという。樹齢千数百年、幹まわり20m、高さ40mというその木を見に行った(写真はネット上で見つけたモノです)。
木の出自は一説によると七世紀半ばに古代武将阿倍野比羅夫が蝦夷成敗に来た折りに、この地に寺院を建て植えた、と云われるが正確にはわかっていないらしい。
この木の特徴はなんと云っても方々から鍾乳洞のように垂れたその”気根”にある。この木が「垂乳根の木」と呼ばれる所以もそこにある。「垂乳根」とは乳を垂らす女、あるいは満ち足りた女、の意らしいが、土地の人々はその気根を女の乳房になぞらえたのである。そして乳幼児を持ちながら乳の出ない母親が昔からこの木のもとを訪れ、願掛けをしていった。「御神木」のいわれである。来訪者は二つの気根に袋に入れた少量の米を結びつけお祈りする。それを一週間放置してのち持ち帰り、お粥にして一度に食す。そのような儀式を三回やって乳に恵まれなかったら諦めねばならない。土地の老女に尋ねてみると半数くらいの人が乳が出たという。
・・・銀杏の老木は”気根”といって枝の根元が下方に垂れ下がってきます。これを女性の乳房になぞらえてお乳のでない母親達の信仰の対象になっている現象が全国各地で見受けられます。
写文集なので当然、写真もあります。こちらは何か大きなテーマを持つ類ではなく、瞬間を切り取った写真が解説文もなく無造作に並んでいるだけ。
ピントをあえてぼかしているモノも多く、私には”夢の断片”あるいは”デジャブ”を感じさせてくれました。