デスモンド・モリス著、横田一久訳、新潮社(2005年発行)
動物行動学者であり、世界的ベストセラーになった「裸のサル」の著者でもあるモリス氏が著した幸福論です。
感情を廃し、あくまでも動物行動学者として分析・記述しているのが小気味よいですね。
ヒトの幸福を17種類に分類して解説していますが、意外な発想に目からウロコが何度も落ちました。
中でも、人間がその基本を忘れつつある”生殖”や”親子関係”に関する箇所では「なるほど!」と唸らせられました。本能を見失った人間は、振り返って動物に見習うべきこともありそうですね。
気になった箇所をメモしておきます;
■ 基本は「狩り」
モリス氏はヒトが生き延びることに有利に働くことが「幸福」の源と考え、そこから思索を広げています。
サルが樹上生活を捨て、草原に立ったとき、生きる糧は「狩猟」で得るよう大きな変化がありました。
自分より大きな獣を捕らえるためにあえてリスクを負い、仲間と「協力」することが必要になり、獣を捕らえる「捕獲」にこの上のない満足感を得るよう進化してきました。
今でもイギリスでは狩猟が盛んであり、闘牛は疑似狩猟であり、スポーツも「危険をかいくぐって目標を達成する」という天では『象徴的狩猟』の要素が大きいと分析しています。
■ 「恋すること」は遺伝的にプログラムされている
長き狩猟生活の段階において、人間はペアの結びつきを強めていきました。言い換えるなら、我々の先祖は恋に落ちるようにプログラムされるようになったのです。これは、他の種に比べて発達の遅い人間の子どもを守る上で、決定的なステップでした。
サルの子どもは通常、母親によってのみ育てられますが、人類の場合は母親と父親の両方によって育てられます。男達は狩りのために長く家を離れますが、女達に強く結びつけられていなければ、家に戻って家族に食を与えたり、子どもの世話をしなくなるでしょう。
愛とセックスは密接に関連したものですが、愛の喜びと性の喜びは二つの別のものです。セックスしないで恋に落ちることは可能ですし、恋に落ちないままでセックスすることも可能です。しかし、愛とセックスが結びついたとき、感情の強さは爆発的なものとなり、人間に知られた最も幸福な瞬間を生み出しえるのです。
■ 子どもを産む間隔は何年が適切か?
他の霊長類に比べ圧倒的に長い人類の寿命は、部分的には「祖父母によるサポートの仕組み」として生じてきたように思います。
人間の女だけが前の子どもが未成熟なままで続けて子どもを産んでいるのです。他の霊長類のメスは一匹の子を産むと、その子が独立するまで育て、次にまた別の子を産むというサイクルを繰り返します。これは子ども時代が短いからこそ可能なのです。
もし、人間の女が、初めての子どもが独立するのを待って次の子を作るようになったら、人類の再生産サイクルは劇的に遅くなるでしょう。
■ 狩猟本能を充足させない文明生活
狩りに出て獲物を仕留めるという基本的衝動の満足。現代的に言い換えれば、変化と挑戦に満ちた創造的生活を営み、努力を向けることのできる明確な目標を持っていること・・・これを達成している人々は幸せです。
しかし、農業革命が人類に暗い影を投げかけました。果てしなく繰り返される退屈な野良仕事・・・これは目標追求型の、創造的な人類に相応しいものではありません。
産業革命の結果、状況はさらに悪くなりました。工場労働者は日々単純作業を繰り返し、労働の喜びを失っています。彼らにとって、幸福の瞬間は労働時間以外の余暇などに求められるようになりました。人生の主活動と幸福が分離されてしまったのです。これは大きな悲劇と云わざるを得ません。
■ 「競争の幸福」と「協力の幸福」
「勝ちたい」というやむにやまれぬ欲求だけでなく、私たちにはそれと同じく「助け合いたい」という本能的欲求があります。人助けは幸福をもたらします。それは善意の人々が道徳上の教えを施したからではなく、他人を助けることで自分も助けてもらえるように、生物としてプログラムされているからなのです。
■ 官能の幸福
どんな種であれ、再生産の決定的瞬間にオーガズムという「褒賞」がなければ存続していけません。サルの場合はオーガズムはオスに限定されていますが、人間の場合は女性にも同様に起こりえます。
サルは発情期があり、その期間だけメスが性的に興奮して性器が隆起し、オスがマウントして交尾します。それ以外では交尾はありません。
人間の場合、新しい交尾のシステムを進化させました。女性はサルのように性器の隆起などを起こさず、排卵期にあることを知らせるサインを出しません。奇妙なことに、彼女たちはこの決定的瞬間を男達に隠しているのです。さらに彼女たちは常に性的に魅力的であり、排卵期でなくても強い性的欲求を保ち続けているのです。
人類の進化の過程で、どうやら女性の性はカップルを形成するプロセスの一部として取り込まれたようなのです。性的活動が延長されたことがいわば感情面での接着剤となって、カップルを一つに結びつけておく手助けになっているわけです。
人間の男性には、女性が排卵していなくてもセックスすることができるという褒美が与えられましたが、一方の女性には、男性と同様に性的絶頂を経験することができるという褒美が与えられました。
■ リズムの幸福
我々の生命はリズムによってコントロールされています。つまり、心拍と呼吸です。
赤ん坊の時には、我々は揺りかごや両親の腕の中で揺さぶられると安心させられます。ということは、大人になってから体を同じように動かし始めると、我々は何かしら真に原初的なものを感知しているのだと思います。
このタイプの幸福に応ずることは、エンドルフィンの分泌の増加を伴う肉体の生理的反応なのです。エンドルフィンは肉体が自然に備える鎮痛剤で、化学的にはモルヒネと関連しており(エンドルフィンという言葉は「体の自然なモルヒネ」を意味する endogenous morphine を短縮したもの)、幸福感を作り出す効果があります。肉体がリズム表現の最高の状態に到達したとき、エンドルフィンは劇的に活性化します(例:ランナーズハイ)。
■ 痛みの幸福(マゾヒズム)~タリバンの思考回路・自爆テロの快楽
タリバンのメンバーは、日々の幸福の源泉である音楽やテレビ、ダンス、映画すら、悉く禁止してしまいました。他人に悲惨さを強いることに使命感を燃やすのは、一見サディズムのように思われるかもしれませんが、違います。自分たちが喜びとするようになったマゾヒズム的幸福を、他人にも感染させてやろうという意志なのです。彼らはこの自己否定の快楽を、他のみんなと共有したいのです。
悲しいことですが、今日の「痛みの幸福」の究極の形の一つが、テロリストの「自殺の幸福」です。テロ行為は至福の状態でなされます。ボタンを押す瞬間には、想像を絶するような幸福感に到達しているはずです。なぜなら、洗脳された自爆者達は、このように死んでいくことは聖なる殉教への道であって、それは来世における永遠の幸福を保証するものと信じているからです。
■ 静寂の幸福
これは狩猟の幸福と対極にあります。自分の内面に目を向けることにより幸福は得られるのでしょうか。
実は仏陀の教えに上手くまとめられています。
彼の哲学の鍵は「中庸」であって、次のように要約されます;「自らの欲望を否定する人たちの自己破壊と、欲望に従うままになっている人たちの惨めさに気づいて、仏陀は『欲望それ自体をなくす』という中庸の道があることに気づいた」。別の言葉で云えば仏陀は、自己否定のマゾヒズムも、果てしなき快楽の追求につきものの失望も退け、この両極の真ん中ゾーンに集中しました。
彼が「中庸」において目指したのは欲望の適度な表現ではなく、全ての欲望の消失でした。完全な禁止から完全な放出まで、欲望の範囲を程度によって計るのではなく、両方を対立する極端であると位置づけ、その両者の間には完全に中庸なところがあり、そこでは欲望それ自体が存在しない、と考えたのでした。
■ 献身の幸福~信仰者・神の子ども
親交深い人々は、最も敬虔なる瞬間を体験したとき、ある種特別な精神的幸福を感じると云います。こういう場合に起こっているのは、長らく失われていた子供時代の安心感の蘇りです。全能の親の優しい抱擁の中で、子ども達が感じる大きな幸福感。我々はこれを、成長するにつれて知らず知らずに失っていきますが、無意識のうちに全生涯にわたって求め続けています。成熟したエゴと大人としての責任感ゆえ、我々は親の助けを求めて泣き叫んだりしたい欲望は抑えつけています。しかし、もし象徴的な「超・親」を見つけられたら、その時我々はもう一度、少し違った形ではあっても、子どもの役割を演じる喜びを味わうのです。
一時的に理性を棚上げにして、超自然的な「超・親」にすがれる人なら誰しも、こうした子ども時代の蘇りに大きな幸福を感じるでしょう。自分の親に全ての信頼を置いておいて、何か問題が生じたときにはすぐに親の元に駆けていったあの頃に。
■ 化学的幸福~麻薬服用者
化学的幸福は現実からの逃避です。その問題を要約すると、短期的な幸福を求めて長期的な悲惨という代償を払う生活には何の利点もない、ということに尽きます。
■ ファンタジーの幸福~空想家
「化学的幸福」の場合と同じように、ファンタジーの幸福も現実からの逃避です。しかし、身体への直接的害がないところが異なります。あまりにも安全で害がない故に、現代の文明社会においては、ファンタジーは主要な幸福の源泉となりました。
■ 幸福のセットポイント~個人差は育児環境の影響あり
幸福のレベルの違いは、個々人のパーソナリティの違いと深い関係があるように思えます。仮に幸福への性向を1から10までのレベルで登録してみれば、自分の環境がどうであれ「8」や「9」を付ける人はいるでしょう。一方、人生が全て順調にいっているように見えるのに「2」か「3」しか付けられない人もいます。
前者は快活で運任せで楽天家、外向的でどんな状況でも隠れた喜びを見つけてしまう人です。後者は陰気でしょげた悲観論者、内向的でどんな状況でも最悪の状態を見てしまう人です。
この二つのタイプはどうして生じるのでしょうか。
この答えは、しばしば子ども時代に見つけることができます。快活な大人は恐らく、いつも「イエス」と答える両親を持ち、陰気な大人は恐らく、いつも「ノー」と答える両親を持っていたのでしょう。
動物行動学者であり、世界的ベストセラーになった「裸のサル」の著者でもあるモリス氏が著した幸福論です。
感情を廃し、あくまでも動物行動学者として分析・記述しているのが小気味よいですね。
ヒトの幸福を17種類に分類して解説していますが、意外な発想に目からウロコが何度も落ちました。
中でも、人間がその基本を忘れつつある”生殖”や”親子関係”に関する箇所では「なるほど!」と唸らせられました。本能を見失った人間は、振り返って動物に見習うべきこともありそうですね。
気になった箇所をメモしておきます;
■ 基本は「狩り」
モリス氏はヒトが生き延びることに有利に働くことが「幸福」の源と考え、そこから思索を広げています。
サルが樹上生活を捨て、草原に立ったとき、生きる糧は「狩猟」で得るよう大きな変化がありました。
自分より大きな獣を捕らえるためにあえてリスクを負い、仲間と「協力」することが必要になり、獣を捕らえる「捕獲」にこの上のない満足感を得るよう進化してきました。
今でもイギリスでは狩猟が盛んであり、闘牛は疑似狩猟であり、スポーツも「危険をかいくぐって目標を達成する」という天では『象徴的狩猟』の要素が大きいと分析しています。
■ 「恋すること」は遺伝的にプログラムされている
長き狩猟生活の段階において、人間はペアの結びつきを強めていきました。言い換えるなら、我々の先祖は恋に落ちるようにプログラムされるようになったのです。これは、他の種に比べて発達の遅い人間の子どもを守る上で、決定的なステップでした。
サルの子どもは通常、母親によってのみ育てられますが、人類の場合は母親と父親の両方によって育てられます。男達は狩りのために長く家を離れますが、女達に強く結びつけられていなければ、家に戻って家族に食を与えたり、子どもの世話をしなくなるでしょう。
愛とセックスは密接に関連したものですが、愛の喜びと性の喜びは二つの別のものです。セックスしないで恋に落ちることは可能ですし、恋に落ちないままでセックスすることも可能です。しかし、愛とセックスが結びついたとき、感情の強さは爆発的なものとなり、人間に知られた最も幸福な瞬間を生み出しえるのです。
■ 子どもを産む間隔は何年が適切か?
他の霊長類に比べ圧倒的に長い人類の寿命は、部分的には「祖父母によるサポートの仕組み」として生じてきたように思います。
人間の女だけが前の子どもが未成熟なままで続けて子どもを産んでいるのです。他の霊長類のメスは一匹の子を産むと、その子が独立するまで育て、次にまた別の子を産むというサイクルを繰り返します。これは子ども時代が短いからこそ可能なのです。
もし、人間の女が、初めての子どもが独立するのを待って次の子を作るようになったら、人類の再生産サイクルは劇的に遅くなるでしょう。
■ 狩猟本能を充足させない文明生活
狩りに出て獲物を仕留めるという基本的衝動の満足。現代的に言い換えれば、変化と挑戦に満ちた創造的生活を営み、努力を向けることのできる明確な目標を持っていること・・・これを達成している人々は幸せです。
しかし、農業革命が人類に暗い影を投げかけました。果てしなく繰り返される退屈な野良仕事・・・これは目標追求型の、創造的な人類に相応しいものではありません。
産業革命の結果、状況はさらに悪くなりました。工場労働者は日々単純作業を繰り返し、労働の喜びを失っています。彼らにとって、幸福の瞬間は労働時間以外の余暇などに求められるようになりました。人生の主活動と幸福が分離されてしまったのです。これは大きな悲劇と云わざるを得ません。
■ 「競争の幸福」と「協力の幸福」
「勝ちたい」というやむにやまれぬ欲求だけでなく、私たちにはそれと同じく「助け合いたい」という本能的欲求があります。人助けは幸福をもたらします。それは善意の人々が道徳上の教えを施したからではなく、他人を助けることで自分も助けてもらえるように、生物としてプログラムされているからなのです。
■ 官能の幸福
どんな種であれ、再生産の決定的瞬間にオーガズムという「褒賞」がなければ存続していけません。サルの場合はオーガズムはオスに限定されていますが、人間の場合は女性にも同様に起こりえます。
サルは発情期があり、その期間だけメスが性的に興奮して性器が隆起し、オスがマウントして交尾します。それ以外では交尾はありません。
人間の場合、新しい交尾のシステムを進化させました。女性はサルのように性器の隆起などを起こさず、排卵期にあることを知らせるサインを出しません。奇妙なことに、彼女たちはこの決定的瞬間を男達に隠しているのです。さらに彼女たちは常に性的に魅力的であり、排卵期でなくても強い性的欲求を保ち続けているのです。
人類の進化の過程で、どうやら女性の性はカップルを形成するプロセスの一部として取り込まれたようなのです。性的活動が延長されたことがいわば感情面での接着剤となって、カップルを一つに結びつけておく手助けになっているわけです。
人間の男性には、女性が排卵していなくてもセックスすることができるという褒美が与えられましたが、一方の女性には、男性と同様に性的絶頂を経験することができるという褒美が与えられました。
■ リズムの幸福
我々の生命はリズムによってコントロールされています。つまり、心拍と呼吸です。
赤ん坊の時には、我々は揺りかごや両親の腕の中で揺さぶられると安心させられます。ということは、大人になってから体を同じように動かし始めると、我々は何かしら真に原初的なものを感知しているのだと思います。
このタイプの幸福に応ずることは、エンドルフィンの分泌の増加を伴う肉体の生理的反応なのです。エンドルフィンは肉体が自然に備える鎮痛剤で、化学的にはモルヒネと関連しており(エンドルフィンという言葉は「体の自然なモルヒネ」を意味する endogenous morphine を短縮したもの)、幸福感を作り出す効果があります。肉体がリズム表現の最高の状態に到達したとき、エンドルフィンは劇的に活性化します(例:ランナーズハイ)。
■ 痛みの幸福(マゾヒズム)~タリバンの思考回路・自爆テロの快楽
タリバンのメンバーは、日々の幸福の源泉である音楽やテレビ、ダンス、映画すら、悉く禁止してしまいました。他人に悲惨さを強いることに使命感を燃やすのは、一見サディズムのように思われるかもしれませんが、違います。自分たちが喜びとするようになったマゾヒズム的幸福を、他人にも感染させてやろうという意志なのです。彼らはこの自己否定の快楽を、他のみんなと共有したいのです。
悲しいことですが、今日の「痛みの幸福」の究極の形の一つが、テロリストの「自殺の幸福」です。テロ行為は至福の状態でなされます。ボタンを押す瞬間には、想像を絶するような幸福感に到達しているはずです。なぜなら、洗脳された自爆者達は、このように死んでいくことは聖なる殉教への道であって、それは来世における永遠の幸福を保証するものと信じているからです。
■ 静寂の幸福
これは狩猟の幸福と対極にあります。自分の内面に目を向けることにより幸福は得られるのでしょうか。
実は仏陀の教えに上手くまとめられています。
彼の哲学の鍵は「中庸」であって、次のように要約されます;「自らの欲望を否定する人たちの自己破壊と、欲望に従うままになっている人たちの惨めさに気づいて、仏陀は『欲望それ自体をなくす』という中庸の道があることに気づいた」。別の言葉で云えば仏陀は、自己否定のマゾヒズムも、果てしなき快楽の追求につきものの失望も退け、この両極の真ん中ゾーンに集中しました。
彼が「中庸」において目指したのは欲望の適度な表現ではなく、全ての欲望の消失でした。完全な禁止から完全な放出まで、欲望の範囲を程度によって計るのではなく、両方を対立する極端であると位置づけ、その両者の間には完全に中庸なところがあり、そこでは欲望それ自体が存在しない、と考えたのでした。
■ 献身の幸福~信仰者・神の子ども
親交深い人々は、最も敬虔なる瞬間を体験したとき、ある種特別な精神的幸福を感じると云います。こういう場合に起こっているのは、長らく失われていた子供時代の安心感の蘇りです。全能の親の優しい抱擁の中で、子ども達が感じる大きな幸福感。我々はこれを、成長するにつれて知らず知らずに失っていきますが、無意識のうちに全生涯にわたって求め続けています。成熟したエゴと大人としての責任感ゆえ、我々は親の助けを求めて泣き叫んだりしたい欲望は抑えつけています。しかし、もし象徴的な「超・親」を見つけられたら、その時我々はもう一度、少し違った形ではあっても、子どもの役割を演じる喜びを味わうのです。
一時的に理性を棚上げにして、超自然的な「超・親」にすがれる人なら誰しも、こうした子ども時代の蘇りに大きな幸福を感じるでしょう。自分の親に全ての信頼を置いておいて、何か問題が生じたときにはすぐに親の元に駆けていったあの頃に。
■ 化学的幸福~麻薬服用者
化学的幸福は現実からの逃避です。その問題を要約すると、短期的な幸福を求めて長期的な悲惨という代償を払う生活には何の利点もない、ということに尽きます。
■ ファンタジーの幸福~空想家
「化学的幸福」の場合と同じように、ファンタジーの幸福も現実からの逃避です。しかし、身体への直接的害がないところが異なります。あまりにも安全で害がない故に、現代の文明社会においては、ファンタジーは主要な幸福の源泉となりました。
■ 幸福のセットポイント~個人差は育児環境の影響あり
幸福のレベルの違いは、個々人のパーソナリティの違いと深い関係があるように思えます。仮に幸福への性向を1から10までのレベルで登録してみれば、自分の環境がどうであれ「8」や「9」を付ける人はいるでしょう。一方、人生が全て順調にいっているように見えるのに「2」か「3」しか付けられない人もいます。
前者は快活で運任せで楽天家、外向的でどんな状況でも隠れた喜びを見つけてしまう人です。後者は陰気でしょげた悲観論者、内向的でどんな状況でも最悪の状態を見てしまう人です。
この二つのタイプはどうして生じるのでしょうか。
この答えは、しばしば子ども時代に見つけることができます。快活な大人は恐らく、いつも「イエス」と答える両親を持ち、陰気な大人は恐らく、いつも「ノー」と答える両親を持っていたのでしょう。