日々雑感

読んだ本やネット記事の感想、頭に浮かんでは消える物事をつらつら綴りました(本棚7)。

ECCOのゴアテックスシューズ「TRACK25」(831714-52600)

2017-10-26 14:45:28 | 時計・鞄・靴
 先日、久しぶりに靴を買いました。
 場所は「佐野プレミアムアウトレット」のECCO店。

 型番は「ECCO TRACK25 831714-52600」で、ゴアテックス仕様の革のシューズです。



 実はこれ、隠れたロングセラー。
 私がこの靴を手にとって眺めていると、店員さんが近寄ってきました。
 「お客さんが履いている靴と同じモデルです」
 と宣う。

 そうなんです。
 私はこのシリーズを履き続けて10年以上経過し、今の靴が二足目。
 最初に購入したのは、おそらく現行モデルの数世代前のバージョンと思われます。
 それをめざとく見つけた店員さんにこの靴のファンだと云うことがばれてしまいました。

 この靴のよいところは・・・

・「足入れ」がよい。紐靴ですが、ひもを解いたり結んだりしなくてもスリッポンのように履けてしまいます。しかしスリッポンのように脱げないという絶妙なバランス。この感覚は他の靴で味わったことがありません。

・ゴアテックスシューズなので足が蒸れません。汗っかきの私は、この靴に慣れてしまうと、他の靴が履けなくなります。

 「41」のサイズはありますか?
 と聞くと、
 「はい、あります、あります」
 と2つ持ってきました。
 理由を聞くと、
 「この靴を買う人は、大抵二足まとめ買いしていくのです。」
 らしい。
 
 そうなんです。
 買い損なうと、次はいつ出会えるのかわからない・・・結局私も二足買いしてしまいました。
 アウトレット店なので、正規の値段の1万円引き+二足買いで二足目はさらに10%引き!
 この靴が掲載されているカタログももらってきました。

 「いや〜いい買い物をした」
 と、とても満足して帰路につきました。
 一足が10年間持つので、少し前に2代目に履き替えたところですから、この先30年は靴を買う必要がありません。
 え・・・私の年齢を考えると、もう他の靴は要らない?

寂聴文学塾第10回「宇野千代」

2017-10-26 07:53:43 | 趣味
 寂聴文学塾第10回は宇野千代さんです。
 寂聴さんは生前の宇野千代さんと交流がありました。

 話を聞いていると、お姉さん的存在だった様子。
 その性格は「ハチャメチャ」(特に男関係)で、寂聴さんは「彼女の小説より彼女自身の方が面白い」。

 寂聴さんが作家になる決意をさせてくれた恩人でもあります。
 寂聴さんが夫について北京に住んでいたとき、書店で手にした宇野千代さんの小説「人形師天狗屋久吉」を読んで感動し、「こんなところでグズグズしているわけにはいかない、私も書かなきゃ」と思ったとか。

 宇野千代さんは純粋な小説家ではありませんでした。
 若い頃は実業家の片手間として小説をポツポツ書いていました。

 代表作は徳島の古道具屋の主人に聞いた話から発想して書いた「おはん」、
 画家の東郷青児から聞いた男女話を小説にした「色ざんげ」など。

 70歳になり、夫が亡くなり独りになってから、本格的に作家業に専念しました。
 寂聴さんはこの頃の小説が一番面白いと云います。

 95歳で書いた小説「或る小石の話」には、年齢を超越したエロスが描かれており、これを読んだとき寂聴さんは「ああ、宇野さんにはかなわない」と感じたそうです。

寂聴文学塾第9回「芥川龍之介」

2017-10-23 06:20:26 | 趣味
 寂聴文学塾第九回は芥川龍之介です。

 龍之介の母親は、彼が生後7ヶ月の時に発狂したそうです。
 龍之介は親戚の家に預けられて育てられました。
 その家の名字が芥川であり、元々の名前は違います。

 彼は超秀才だったらしい。
 鴎外もそうですが、明治の文豪はみな学業の成績優秀でした。

 20歳代で小説を書き始め、漱石に褒められてたいそう喜んだとか。

 「鼻」を取り上げて解説していました。
 彼は現実にはありそうにないことを書き、しかし現実世界に生きる読者の心を見事に描き出しているそうです。
 それが真実だから、100年立っても読み継がれていると。

 当時、作家の菊池寛が文藝春秋を創刊しました。
 龍之介は菊池寛に認められかわいがられました。
 その縁もあって「芥川賞」が創設されたそうです。

 菊池寛に逆らうと作家として生きていく道を閉ざされました。
 寂聴さんの師匠の今東光氏がその代表例。
 彼は作家の道をたたれ、京都で出家しました。
 後年、菊池寛がなくなったので作家活動を再開し、直木賞作家になりました。
 
 順風満帆に見えた龍之介の人生でしたが、33歳の時に精神衰弱を煩い、幻覚症状などが出現し不眠症に悩まされるようになりました。
 そして睡眠薬を多量服薬して自宅でなくなりました。享年35歳。

 昭和後半に活躍した指揮者の芥川也寸志さんは三男坊です。

寂聴文学塾第8回「森鴎外」

2017-10-23 06:19:43 | 趣味
 寂聴文学塾第八回は漱石と並ぶ明治の文豪、森鴎外です。
 
 イギリス文学者であった文系の漱石と異なり、鴎外は医師で軍医の最高位まで上り詰めたガチガチの理系です。
 幼い頃から秀才ぶりを発揮し、13歳の時に古今集の和歌を漢訳したそうです。

 しかし寂聴さんは別の面を見ていて「鴎外は女性と別れると冷たい、そっけない」と言います。
 ドイツ留学の時に知り合った女性(後に小説「舞姫」となります)も、結婚した妻と離縁するときも・・・。
 後年、40歳の鴎外は22歳の志げ(18歳年下!)と再婚します。その際に友人に自慢した言葉は、「少々美術品のような妻をもらった」などとつぶやいています。

 寂聴さんは鴎外の娘の森茉莉さんと親交があり、その話で盛り上がっていました。
 茉莉さんは厳格なイメージの鴎外と違って天真爛漫・破天荒で「こどもがそのまま大きくなったような人」と言われたそうです。

 鴎外の「雁」を取り上げて解説していました。
 高利貸しに囲われて東大近くに住んでいた妾と学生との恋(一歩手前)の物語。
 寂聴さんが語るとあまり面白そうな小説に聞こえてきません(^^;)。
 たぶん、ストーリーよりもその表現や心理描写が優れているのでしょう。

寂聴文学塾第7回「夏目漱石」

2017-10-23 06:19:08 | 趣味
 寂聴文学塾第七回は明治の文豪、夏目漱石です。

 漱石は「吾輩は猫である」で文壇デビューしました。
 そして「坊ちゃん」を発表してその地位を揺るぎないものとしました。

 寂聴さんはこの2作品はあまり好きではないそうです。

 次の作品「草枕」を高く評価しています。
 その有名な冒頭部分、誰でも耳にしたことがありますよね;

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟さとった時、詩が生れて、画えが出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。


 なんだが人生の「生きづらさ」をコンパクトな文章ですべて表現しているようです。
 彼がこの文章を書いたのは39歳の時。
 若くして悟ってしまったのですね。

 寂聴さんは「草枕」の舞台になった熊本県の温泉へ取材で行ったことがあるそうです。
 漱石が泊まった宿、小説の中で主人公が湯に浸っているときに、ナミが突然裸で入ってきたお風呂などのエピソードも紹介しています。

 「草枕」の特徴の一つとして「読者を選ぶ」ことを指摘しています。
 文中にいきなりフランス語の詩が出てきたりして、客(読者)に媚びることをしていない。
 むしろ「このレベルについて来られなかったら読んでもらわなくてもいいですよ」とでも云わんばかり。

 寂聴さんは、夏目漱石を含めた小説家・芸術家を「非日常に生きる人達」と定義づけます。
 みんなと同じ日常生活を送っている人は、人に感動を与え後世まで伝わる作品を残すことはできません。
 しかし「非日常を生き続ける」ことには大変なエネルギーが必要です。
 それに耐えられる人が小説家であり芸術家になれると。

<参考>
夏目漱石の「神経衰弱」とは?(ブログ)

寂聴文学塾第6回「与謝野晶子」

2017-10-23 06:18:26 | 趣味
 寂聴文学塾第六回は与謝野晶子です。
 明治の文壇に嵐を巻き起こした晶子。
 寂聴さん曰く「究極のナルシスト」だそうです。

 性の解放を官能的な短歌で表現しました。
 「みだれ髪」に収められたこの歌は有名ですね;

 やわ肌の 熱き血潮に触れもみで 寂しからずや 道を説く君

 これは与謝野鉄幹に向けた歌だと思われていましたが、寂聴さんの話では違うようです。
 彼女は東京に出てくる前に、堺でも同人誌に参加していました。
 そこに参加していた僧侶に対しての誘惑だったとか。

 今年の夏休みに群馬県水上町猿ヶ京の「三国路与謝野晶子紀行文学館」に行きました。
 そこにこの歌が展示されていました。
 長女に「この女性は明治時代にこんな歌を詠んで世間を騒がせたんだよ」
 と紹介すると、彼女は目を丸くして驚いていました。

 彼女は歌人であり、小説家ではありません。
 ただ、源氏物語を現代語訳しましたので、それも実績の一つ。

 それから生涯夫である与謝野鉄幹(いい男だったらしい)を愛し、子どもを12人産みました。
 うち一組の双子がいて、名付け親は森鷗外(1862-1922)だそうです。

 晶子が世間を騒がせたのは「みだれ髪」の短歌だけではありません。
 戦争に招集された弟に向けてと云う形を取りつつ戦争反対を投げかけた「君死にたまふことなかれ」も大変だったと思われます。
 なにせ「天王は戦地に行かないくせに・・・」なんて言葉があるのです。

  君死にたまふことなかれ   
     旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          
   與 謝 野 晶 子

あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。

堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。




寂聴文学塾第5回「坂口安吾」

2017-10-14 06:26:50 | 小説
 寂聴文学塾第五回は「堕落論」で有名な坂口安吾です。
 安吾は戦後間もなくの頃、太宰治、織田作之助とともに人気作家の1人でした。
 初期は純文学作家、後年は何でも屋の文筆業。
 悪く云えば大衆作家に成り下がり、良く言えば何でも書けた才能の持ち主。
 家族を持ち、子どもも生まれて平和な家庭生活を望みましたが、ヒロポン中毒で入退院を繰り返し、やはり若くして亡くなりました。

 当時の文学者の間にはヒロポンが蔓延していたようです。
 それを使うと徹夜して書き続けても大丈夫、ということでした。
 文筆業を含めて芸術家というのは脳の過覚醒状態をみな経験しているような気がします。
 その時に素晴らしいアイディアが浮かぶので「神が降りてきた」なんて表現されます。
 精神状態は躁うつ病の「燥」ですね。
 つまり、躁うつ病(現在は双極性障害と呼ばれています)が芸術家の資質ではないかと感じることがあります。

 それはさておき。

 以前、TVで坂口安吾の「堕落論」特集を見たことがあります。
 新鮮な驚きはなく、「なるほど」という以外の感想を持てませんでした。
 私は安吾と考え方が似ているのかもしれません。

 寂聴さんは戦後、北京から引き揚げてきてすぐに「堕落論」を読み、大きく影響を受けたそうです。
 価値観が混沌としていてなにをしていいかわからない状況下、ええい堕落してやれと家を出て放浪生活を始めた若かりし頃。
 のちに「安吾賞」という文学賞を受賞した寂聴さんは、受賞記念の挨拶で「私がこの賞をもらったのは、作品の内容ではなくて、生き方が安吾を地で行っていたからです」と話したそうです。


寂聴文学塾第4回「谷崎潤一郎」

2017-10-13 06:48:51 | 小説
 寂聴文学塾第四回は昭和の文豪、谷崎潤一郎。
 文壇でも別格扱いで「大谷崎」と呼ばれていたそうです。

 彼はある三人姉妹の芸者と深く縁がありました。
 長女が営んでいるバーに出入りし、長女を好きになりました。
 しかし長女はすでに人妻で、その長女から次女を紹介されました。
 次女と谷崎氏は結婚しました。
 しかし谷崎氏は3ヶ月で次女に飽きてしまいました。
 そして谷崎氏が目を付けたのは三女です。
 まだ14,5歳の女の子を拉致して自分好みの女性に育てようとしました。
 源氏物語の光源氏と同じことを試みたのです。
 しかし途中で失敗しました。

 上記登場人物の次女は千代、三女はせい子という名前です。
 千代は佐藤春夫との「小田原事件」「細君譲渡事件」の当事者です。
 飽きてしまった千代を佐藤春夫に譲ったのですね。
 当時、大きく社会を賑わせたそうです。
 せい子は小説「痴人の愛」のモデルとなりました。

 寂聴さん曰く、谷崎氏にとって理想の女性とは神か奴隷かのどちらかだったそうです。
 女神として崇め奉り、その女神のわがままを聞いてあげることを無上の喜びとした、と。
 そのような女神を自分で育てて作り上げようとしたのがせい子だったわけです。

 谷崎氏は変人です。
 SとMではMです。
 時に犯罪者すれすれのこともしてきました。

 でも彼の残した芸術があまりにも素晴らしいので、文化人として名を残しました。
 やはり後世に名を残すためには、それまでの社会常識・社会通念を打ち破る行動・生活をしないとダメですね、と寂聴さん。

 寂聴さんは生の谷崎氏に会ったことがあるそうです。
 目黒アパートに住んでいたある年の正月に、知り合いの文学関係者が年始に来たことに乗じて一緒にご挨拶に伺うと、そこには穏やかな表情のお爺さんが座っていて、ちょっと肩すかしにあった感じ、と話していました。

 寂聴さんは、目黒アパートの近くに住む佐藤春夫宅にもお邪魔したことがありました。
 そこには谷崎氏の元妻であり、「細君譲渡事件」(谷崎氏、佐藤氏が連名で新聞広告に出した)の当事者である千代さんがいましたが、若い頃は美人で有名だった彼女がふつうの中年おばさんになっているのを目撃して、ここでも肩すかしを食らった気分になったそうです。
 一方の佐藤春夫はおしゃれで子どもっぽくて魅力的な人物という印象を持ちました。
 
 寂聴さんは晩年のせい子さんとお会いしたこともあるそうです。
 彼女は少女の時に谷崎氏に囲われて理想の女性に育てられるプログラムから逃避して、若い男に走った経歴の持ち主です。
 その時に初めて知った驚愕の事実。
 なんと谷崎氏はせい子さんに生涯お金を送り続けていました。
 彼女が人妻になった後も送り続けていましたというのです。
 「どんな気持ちでお金をもらっていたのですか?」
 と寂聴さんがせい子さんに聞くと、
 「15歳の時に谷崎に犯されたのだから、それくらいしてもらって当たり前でしょ」
 との返答。

 谷崎氏は何度もノーベル文学賞の候補になりました。

寂聴文学塾第3回「三島由紀夫」

2017-10-10 08:02:18 | 小説
 寂聴文学塾第三回は三島由紀夫です。
 自衛隊員を前にして演説をした後、切腹で自死したことは有名ですね(TVでたまにその時の模様が放映されます)。

 寂聴さんは三島氏とも親交がありました。
 三島氏は寂聴さんの3歳年下でしたが、文壇デビューは早く、寂聴さんが小説を書き始めた頃はすでに大物でした。

 はじまりは、文壇デビュー前の寂聴さん(当時は瀬戸内晴美さん)が出したファンレターだそうです。
 意外にも返事が来て、そこには「ふつう読者からの手紙には返事は書きませんが、貴方の手紙はあまりにも面白いのでついつい返事を書いてしまいました」とありました。
 それから、たわいのないやり取りが続きました。
 三島氏にとって寂聴さんは気の置けない話ができる妹のような存在だったのかな(年上ですが)。

 初めて実物に会ったとき、爛々と金色に輝く目とともに、やせて青白くて毛深いという印象が残っており、川端康成同様、“貧相”だったそうです。
 三島氏もそれをコンプレックスに思っていて、あるときボディビルに目覚めたのでした。
 筋肉質のすごい体つきになったら、声まで太くなったことに驚きました。
 「ボディビル前後の“before, after”を目撃した私は貴重な人材ですよ」と聴衆の笑いを誘っていました。

 「禁色」という小説を発表したとき、寂聴さんは衝撃を受けたそうです。
 こんな作品を書いたら後が続かない、三島氏は死んでしまうのではないかと心配する手紙を書いたところ、三島氏自身も「これを書き上げて、もう死んでもいいと思った」と返信。
 ・・・この作品、読んでみたいですね。

 三島氏は森鴎外のファンで、太宰治が嫌いでした。
 実はこの文豪二人のお墓は、東京都三鷹市の禅林寺にあります。
 当時、寂聴さんがこの近くに住んでいて、時々お墓にお参りすることを手紙に書くと、三島氏は「鴎外のお墓に私の分もお参りしてください、太宰のお墓にはお尻を向けて」と冗談めいた記述。

 あるとき、三島氏と寂聴さんともう一人の文学者(名前は失念)を交えて源氏物語論を交わしたことがあるそうです。
 三島氏は「やはり与謝野晶子が良い、谷崎潤一郎は古典の写しで読みにくい」との評価。

 三島氏は右翼で天皇擁護派と思われがちですが、彼と親交のあった寂聴さんの印象は少し異なります。
 彼の考えは、日本という国を憂う若者・青年将校に近かったとのこと。
 寂聴さんの知り合いの旦那さんが自衛隊員で、自決の現場に居合わせました。その彼から後に聞いた話では当時の現場の雰囲気は「三島由紀夫は何をやっているんだ? 彼は気が狂ったのか?」というもので、彼の話に真剣に耳を傾ける自衛隊員はほとんどいなかったそうです。

 三島氏が自決した後、寂聴さんは彼の弟さん(駐ポルトガル大使)に三島氏の話を聞く機会があったそうです。
 三島家は由起夫氏の文学的才能を信じて家族みんなでサポートし、彼を誇りに思っていたことを知りました。また、ノーベル文学賞が川端康成に行ってしまったので、本人も家族もたいそう無念に思っていた、川端氏をある意味恨んでいたと聞かされました。

 寂聴さんは驚きました。
 文学界では三島氏は川端康成の弟子的存在と見なされていたので、そんな複雑な感情があるとは思ってもみなかったのです。
 なにせ、三島夫婦の仲人は川端康成でしたから。

 ノーベル文学賞を川端康成が受賞した際のエピソードは谷崎潤一郎のところでも出てきます。
 このノーベル賞事件は、日本文学界に少なからず波乱をもたらしたようです。
 「もし、ノーベル文学賞を三島由紀夫が受賞していたら、彼は若くして自決することは無かっただろうし、川端康成も晩年あのような死に方をしなかったのではなかろうか」と寂聴さんはつぶやきました。

<参考>
■ 「三島由紀夫 vs 東大全共闘
■ 「大義のために死す

寂聴文学塾第2回「川端康成」

2017-10-10 07:44:38 | 小説
 寂聴文学塾第二回は日本人ノーベル文学賞受賞者第一号の川端康成です。
 寂聴さんは川端氏と親交がありましたので、客観的評価+直にあった人物像も聞けて興味深かったです。

 川端氏は小柄でやせた人(寂聴さんは“貧相”と言ってましたが)。
 しかし眼光鋭く、体の小ささに反比例する大きな目でギョロギョロと見つめられると萎縮してしまう迫力があったそうです。

 彼は「伊豆の踊子」や「雪国」などの長編小説が有名ですが、短編小説の名手でもあり、「掌の小説」などはまねしたくてもできない孤高の境地だとおっしゃっていました。

 川端氏は美しいものが好きでした。
 第一に、美しい女性が好きでした。
 あるとき京都で、寂聴さんが川端氏の仕事部屋を一緒に探す機会があったそうです。
 美しい母子が大家の家が見つかり、寂聴さんは内心(これで決まり!)とほくそ笑んだのですが、川端氏は「ここはダメだ」と意外な返答で「母子が美しすぎて仕事にならん」と笑ってしまう理由でした。

 まあこれだけならふつうですが、女性の各パーツも愛していました。
 声フェチ、手フェチ。
 晩年に「片腕」という小説がありますが、寂聴さんはとても川端氏らしい作品だと解説していました。

 川端氏は宝石も好きでした。
 自宅に宝石商が営業に来ると、「これとこれとこれ」と駄菓子を選ぶように宝石を選んで購入したそうです。
 それも大きな派手なものばかり。

 寂聴さんは、川端氏の言動の端々に「死への願望」を感じていたそうです。
 飛行機に乗ると「この飛行機、落ちないかなあ」などとつぶやく。

 晩年、重度の不眠症に悩まされ、睡眠薬中毒状態だったそうです。
 これは中島らもさんのエッセイでも「川端康成も晩年は麻薬でラリッてた」と読んだことがあります。
 当時はまだOTCで手に入ったという社会事情もあるようですが。

 精神的にボロボロに成徐々に作品が描けなくなる中、「岡本かのこ全集」の序文を書いていただきたいと寂聴さんが間接的に依頼しました。それを別荘で推敲している最中、ガス中毒で自死したというニュースが流れました。
 寂聴さんは以前から死への願望を感じていたので、さほど驚きませんでした。

 川端氏は岡本家と縁があります。
 昔々、岡本かのこの小説の教師として川端康成を迎え入れたそうです。
 そして川端氏の服装を一級品で誂えてくれました。
 川端氏が恐縮して辞退を申し出ると、「一流の小説を書くには、身なりも佇まいも一級品でなければならない」と岡本一平氏が宣う。
 川端氏の一流品好みの源泉は岡本家の影響のようです。

 岡本一平は岡本太郎の父親です。
 岡本太郎は、川端氏が最後に扱った仕事が岡本かのこ全集の序文であったことを知り、たいそう喜んだそうです。
 全集の序文は未完です。