どんなに学問を積んでも見えないものがあります。それは「神は愛なり」という考え方です。人類の歴史や現在の世界を見ると、愛である神様が何故、こんな悲劇を人間に与えるのだろう、神様が人類を愛していれば、こんな悲劇は起きるはずがない、と思います。しかしそれでも神様の愛を信じると、悲劇の中に神の愛が見えてくる場合があります。どんなに時間をかけてみても信じないと見えてきません。確かに歴史を見れば、何故、こんな残酷な事件があるのだろう、神が愛ならば、こんな残酷な事を地上に許すはずがない、と思います。私も海外の暴動に巻き込まれ身近に親しい人が死んでいくのを見ました時に、神は存在するのか、と叫びましたし「神は愛」などとは嘘だと叫びました。しかし今は色々の体験をしましたが、神は愛なり、と信じています。何故でしょうか?信じると見えてきたものがあり、見えた以上、どんな悲劇を見ても神は愛なり、と思えるからです。例えば自分の死ですが、この死は永遠の生命への通過儀礼だと信じますと、現在分からないこれらの疑問は死んだ後に全て分かるだろう、という平安感が優先して私の心を支配してしまうのです。死んでみると生きている時の疑問全てがわかるに違いないと確信してしまうのです。今、分からなくてもいい、と思ってしますのです。それでも神は愛なりと信じていきていこうと明るい気分になるのです。信仰と学問は違います。信じる世界は信仰の世界なので、学問の追求と信仰は全く次元に存在しているようです。
倦怠感の中でも誰でもが所持している魂がそのご主人様の幸せの為にあえてうづかせる場合があります。どういう場合かといいますと、何の為にいきているのか、生き甲斐は何か、死んだらどうなるのかの問題意識を持たせ臨終の時に、あーあ、若い頃から自分の死について、もうすこし真面目に考え居れば、こんなにばたばたしなくてもいいのになあ、と思わせないためです。この永遠の生命に関する領域での哲学問題はなかなか難しいのですが、避けて通るほどにいつまでも倦怠感、生き甲斐喪失問題では長く尾を曳きます。解決は簡単です。魂は愛そのもの、永遠不変なもの、病むこともなく老いることもない、臨終とともに身体から離脱する知的生命体である、という哲学もあるのだ、と思えばそれで十分です。信じると見えてくる世界があります。どんなに学問を積んでも見えない世界があります。信じると見えてきます。信じると見えてくる信仰の世界というものがこの地球にはあるのです。信じると見えてくるもの、信じると見えなくなるもの、恋は盲目、信仰の内容いかんで、恐ろしい問題が起きる場合もありますが、その信じる内容や対象を研究する、これが比較宗教学の面白い所です。
身体からくる倦怠感なのか、成育史からくるものなのか、なかなか識別しにくいものですが、難しく考えないで、ひょっとして年齢からくる生理現象かなあとか、遺伝、環境、老化、自律神経、免疫、分泌からくる何らかの医学的事情かなあ、と考えるだけで、倦怠感の正体が見えてくる場合があります。もやもやするカオスの世界が一番人を駄目にし自信を喪失せしめ希望を持たせてくれません。人格的な意思力の欠場だ、性格が弱い、駄目人間だ等と、自虐的にならないで、とにかく、成育史からか、身体からか、魂からか、と3つの視点から考える習性を身につけると面白いほど、物事が見えてきます。
私の友人でとても解釈の暗い友達が一人います。学生時代の貴重な友人なので、愛想をつかして付き合うのはやめた、というわけにもいかなので、我慢することも多いのですが、とにかく暗いのです。しかしとても優しくて命がけで友達の為に尽くすので結構長続きしているわけです。言い古された例ですが、1本のボトルに半分の水があります。或人はまだ十分にある、と希望を感じるのですが、その友達はもうない、と絶望的に解釈するタイプです。多分、死ぬまでこの傾向は変化しないでしょう。解釈を変えれば人生も明るく解釈できるのですが!
時々「全てが嫌になった、どうしたらいいでしょうか?」と聞かれます。現在の世界の人口は80億人だそうですが、この倦怠感というか、生き甲斐喪失の内容は、80億の種類がありますので個別にキチンと拝聴していかないと「生き甲斐の心理学」では答えようがありません。共通して断言出来る事は、今、その人は全てが嫌になつている事です。嫌になる、という内容は3つの発生源があると言われています。魂からのうづき、成育史からの発信、年齢による身体からのシグナル、この3つのどれから来ているのかなあ、と識別する事から始まります。この3つから来ている事は間違いありませんので、まずは、どれかなあ、と思索開始すると、身体は何となく、その答えのありかを教えてくれます。
大部前のお話ですが、太極拳の仲間が同時に、いつのまにか金剛流の謡曲を練習するようになりました。太極拳仲間で筑波山へバス旅行した時に、その中にお能の先生がおられ、それがご縁で太極拳の仲間が謡曲にも手を出した次第です。「橋弁慶」でしたかが、その練習時間よりもその後のお茶の時間のほが長いのでなかなか私は上達しません。しかし楽しくてたまりませんでそた。お茶の時間の会話の一部は、某所でのテロリストの話になり切ない会話となりました。フランス革命、ロシア革命、その他の事件、何故、このような人質を殺戮するような事件が起きるのだろう、という切ない会話でした。結論は自分達の身近で、それなりに平和構築に努力しよう、という当たり前の結論ですが、遠く離れたアフリカの事件ですが、普通の私達市民に出来る事は、平和解決の為の「祈り」しかないようです。平和の為に祈る、という行為は何か価値がないように言う人もいますが、祈らないり祈るほうが、祈る人自身に恩寵がくだるようです。何も出来ない立場の私が祈ると底知れない力と知恵が湧き出すのです。このようなアフリカでの事件では、何も出来ずに祈るだけですが、今後とも、世界の哀しいニュースに触れた時、祈りをささげたいなあと思いました。
不思議なもので心が或状態になると次から次へと泉が湧き出すように知恵が浮かんできます。これは自分に才能があるからではなく人間の身体に備わっているシステムが自然に働きだすからです。どんな状態かと言いますと、例えば大自然の大地から直接湧き出す温泉につかり周囲の風景に感動している時が、この代表的な知恵が湧き出す事例です。防衛機制が働いてなく心が自由な時に、この泉が湧き出すのです。心が自由、という事は一時的な現象かもしれませんが、何者にも固執していない温泉の気分、この時、または、その後にふーっと気付く知恵が私に大きな幸福をもたらしてくれています。これを恩寵と呼ぶ人もいれば人間の素晴らしい能力と呼ぶ人もいれば色々の神々からの恵みと呼ぶ人もいます。長い人類の歴史を学ぶほどに、この知恵の定義を様々な文化、宗教がサムシンググレートに結び付けて書いています。自分の能力だ、と自慢した途端にその人の人生が破綻していく歴史も面白いです。
今、生きている80億の現代人が全て悔いのない人生を歩めるだろうか?その内の何パーセントが臨終のときに感謝しつつ息を引き取るだろうか?この答えは誰も知らない。しかし知らないといって放置出来るテーマではないような気がします。不可知論だとは理解出来るのですが、身近な友達の悩みを見れば放置できません。何とかしたいと思うのが人情でしょう。これに対する私の答えは「信じて見えてくるもの」以外には無いと確信しています。魂が無いと信じている友人は自分の死とともに世界が消滅する喜びを語ります。しかし死んだ時、もし魂があり、愛である神様に遭遇した時のショックは本当に気の毒です。愛である神様は優しく迎えてくれるでしょうが、私は生きている内から愛である神様を信じて死にたいと思います。信じて死んで、それで何もないならば、それはそれでいいのです。生きている間、死んでも魂があり、愛である神様に出会える喜びを何十年も感じて生きたのですから、それはそれでいいなああ、と思うこのごろです。悔いのない人生を思索する場合、自分が所持する魂を避けると、この「悔いのない人生」という永遠のテーマは、どんな悟りを得ても空しくなる危険がありますので自分の死を正面から見据えた思索をしていただきたいと思います。
ふと不安になる、人はその時、どの道を選ぶのが良いのだろう、と。いつも不思議な想いでこの分岐点を考えています。或時は、なじみの道を選んで歩いたので、心が平安感を感じたまま歩けるのですが、なにか物足りなくて、少々冒険をして別な道を走りだします。そうした冒険をしたばかりに、大失敗して、立ちあがれない時がありました。こうして段々と知恵がついてきて、身分相応の道を選びながら今日に至りました。どの道を選ぶかは、その時の気分と健康度と願望の激しさ、熱のいれようで選んでいるようです。死んでしまいそうな選択と冒険をしたこともありましたが、何とか今日、健康で明るく元気に生きているという事実は、私なりに自分を大事にしてきたのでしょう。これからも、心の病気にならないように、健康を害さないように手探りで少々、冒険をしながら悔いのない人生を選択していきたいと思います。エレミヤの書・6章は、こんな道の選び方を書いていますが、生き甲斐の心理学を真似して書いたのかなあ、と思うくらい古代の人々も同じような事を考えている、と可笑しくなりましたが、考えてみれば欧米で研究した心理療法理論は新旧の聖書が背景にあることを私は改めて確認し、比較宗教学の面白さを再確認した次第です。
あちこちの世界の神話に時々、蛇の話が登場しますし、その脱皮の話を美しく描く神話もあれば、なにか気味の悪い話として書き遺している神話もあります。要は人間はマンネリズムに陥ると碌なころにならないよ、日々新鮮な心でイキイキと生きていこうね、と言いたいわけです。努力してやっと生きざまに安定感を与える指針や哲学を完成させたので、数カ月とか数年はその安定感のまま、堂々と日々を生きていくのですが、自分を取り巻く歴史環境はどんどん変化していきますので、時々立ち止まり点検しないと何となく、あれ変だなあ、と思うようになります。再点検すると「努力して確立した指針・哲学」の一部を、あるいは全部を脱皮させる必用を感じますが、人はそう簡単に新しい人にはなれません。昔の自分の成育史に固執して悶々とする人、サラリと新しい人になれる人、人生は不安が本質だ、という事に改めて気付きます。人間の本質は安定ではなく、不安、という真理を改めて悟り、覚悟します。改めて不安定な自分を安心させてくれている信仰の力に感謝しています。
私の友人のs君は何故か「聖書」という言葉に触れると拒否反応を起こしていましたが、どうも私に内緒で、しこしこと陰で読んでいるようです。特に詩編を愛読し心を慰めているようです。私の大好きな86章は「生き甲斐の心理学」が必死で訴えている「自己実現への道」を子供でも分かるように上手に書いてあり、いつ読んでも人生での自分なりの生き抜く道を示唆してくれています。旧約の時代、特に詩編を書き遺してくれた人々は厳しい時代を生き延びながら、人々がいかに幸福に地球を生きたらいいかを教えてくれています。人類の知恵の宝庫を無駄にしないようにしたいものです。
深大寺の案内書によると733年建立とあります。私の散歩コースに深大寺があります。隣接して東京都経営の神代植物公園があり、そこへの散歩は、私の生き甲斐でもあります。京都・奈良を旅する時も、時々、それぞれの神社仏閣での絵馬を、一枚だけ、ちらりと見させて頂く事にしています。今年、拝見させていただいた深大寺の絵馬には「良い娘婿がきますように」と書かれていました。この言葉から、それを書いた人を巡る色々と人生を想像していますが、この絵馬を書いた方が思い通りになればいいなあ、と思う一方、そのお嬢さんは案外、家を出たいなあ、と考えているかもしれないし、最初は良いと思われた娘婿さんも、その内、家庭を混乱させるかもしれない、人の運命は難しいからなあ、とか考えてしまいました。全国の絵馬での祈りと願いを全知全能の愛である神様は、多分、私とは違う想いで受け止め、大事に見守っているだろうなあ、とも思いました。愛である神様から直接、この絵馬のコメントを聴きたいもの。意思あれば道ありで、心に湧きだす真剣な願望の中には神聖なものがあるようです。
書斎から眺める野川に50-60羽の白鷺が年に数回、集まり、ただひたすら沈黙の内に30分くらいいて、飛び立っていきます。平素は1-2羽が魚を時々食べています。1-2羽の時は、野生の鵜が邪魔をしたり、足元で野鴨がいたづらをすると怒りますが、今回の50-60羽の沈黙の会議では、何をするわけでもなく(魚を食べたり等)、ごちゃごちゃ会話をするわけでもなく、ひたすら沈黙して水の中に静かに棒のように立っているだけなのです。丁度、太極拳の立禅のような姿で。この不思議な光景の意味をどなたか教えていただきたいのですが、私は勝手に解釈しています。その解釈は「存在を五感と体感で確認し、安心して生きていこう」と決意しあう会合ではないかと!五感と体感で互いの愛を、友情を、親子の愛を確認しあう場合、言葉は不要です。一年の間に子供を産んで、その紹介を一族にしているような雰囲気なのです。動物である白鷺も人間も同じだなあ、とこの平和な風景を楽しんでいます。
大部前の想い出ですが、sさんは、昭和2年生まれの元気いっぱいで、かつ、明るく爽やかなSさんは太極拳の仲間でした。その方のお世話で仲間達30名くらいが狛江の某中華店を借り切り新年会が開かれました。当時、「一番若い方は1980年生まれのご夫妻ですが宴会中の私のテーブルでの話題は古代史や、自慢話ではない、それぞれの生きざままでの楽しい会話が展開していました。さて太極拳を愛する身心ともに元気な方が大勢おられたせいもあるのですが、持病があっても病気の話は一切出ませんでしたが、生きるよろこびを追求する情熱に感動しました。好奇心が強く、それぞれが大好きな分野の勉強を楽しみ、かつ、この太極拳には、義務感からではなく強い興味に揺り動かされて精進している集団です。色々の哲学や宗教をもった人々の会合でしたが、共通の趣味である太極拳の仲間達が繰り広げるこの雰囲気に、こんなひびの幸せもあるのだなあ、と感謝しつつ帰宅した一日でした。太極拳ばかりでなく、健全な精神は軽やかな運動と心の明るい仲間たちからいただけるのだなあ、と感謝しました。
動物も植物も死を迎えます。その死の理由は医学・生物学に答えを求めて下さい。比較宗教学・比較文化での答えもエリアーデの「世界宗教辞典」のそれぞれの宗教の原理から皆さまが思索してその答えを自分で探して下さい。私の信仰は私にこう答えを与えてくれています。愛そのものである三位一体の神様に会う為に私は死にます。これだけの事です。長い厳しい人生を明るく逞しく生き抜いて最後に優しく親切で愛そのものである神様の所に私はまっすぐ飛んでいきます。信仰の力は他者から見ると大バカ者に見えるかもしれませんが私の信仰は私の死を楽しいものとして解釈させているのです。何度も死にかけた海外での事件や暴動での死への経験を通してもなお、私はこの信仰はゆるぎません。時々はぐらぐらしますが静かに黙想すると直ぐこの愛である神様への信頼がまた湧き出すのも恩寵なのでしょう。あとは本当の臨終の時に私がどうなるか、それはその時の事です。しかしこの愛である神様の所にまっすぐ飛んでいきたい、という願望は消える事がありません。