「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その2)」
では、龍馬の身辺に「菱屋」と云う商家が無かったかと云うと、さにあらず。
龍馬が、海援隊士にあってその商才を認めた陸奥元二郎(後の伯爵陸奥宗光)に
宛てた手紙(慶応三年十月二十二日付)に次の下りがある。
“御案内の沢やの加七と申候ものゝ咄、是ハ御手下のひしや某が聞得所なり。
(以下略)”
要は、沢屋加七が仙台の国産品を一手に引き受けて商売をしたいので、その元手
となる一万両を出してもらいたいと龍馬に言ってきているが、商法のことは陸奥
にまかせているから、陸奥がうんと言えば金のことはなんとかすると答えている。
でも大金ゆえよく思案しろ云々といった内容。
そして沢屋加七は陸奥の商売の関係者でもある菱屋某から聞き得たものと付言して
います。龍馬も菱屋のことは知っている口振りです。
川田瑞穂は、岩崎鏡川からの依頼で移転時期を聞き取り調査をした(大正6年9月)
のですが、その鏡川自身が『坂本龍馬関係文書』(大正15年4月)の中の「坂本と
中岡の死」と題する事の顛末を記したノンフィクションとも云える小説において、
いろいろと調べた結果なのでしょう、以下のようにそれを改めています。
“前年伏見寺田屋に於ける遭難以来、龍馬の一身は幕吏の指目其之く所に随ひ、危
険いふ許りなかりければ、藩邸の胥吏堀内慶助(後良知)はこれを憂ひ近江屋新助
に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。”
胥吏(しょり)は、地位の低い役人のこと。龍馬は10月24日に京を立ち、福井か
ら帰ってきたのは11月5日のこと。
この出所を鏡川は、井口新之助としています。川田の聞き取り調査の後に調べた
か思い出したかしたのでしょうか。