大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋111-1

2023-09-21 22:25:25 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その1)」

通説では、龍馬が暗殺された醤油商「近江屋」とされていますが、果たしてそうなの
でしょうか。
そのときに龍馬とともに大政奉還の一報を聞いた戸田雅樂(26歳、後の男爵尾崎三良)
は、最初は「菱屋某」という名の酒造商であったとしていましたが、川田瑞穂の聞き
取り調査により、三条、四条にはそのような名の商家が無かったことから、それ以前の
談話の速記録みならず、尾崎の書き残したものまで「近江屋」に書き改めてしまってい
ます。
それは「男爵尾崎三良手扣」と題する尾崎の手控えに括弧書きで以下のように記されて
いることから分かるのです。
“小沢庄次(尾崎三良)、坂本龍馬、中島作太郎、岡内俊太郎等ト共二、河原町三条下ル
醤油屋某方(尾崎男爵ガコノ醤油屋を最初菱屋某と称セル為メ二大二紛淆ヲ生ゼシガ、
川田瑞穂氏ノ調二ヨリテ確然判明セルコト(以下略)”
 川田瑞穂が聞き取り調査した相手は、龍馬が暗殺された当夜、龍馬の使いで軍
 鶏を買いに出ていて難を逃れたとされる菊屋峰吉(聞き取り時は鹿野安兵衛)、
 近江屋の井口新之助(近江屋新助の息子)、材木商「酢屋」(海援隊の屯所)
 の中川嘉兵衛ですが、当時幼かった新之助(4歳)を除く他の二人(峰吉17歳、
 嘉兵衛14歳)がそれぞれ「半年くらい前」、「せいぜい2、3か月前」と証言して
 いることから、川田瑞穂は、龍馬は酢屋から近江屋への転居が慶応三年春夏以後で
 あり、尾崎三良の云う「菱屋」は誤りであるとしている。
 なお、ここで云う大政奉還の一報とは、慶応3年10月13日に二条城において在京
 の10万石以上の諸藩重臣からの意見を求める形で将軍慶喜が政権を朝廷へ返上
 する意向を表明したことをそこに参加してしていた後藤象二郎からの通知(手紙)
 で知ったことを指します。
 
でもね、聞き取り調査で鹿野安兵衛が次のようなことを云っているのを聞き捨て同然に
している。
“尤モ四条下ル東側二酒造業菱屋利右衛門と称する者アリ、随分立派ナル家ニテ、維新
後藤村紫朗ガ京都府大参事タリシ時分、此隠居所に下宿シ居タルモ、維新前に浪人
ノ下宿シタル模様ナシ。”
えー、これって聞き捨てできない、近江屋説を覆すだけのインパクトのある証言ですよね。
何も三条、四条に限定する理由なんてありゃしませんから。
 龍馬は、元治元年6月5日夜に起きた池田屋事変当時、方広寺南門前の河原屋五兵衛
 宅に潜伏していたことがある。方広寺は七条通より南に位置する東山にある。

(続く)

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