「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その3)」
戸田(尾崎)は、大宰府に落ち延びた三条実美の家士で、実美の命により、情勢
探索のために長崎へ出て龍馬と知り合いになり、途中長州に上陸したり土佐に上陸
したりと寄り道をしながら、土佐藩船で大坂に到着し、入京したのが10月9日のこと。
同船した者に海援隊の陸奥、中島作太郎(後の男爵信行)と二三人の隊士、
そして土佐藩士岡内俊太郎がいましたが、入京した中島(明治32年3月歿)も
岡内(大正4年9月歿)も、長州に残った陸奥(明治30年8月歿)も、川田の聞
き取り調査対象とはなり得なかった。
岡内は、この間の模様を長崎にいる大監察で土佐商会の責任者であった佐々木
三四郎(後の伯爵高行、明治43年81歳で歿)に手紙(慶応3年10月14日付)で
報告している。そこには、“龍馬は作太郎ト共二木屋町に宿し、戸田は知人の宅
へ参り、私は藩邸内に止り申候。翌日、龍馬、作太郎、私参人共に白川邸へ参り、
石川清之助を訪問し、昨今の時情を聞き(中略)坂本より後藤殿へ手紙出し候模
様聞合せ置候処、左の如く急使を以て申来候。其写し左に、私持ち居り候。”と
あります。
後藤象二郎からの手紙は、龍馬が死ぬつもりで二条城での大政奉還の場に臨めと
檄を飛ばした手紙(10月13日付)への返書で、さらに岡内は夕刻に至って、慶喜
が大政を朝廷に返上することを表明し、明日14日に奏聞、翌々日15日に参内し、
勅許を得て、すぐに政事堂を仮に設け、上院下院を創業する運びになった旨を後藤
が手紙で知らせてきて、その写しも持っていると書いているところからして、岡内
も龍馬や戸田と一緒の場にいたことが推察できるのですが、その場所については一
言も触れていません。
なお、「木屋町に宿し」とあるのは、海援隊の屯所である酢屋のこと。石川清之助
(石川誠之助)は陸援隊隊長の中岡慎太郎のこと。
戸田は大政奉還の報に接するや、同月16日に龍馬に新官制擬定書と後に称されること
になる新政府の職制案を示し、実美への復命のために(長崎へ向かう中島と同行して)
同月19日に大坂から薩摩藩船に便乗した。
この船には討幕の密勅(偽勅)を携えた小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助が乗っ
ていた。
先の岡内が佐々木に宛てた手紙では、中島はイロハ丸海難事故の賠償金の件で長崎
へ行くことになった、自分は龍馬と打ち合わせた上で変事を避けることは難しい旨
の一報を国元の同志に急いで報じるために明日15日に京を立つと書いています。
京に出て大政奉還という大事件に接した戸田がそれを聞き知った場所を忘れる筈がない
と思うのですよね。しかも四条下ル東側に菱屋という酒造業があるとの峰吉の証言もある。
隠居所か酒造店かは定かではありませんが、龍馬とも昵懇の間柄なら、短期間(二週間
ほど)の逗留なら許されただろうし、それなら下宿とは見なされない。
酢屋は屯所で、四五人が加わるには手狭だったのかも知れません。それで顔見知りの
菱屋を選んだのかも知れません。取り敢えずの逗留ならば、岡内がその名を佐々木に
知らせることがなかったのもうなずける。
第一、長いこと近江屋を下宿にしていたなら、龍馬のことだから郷里の乙女に連絡先
を知らせただろうに、その形跡は一切見つかっていない。