小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

医者嫌い

2008-08-06 01:37:30 | 医学・病気
 私は、だいたい医者が嫌いである。
ちょうど去年の夏、レンタルバイクに乗っててダンプにはねられ、転倒した。勿論、過失割合は相手が100%である。そのため、一夏を棒に振ることになった。ダンプの運転手の態度もあきれた。バイクの転倒など、たいしたものではないと思っているのだろう。脊髄を損傷したら、もう一生車椅子である。それとバイクの転倒で怖いのは、腕神経叢引き抜き症候群である。手のつき方が悪いと腕神経叢が切れてしまうのである。切れたらつなぐ事は出来ない。こうなると片手は完全に麻痺してダメになってしまう。そこで、脳神経の副神経というのを腕の神経につなげようとするのだが、もちろん、力は極めて弱くなり、半麻痺になる。私はそうなった人を大学の整形外科のポリクリの時、見ている。そういう知識があったから、無理に手をつかず、おかげで、きたない傷跡は出来てしまったが、障害者にはならずにすんだ。こっちが安全運転してても、あらくれ運転手がいるから、もう怖くてバイクには乗れない。バイクに乗る人は夏でもツナギを着た方がいい。ツナギを着ていれば、非情に安全である。ツナギがカッコ悪くてウザッたいと思うなら夏でもジーパンに長袖を着た方がいい。
さて、救急車で市民病院に運ばれ、治療を受けた。傷が大きく通院することになった。まあ、障害者にならずにすんだので、よかったと思うべきだろう。形成外科に通うことになった。そして、数日後のある夜、傷が痛くなって耐えられないほどになったので、市民病院に行っていいか、電話した。そしたら、今日は当直は小児科の医師だから、我慢して明日来て下さい、と言われた。私は、これは蜂窩織炎を起こしているのではないか、と思った。痛みがあまりにも耐えられないので、とうとう119に電話した。そしたら、今日の市民病院の当直医は、小児科医ではなく形成外科医だとわかった。市民病院に電話して車で行っていいか聞いたら、なんとも、ナマクラ返事でまた断られた。
あきれたものである。当直で形成外科医がちゃんといるのに、面倒くさいから、いないとウソをついていたのだ。
市税でホテルのように綺麗で立派な病院なのに、実情は、市民病院で親方日の丸なので、経営感覚ゼロの赤字垂れ流しのいいかげんな病院である。こんなとこで治療を受けたくないから、翌日は茅ヶ崎徳州会病院に車で行った。徳州会なら信頼できるからだ。診断は、やはり蜂窩織炎だった。抗生剤の点滴で激痛はスーとひいた。
日本で人身事故は加害者天国であることもわかった。
治療のため、また市民病院の形成外科に行った。主治医を交代することになった。当然だろう。ウソついてあわせる顔などあるはずがない。その医師に、その後、数回、待合室で会ったが、頭をかきながら、どうもどうも、などとヘラヘラ笑っている。主治医が替わって、今度はまともな医者だろうと思ったら、これもまた、阿呆だった。蜂窩織炎が起こっても、症状が軽ければ抗生剤は投与しない方針である、などと言っている。阿呆である。耐えられないほどの激痛だから、夜中でも電話したんじゃないか。他にも質問するとまた阿呆な事を言う。入院時の検査でCK(クレアチンキナーゼ)が、高かったのは、筋の挫傷のためですか、と聞いたら、睡眠薬を飲んでいる人は、なぜかCKが高い傾向がある、などとおかしな事を言う。そんな事、はじめて聞いた。精神科でそんな事、聞いた事など一度もない。睡眠薬の知識は、当然、精神科が一番詳しく知っている。分厚い薬の副作用の本にも、そんな事、どこにも書いてない。かかりつけの内科医院に行って採決してみたが、やはりCKは正常値だった。逆に精神科医なら誰でも知っているが、患者が激しくあばれるとCKは容易に上がるのである。
おそらくデタラメか、一度、どこかで誰かが言ったのを聞いた事がある程度で、根拠などろくにないデマカセの発言である。
こういう風に人格もおかしく、そのくせプライドだけは強いヤツが医者には多いのである。
だから私は医者が嫌いなのである。

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鈴木宗男

2008-08-06 01:27:23 | Weblog
 鈴木宗男議員が疑惑をかけられた時、私は彼に好感を持った。私はイデオロギーとは関係なく、一対百のケンカが出来る人が好きだからである。また哲学者というのは偏屈な人間で世間が黒だと言うと白だと言いたくなり、白だと言うと黒だと言いたくなるのである。政治家は清濁あわせ持つが、なかなか濁の部分を、直視できず、目をそらしがちなものである。そこは、自分は善人であり、悪は無いという欺瞞が、政治家といえども起こるから、あいまいな感覚になるのである。氏の魅力は、そこを曖昧な感覚にせず、はじめから清と濁を直視して、行動してきた所にある。彼は欺瞞の無い稀有な政治家なのである。そのバイタリティーすごさにも魅力がある。また繊細なデリケートさとクソ度胸をあわせ持っている人間というのもめったにいない。こういう人間はめったに出てこないだろう。政治家にありがちな、他人をネチネチ非難する嫌らしさもない。彼はどんな逆境におちいっても、弱音など起こらず、戦い抜くのが当然、という感性の人間なのである。
今は、世間は彼を非難しなくなったから、今度は彼を非難しよう。
哲学者というものは偏屈な人間で、世間が黒だと言うと白だと言いたくなり、白だと言うと黒だと言いたくなるのである。
彼は、自分から申し出て賄賂を受けた事は一度もない、すべて自分の人徳と実力のために他人の方から請託してきた、というような事を言っていたが、これは全く滑稽である。確かに、それはその通りで、彼は自分から申し出て賄賂を受けた事は一度もないだろう。
しかし、これはこんな風にたとえられる。
女が男にウインクして色目をしたとする。男は当然、誘いだと思うから、その気になって女に近づいて言い寄るだろう。この場合、確かに、先に声をかけたのは男の方である。確かに女は、はじめに男に何も言っておらず確実な意思表示をしていないから、声を先にかけたのは男の方である。しかし、これをもってして女が、先に声をかけたのは男の方だと本気で主張したとしたら、その図はあまりにも滑稽ではないか。

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高市早苗

2008-08-06 01:24:15 | Weblog

 最近、You-Tubeをよく見るようになった。その中で、時々、びっくりするものを見つける。
国会議員の高市早苗と田原総一郎が、サンデープロジェクトで中国の侵略について討論しているのがあった。あれは有名だから知ってる人は多いだろう。田原は、満州事変以後は侵略戦争だ、と主張したが、高市氏は、セキュリティーのための戦争だった、と主張した。まあ、そう思っているのなら、それはそれで一つの思想としていいだろう。私が驚いたのは、その後、高市氏が、「当時の政権が決定した事について後世の国会議員が判断する資格はない」と発言したことである。私は吃驚した。彼女は国会議員とは何かという事がわかっていない。国会議員とは、国家の方針を決定する権限と責任を持っている、また、持たねばならない唯一の公人なのである。それが国会議員の定義である。これは与党、野党、内閣などの立場に関係なく、全ての国会議員が持たなくてはならない責任なのである。この発言は、その責任の放棄である。というより彼女は国会議員の定義がわかっていないのである。もちろん議員は、外交、防衛、経済、その他、あらゆる事に知悉できるものではない。し、知悉しなければならない義務もない。特にタレント議員などはそうである。しかし、問われたら、答えなくてはならない責任はあるのである。わからなければ、有能な公設、私設の秘書に調べさせたり、専門家に聞けばいいのである。そこは、餅は餅屋で、歴史問題については、議員の理解なんかより、大学の歴史学の教授の方がはるかに上である。しかし大学教授には国政に関しては何の権限もないのである。権限と責任を持っている、また、持たねばならないのは、唯一国会議員なのである。このくらいの事はタレント議員でも理解できるはずである。ましてや彼女は、松下政経塾まで出ている。全く理解に苦しむ。完全な平和ボケで戦争など自分と関係ない他人事という感覚なのだろう。時代が進めば、ますます戦後生まれの議員が多くなる。ああいうおかしな議員が出てこないよう願いたい。

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