何か、宝くじのCMで、石橋貴明の真似をしているような人がいた。全然、面白くない。石橋貴明のちょっと傲慢な喋り方は、彼の性格からきている。自然体である。そして、それが彼の魅力である。かなり前に、木梨憲武の真似をしているようなのもいた。これも面白くない。学ぶ、は、「まねぶ」であり、つまり、真似をすることから始める。しかし、学問とお笑いでは違う。お笑いでは自分のキャラクターを研ぎ澄まして、それを表現しきった者が面白い。自分の本質にないものを真似ようとすると、逆効果である。「あ。あいつ。真似してる」と人に嫌われかねない。ただ真似が全て悪いわけではない。松田優作を知って、その後、原田芳雄を知ったら、何だか、原田芳雄は、松田優作そっくりで、松田優作の真似をしているのではないか、と思った。しかし事実は逆だった。松田優作が原田芳雄にぞっこん惚れ込んで、彼の喋り方の真似をしたのだと知った。しかし、だからといって、松田優作にオリジナリティーが無いかというと、それは全くの逆で、彼の個性は本物である。これは。つまり、原田芳雄は、松田優作が求めていたものであって、松田優作は自分の個性をより洗練させることが出来たからである。しかし原田芳雄がいなくても、松田優作は、優れた表現者だから、かわりはなかったのではないか、とも思う。大切なのは、自分の個性に無いものを真似ても失敗になるだけであり、自分の個性にあり、それをより研ぎ澄ませるようなものを自己表現の手段として取り入れることである。
You-Tubeで中川翔子、主演、監督の「しょこたん怒りの鉄拳」を見つけた。ブルース・リーは、男だけでなく女の子のファンも結構いる。しかし女の子なら、マリア・イーとか、ノラ、ミャオになりたい、と思ってもよさそうなものとも思うが、自分がブルース・リーになりたいと思ってる女の子はめずらしい。ように思う。死亡遊戯の黄色のトラックスーツまで祖父に頼んで、四着も買ってもらったというのは、相当のマニアである。ヌンチャクを舐めるクセまで真似している。ブルース・リーは、ヌンチャクとか、自分の血を舐める変なクセがある。しょこたんの、「怒りの鉄拳」でのお気に入りの場面は、ラストの真剣を持った鈴木とヌンチャクを持ったブルース・リーの一対一の戦いだそうだ。あれで、リーはヌンチャクを戦いの後半で捨てているが、それは、怒りが高まったためでなく、鈴木が真剣を落してしまったからからである。素手の相手には、武器を使わず、素手で戦うという男らしさをリーは表現しているのである。鈴木の道場に殴りこみをかけ、門下生全員を相手にした時には、相手が素手でも、リーはヌンチャクを使ったが、これは数からして卑怯ではない。門下生全員がやられた後、メガネをかけた太った師範代と一対一の戦いになった時には、リーはヌンチャクを捨てて、対等な素手どうしの条件で戦っている。武術的に言えば、これはおかしい。有利な武器があったら、それで相手を威嚇して、降参させればいい。あるいは、逃げるかである。武術という観点からすれば、戦わずに勝つのが一番である。相手も自分も傷つかない。卑怯ではあるが。しかし、ああいうスポーツマンシップは、入れないと映画をつくれない。そうしないと主人公が卑怯者になってしまう。「怒りの鉄拳」のラストもお気に入りのシーンのようだが、あれは、蹴るためにジャンプした状態である。しかし、「怒りの鉄拳」のラストは、警官の発砲音が聞こえた時点で、もうリーは死ぬとわかっている。威嚇射撃でもあるまい。それにしても、警官の発砲は危険である。流れ弾で後ろに控えているノラ・ミャオ達に当たる危険がある。私が、「ドラゴン怒りの鉄拳」で一番好きなシーンは、「東亜病夫」の紙を門下生二人に食わせ、「オレの言う事をよく聞け。いいか。一度しか言わんぞ。オレ達は・・・弱者じゃない」と言って去っていく場面である。私は物真似はしてみたいとは思うが、他の人間になりたいとは思わない。私は、私というものを極めたい。人間は意志によって自分をいくらでも高められる。