最近はどうか知らないが、子供の頃から、(特に)女の子にピアノを習わせる家庭が結構あった。それは何のためか。習わせている親の目的はわからない。親によって違うだろう。ある親は、女子のたしなみのため、女の子が大人になった時のエレガントな特技のため、結婚に有利になるようにするため、礼儀正しさを身につけさせるため、一芸を身につけさせるため、いずれ学校では音楽の授業があるから、その準備のため、あるいは、あわよくば素質があればピアニストにするため、等々が考えられる。のではないだろうか。しかし、それらは女の子にピアノを習わせる本当の目的ではないのである。ピアノを習わせる本当の目的。それは、「頭をよくする」ためである。人間は手と頭が連動しているから、手先でピアノを器用に弾けるようになると、頭を良くする効果があるのである。その他の目的は副産物に過ぎない。
これは何もピアノに限った事ではない。中学から英語を学ぶ本当の目的は、「頭を良くする」ためなのである。英語は国際語だから、どんどんグローバルになっていく国際社会のために、英語を話せることは実用上、必要不可欠だから英語を学ばせているのではないのである。それは英語を学ぶ結果、身につく副産物なのである。
「小さな恋のメロディー」で、オーンショーが、ラテン語の予習をしなかった理由を先生に聞かれて、先生に、「ラテン語は時代遅れの言語ですから」「死んだローマ人とは会話が出来ませんから」という理由を言って先生に叱られた。これと同じなのである。実用的に役に立つから、という理由で学ばせているのではないのである。日本では中学から、母国語である日本語いがいの、外国語を学ぶことになっているが、それはラテン語でも中国語でも構わないのである。しかし文部科学省は、どうせ学ばせるなら、実用的にも一番、役に立つ、英語を選んでいるのに過ぎない。のである。しかし実際の所、文部科学省がどう考えているのかは、わからない。結構、オーンショーと同じように、実用に役に立つから、というのが第一目的と考えている人も多いと思う。
さて「頭を良くする」というのは、かなり荒削りな言い方である。正しくは。人間には、脳に無限の可能性がある。英語にせよ、何にせよ、学ぶということは、人間の脳の無限のキャパシティーの内の小箱の一つを開いて鍛えているだけに過ぎない。別に英語を学んだからといって、それが他に応用できるわけではない。数学を学んだからといって、論理的に物事を考えられる人間になるわけでもない。社会科系の学問、たとえば歴史を学べば、これからどう生きるべきか、という有力な武器になる。将来どうすべきかを考える時、過去の教訓は非常に有効な武器となる。だから社会科系の学問は、福沢諭吉の言う実学である。また歴史には必然性があるから、歴史を学ぶということは形而上学をも学んでいることになる。これは歴史に限らない。しかし、基本的には、学校教育で定めている学科を学んでも、他のことに応用が効くわけではない。
では、なぜ、人間は頭を良くする必要があるのか。それは私にもわからない。ただ、頭を鍛えないより、頭を鍛えた方がいいとは、(感覚的レベルで)正しいことだと確信している。
これは何もピアノに限った事ではない。中学から英語を学ぶ本当の目的は、「頭を良くする」ためなのである。英語は国際語だから、どんどんグローバルになっていく国際社会のために、英語を話せることは実用上、必要不可欠だから英語を学ばせているのではないのである。それは英語を学ぶ結果、身につく副産物なのである。
「小さな恋のメロディー」で、オーンショーが、ラテン語の予習をしなかった理由を先生に聞かれて、先生に、「ラテン語は時代遅れの言語ですから」「死んだローマ人とは会話が出来ませんから」という理由を言って先生に叱られた。これと同じなのである。実用的に役に立つから、という理由で学ばせているのではないのである。日本では中学から、母国語である日本語いがいの、外国語を学ぶことになっているが、それはラテン語でも中国語でも構わないのである。しかし文部科学省は、どうせ学ばせるなら、実用的にも一番、役に立つ、英語を選んでいるのに過ぎない。のである。しかし実際の所、文部科学省がどう考えているのかは、わからない。結構、オーンショーと同じように、実用に役に立つから、というのが第一目的と考えている人も多いと思う。
さて「頭を良くする」というのは、かなり荒削りな言い方である。正しくは。人間には、脳に無限の可能性がある。英語にせよ、何にせよ、学ぶということは、人間の脳の無限のキャパシティーの内の小箱の一つを開いて鍛えているだけに過ぎない。別に英語を学んだからといって、それが他に応用できるわけではない。数学を学んだからといって、論理的に物事を考えられる人間になるわけでもない。社会科系の学問、たとえば歴史を学べば、これからどう生きるべきか、という有力な武器になる。将来どうすべきかを考える時、過去の教訓は非常に有効な武器となる。だから社会科系の学問は、福沢諭吉の言う実学である。また歴史には必然性があるから、歴史を学ぶということは形而上学をも学んでいることになる。これは歴史に限らない。しかし、基本的には、学校教育で定めている学科を学んでも、他のことに応用が効くわけではない。
では、なぜ、人間は頭を良くする必要があるのか。それは私にもわからない。ただ、頭を鍛えないより、頭を鍛えた方がいいとは、(感覚的レベルで)正しいことだと確信している。