私が北杜夫の作品で最初に読んだのは、「奇病連盟」である。絶版になっているが最高に素晴らしい。北杜夫は、「楡家の人々」を三島由紀夫が、そのユーモアと詩情を評価して、「これが小説なのだ」と絶賛した。三島由紀夫も北杜夫も、トーマス・マンの熱烈な愛読者で、そこに共通点がある。三島由紀夫の「鏡子の家」は、日本では、不人気だった。何人もの登場人物が出て、誰が主人公かわからず、登場人物間に関係性もなく、各登場人物が、勝手に行動していて、小説全体としてのストーリーがまとまっていないのが、不人気の理由だろう。しかし、これこそが、トーマス・マンや、北杜夫の「楡家の人々」の小説形式なのである。唯一人、文芸評論家の奥野健男氏は、戦争を経験した世代だから書ける、死がモチーフの小説と絶賛しているが、これは、的外れである。三島由紀夫は、性的倒錯者であり、性的倒錯者でないとあの小説は、変な理解のされ方をされてしまう。
さて、北杜夫の「奇病連盟」で私が感じた、氏の凄さは、氏のナンセンス性である。何というナンセンスさ。三島由紀夫もニヒリスト的な所があった。ナンセンスというと、聞こえが悪いが、つまり、「無」を知っている、ということであり、人生が終局的に、無であるという自覚を持っている人ほど、達観した人はいないと私は思っている。
ちなみに、北杜夫は、今、うつ状態だが、その原因は、内因的なものもあると思うが、氏の腰痛の激痛が原因だと確信している。
ちなみに、氏の娘さんの斉藤由香さんは、若い時は美人だったが、歳をとるにつれて、父親の北杜夫に似てきた。子供の頃は、親に似てないのに、大きくなるにつれ、親に似てくる、というのは、あまり、どころか全然、嫌いである。
さて、北杜夫の「奇病連盟」で私が感じた、氏の凄さは、氏のナンセンス性である。何というナンセンスさ。三島由紀夫もニヒリスト的な所があった。ナンセンスというと、聞こえが悪いが、つまり、「無」を知っている、ということであり、人生が終局的に、無であるという自覚を持っている人ほど、達観した人はいないと私は思っている。
ちなみに、北杜夫は、今、うつ状態だが、その原因は、内因的なものもあると思うが、氏の腰痛の激痛が原因だと確信している。
ちなみに、氏の娘さんの斉藤由香さんは、若い時は美人だったが、歳をとるにつれて、父親の北杜夫に似てきた。子供の頃は、親に似てないのに、大きくなるにつれ、親に似てくる、というのは、あまり、どころか全然、嫌いである。