小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

知ったかぶり

2016-01-15 23:30:54 | 考察文
世事、物事をよく、知っている、と、思われている人、や、知っていると、自分で思っている人、は多い。

そういう人は、外向的で、社交的、な性格で、友達も多く、友達とよく話し、情報の源は、友達との、会話から、という場合が多い。

確かに、一人でも、親しい、よく話せる友達がいると、その人から、世界のことは、何でも、聞けてしまえる。

人間は、自分の視点で、世界を認識しようとしているから、一人の人間の、持っている知識量は、莫大な量である。

だから、一人の友達を、作れるか、作れないか、ということは、非常に大きい。

しかし、会話で得た、知識なんて、いい加減な物が多い。

友達の知識の信頼度なんて、あてにならないからだ。

情報源の信頼性が、いい加減だからだ。

人間は、正確に、わからないことでも、自分の憶測や、極めて、わずかな見聞から、話してしまう。

それを、あたかも、事実と、受け止めてしまう。

友達との会話で得られる知識も、大事だし、友達が多い人ほど、有利だが、疑うこと、自分で調べること、を、おろそかにする人は、「オレは何でも知っている」、と思い込んでしまいやすいが、実際のところは、「知ったかぶり」、人間に過ぎない。

その点、友達がいない人間は、本や、ネットなどで、自分で、知ろうとする、というか、自分で調べるしか方法が、ないから、自分で調べる、という習慣が、嫌がうえでも、身につくという利点がある。

内向的な人間も、他人に聞くこともあるが、あくまで、情報収集の手段として、意志的、能動的に、しているので、精神の根底に、「本当かな」という、疑いの気持ちがあるから、聞いたことは、鵜呑みに信じなく、人から聞いた情報を、他の情報源と、比べて吟味する。

本を読まず、ネットで調べず、友達との会話で、物事を知っていて、それ以上のことは、面倒くさくてしない人は、自分で調べる、という態度がなくなっていきやすい。面が非常にある。

というか、それは、もう、事実である。

だから、僕から見ると。

世間は、常識(常識は真理ではない)と、言われている、極めて曖昧な認識で、つながっている、人間の集団の共同体(烏合の衆)に見えてしまう。

そして、何と、自分で調べようともしない、物事を疑おうともしない、自分で物を考えようともしない人間ばかりに見えてしまう。

し、実際、そうである。

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